26.1 或る 女
「 水戸 と か で お 座敷 に 出て いた 人 だ そうです が 、 倉地 さん に 落 籍 されて から もう 七八 年 に も なりましょう か 、 それ は 穏当な いい 奥さん で 、 とても 商売 を して いた 人 の よう では ありません 。 もっとも 水戸 の 士族 の お 娘 御 で 出る が 早い か 倉地 さん の 所 に いらっしゃる ように なった んだ そう です から その はず で も あります が 、 ちっとも すれて いらっしゃら ないで いて 、 気 も お つき に は なる し 、 しとやかで も あり 、……」・・
ある 晩 双 鶴 館 の 女将 が 話 に 来て 四方 山 の うわさ の ついで に 倉地 の 妻 の 様子 を 語った その 言葉 は 、 はっきり と 葉子 の 心 に 焼きついて いた 。 葉子 は それ が 優れた 人 である と 聞か さ れれば 聞か さ れる ほど 妬ま し さ を 増す のだった 。 自分 の 目の前 に は 大きな 障害 物 が まっ暗に 立ちふさがって いる の を 感じた 。 嫌悪 の 情 に かきむしられて 前後 の 事 も 考え ず に 別れて しまった ので は あった けれども 、 仮にも 恋 らしい もの を 感じた 木部 に 対して 葉子 が いだく 不思議な 情緒 、―― ふだん は 何事 も なかった ように 忘れ 果てて は いる もの の 、 思い も 寄ら ない きっかけ に ふと 胸 を 引き締めて 巻き起こって 来る 不思議な 情緒 、―― 一種 の 絶望 的な ノスタルジア ―― それ を 葉子 は 倉地 に も 倉地 の 妻 に も 寄せて 考えて みる 事 の できる 不幸 を 持って いた 。 また 自分 の 生んだ 子供 に 対する 執着 。 それ を 男 も 女 も 同じ 程度 に きびしく 感ずる もの か どう か は 知ら ない 。 しかしながら 葉子 自身 の 実感 から いう と 、 なんといっても たとえ よう も なく その 愛着 は 深かった 。 葉子 は 定子 を 見る と 知ら ぬ 間 に 木部 に 対して 恋 に 等しい ような 強い 感情 を 動かして いる のに 気 が つく 事 が しばしば だった 。 木部 と の 愛着 の 結果 定子 が 生まれる ように なった ので は なく 、 定子 と いう もの が この世 に 生まれ 出る ため に 、 木部 と 葉子 と は 愛着 の きずな に つなが れた のだ と さえ 考えられ も した 。 葉子 は また 自分 の 父 が どれほど 葉子 を 溺愛 して くれた か を も 思って みた 。 葉子 の 経験 から いう と 、 両親 共 い なく なって しまった 今 、 慕わ し さ なつかし さ を 余計 感じ させる もの は 、 格別 これ と いって 情愛 の 徴 を 見せ は し なかった が 、 始終 軟らかい 目 色 で 自分 たち を 見守って くれて いた 父 の ほう だった 。 それ から 思う と 男 と いう もの も 自分 の 生ま せた 子供 に 対して は 女 に 譲ら ぬ 執着 を 持ち うる もの に 相違 ない 。 こんな 過去 の 甘い 回想 まで が 今 は 葉子 の 心 を むちうつ 笞 と なった 。 しかも 倉地 の 妻 と 子 と は この 東京 に ちゃんと 住んで いる 。 倉地 は 毎日 の ように その 人 たち に あって いる の に 相違 ない のだ 。 ・・
思う 男 を どこ から どこ まで 自分 の もの に して 、 自分 の もの に した と いう 証拠 を 握る まで は 、 心 が 責めて 責めて 責め ぬか れる ような 恋愛 の 残虐な 力 に 葉子 は 昼 と なく 夜 と なく 打ちのめさ れた 。 船 の 中 で の 何事 も 打ち 任せ きった ような 心やすい 気分 は 他人事 の ように 、 遠い 昔 の 事 の ように 悲しく 思いやら れる ばかりだった 。 どうして これほど まで に 自分 と いう もの の 落ちつき 所 を 見失って しまった のだろう 。 そう 思う 下 から 、 こうして は 一刻 も いられ ない 。 早く 早く する 事 だけ を して しまわ なければ 、 取り返し が つか なく なる 。 どこ から どう 手 を つければ いい のだ 。 敵 を 斃 さ なければ 、 敵 は 自分 を 斃 す のだ 。 なんの 躊躇 。 なんの 思案 。 倉地 が 去った 人 たち に 未練 を 残す ようならば 自分 の 恋 は 石 や 瓦 と 同様だ 。 自分 の 心 で 何もかも 過去 は いっさい 焼き 尽くして 見せる 。 木部 も ない 、 定子 も ない 。 まして 木村 も ない 。 みんな 捨てる 、 みんな 忘れる 。 その代わり 倉地 に も 過去 と いう 過去 を すっかり 忘れ させ ず に おく もの か 。 それほど の 蠱惑 の 力 と 情熱 の 炎 と が 自分 に あるか ない か 見て いる が いい 。 そうした いちず の 熱意 が 身 を こがす ように 燃え 立った 。 葉子 は 新聞 記者 の 来襲 を 恐れて 宿 に とじこもった まま 、 火鉢 の 前 に すわって 、 倉地 の 不在 の 時 は こんな 妄想 に 身 も 心 も かきむしられて いた 。 だんだん 募って 来る ような 腰 の 痛み 、 肩 の 凝り 。 そんな もの さえ 葉子 の 心 を ますます いらだた せた 。 ・・
ことに 倉地 の 帰り の おそい 晩 など は 、 葉子 は 座 に も 居 たたま れ なかった 。 倉地 の 居間 に なって いる 十 畳 の 間 に 行って 、 そこ に 倉地 の 面影 を 少し でも 忍ぼう と した 。 船 の 中 で の 倉地 と の 楽しい 思い出 は 少しも 浮かんで 来 ず に 、 どんな 構え と も 想像 は でき ない が 、 とにかく 倉地 の 住居 の ある 部屋 に 、 三 人 の 娘 たち に 取り巻かれて 、 美しい 妻 に か しずかれて 杯 を 干して いる 倉地 ばかり が 想像 に 浮かんだ 。 そこ に 脱ぎ捨てて ある 倉地 の ふだん着 は ますます 葉子 の 想像 を ほしいままに さ せた 。 いつでも 葉子 の 情熱 を 引っつか ん で ゆすぶり 立てる ような 倉地 特有 の 膚 の 香 い 、 芳 醇 な 酒 や 、 煙草 から におい 出る ような その 香 い を 葉子 は 衣類 を かき寄せて 、 それ に 顔 を 埋め ながら 、 痲痺 して 行く ような 気持ち で かぎ に かいだ 。 その 香 いのいちばん 奥 に 、 中年 の 男 に 特有な ふけ の ような 不快な 香 い 、 他人 の のであった なら 葉子 は ひと たまり も なく 鼻 を おおう ような 不快な 香 い を かぎつける と 、 葉子 は 肉体 的に も 一種 の 陶酔 を 感じて 来る のだった 。 その 倉地 が 妻 や 娘 たち に 取り巻かれて 楽しく 一夕 を 過ごして いる 。 そう 思う と あり 合わせる もの を 取って 打ち こわす か 、 つかんで 引き裂きたい ような 衝動 が わけ も なく 嵩 じ て 来る のだった 。 ・・
それ でも 倉地 が 帰って 来る と 、 それ は 夜 おそく なって から であって も 葉子 は ただ 子供 の ように 幸福だった 。 それ まで の 不安 や 焦 躁 は どこ に か 行って しまって 、 悪夢 から 幸福な 世界 に 目ざめた ように 幸福だった 。 葉子 は すぐ 走って 行って 倉地 の 胸 に たわいなく 抱か れた 。 倉地 も 葉子 を 自分 の 胸 に 引き締めた 。 葉子 は 広い 厚い 胸 に 抱か れ ながら 、 単調な 宿屋 の 生活 の 一 日 中 に 起こった 些細 な 事 まで を 、 その 表情 の ゆたかな 、 鈴 の ような 涼しい 声 で 、 自分 を 楽しま せて いる もの の ごとく 語った 。 倉地 は 倉地 で その 声 に 酔いしれて 見えた 。 二 人 の 幸福 は どこ に 絶頂 が ある の か わから なかった 。 二 人 だけ で 世界 は 完全だった 。 葉子 の する 事 は 一つ一つ 倉地 の 心 が する ように 見えた 。 倉地 の こう ありたい と 思う 事 は 葉子 が あらかじめ そう あら せて いた 。 倉地 の したい と 思う 事 は 、 葉子 が ちゃんと し 遂げて いた 。 茶わん の 置き場 所 まで 、 着物 の しまい 所 まで 、 倉地 は 自分 の 手 でした とおり を 葉子 が して いる の を 見いだして いる ようだった 。 ・・
「 しかし 倉地 は 妻 や 娘 たち を どう する のだろう 」・・
こんな 事 を そんな 幸福 の 最中 に も 葉子 は 考え ない 事 も なかった 。 しかし 倉地 の 顔 を 見る と 、 そんな 事 は 思う も 恥ずかしい ような 些細 な 事 に 思わ れた 。 葉子 は 倉地 の 中 に すっかり とけ込んだ 自分 を 見いだす のみ だった 。 定子 まで も 犠牲 に して 倉地 を その 妻子 から 切り 放そう など いう たくらみ は あまりに ばからしい 取り越し苦労 である の を 思わ せられた 。 ・・
「 そうだ 生まれて から この かた わたし が 求めて いた もの は とうとう 来よう と して いる 。 しかし こんな 事 が こう 手近に あろう と は ほんとうに 思い も よら なかった 。 わたし みたいな ばか は ない 。 この 幸福 の 頂上 が 今 だ と だれ か 教えて くれる 人 が あったら 、 わたし は その 瞬間 に 喜んで 死ぬ 。 こんな 幸福 を 見て から 下り坂 に まで 生きて いる の は いやだ 。 それにしても こんな 幸福で さえ が いつか は 下り坂 に なる 時 が ある のだろう か 」・・
そんな 事 を 葉子 は 幸福に 浸り きった 夢心地 の 中 に 考えた 。 ・・
葉子 が 東京 に 着いて から 一 週間 目 に 、 宿 の 女将 の 周旋 で 、 芝 の 紅葉 館 と 道一 つ 隔てた 苔 香 園 と いう 薔薇 専門 の 植木 屋 の 裏 に あたる 二 階建て の 家 を 借りる 事 に なった 。 それ は 元 紅葉 館 の 女 中 だった 人 が ある 豪商 の 妾 に なった に ついて 、 その 豪商 と いう 人 が 建てて あてがった 一 構え だった 。 双 鶴 館 の 女将 は その 女 と 懇意の 間 だった が 、 女 に 子供 が 幾 人 か できて 少し 手ぜま 過ぎる ので 他 所 に 移転 しよう か と いって いた の を 聞き 知っていた ので 、 女将 の ほう で 適当な 家 を さがし出して その 女 を 移ら せ 、 その あと を 葉子 が 借りる 事 に 取り計らって くれた のだった 。 倉地 が 先 に 行って 中 の 様子 を 見て 来て 、 杉林 の ため に 少し 日当たり は よく ない が 、 当分 の 隠れ家 と して は 屈強だ と いった ので 、 すぐさま そこ に 移る 事 に 決めた のだった 。 だれ に も 知れ ない ように 引っ越さ ねば なら ぬ と いう ので 、 荷物 を 小 わけ して 持ち出す の に も 、 女将 は 自分 の 女 中 たち に まで 、 それ が 倉地 の 本 宅 に 運ば れる もの だ と いって 知らせた 。 運搬 人 は すべて 芝 の ほう から 頼んで 来た 。 そして 荷物 が あら かた 片づいた 所 で 、 ある 夜 おそく 、 しかも び し ょび しょ と 吹き 降り の する 寒い 雨 風 の おり を 選んで 葉子 は 幌 車 に 乗った 。 葉子 と して は それ ほど の 警戒 を する に は 当たら ない と 思った けれども 、 女将 が どうしても きか なかった 。 安全な 所 に 送り込む まで は いったん お 引き受け した 手 まえ 、 気 が すまない と いい張った 。 ・・
葉子 が あつらえて おいた 仕立て おろし の 衣類 を 着 かえて いる と そこ に 女将 も 来 合わせて 脱ぎ 返し の 世話 を 見た 。 襟 の 合わせ 目 を ピン で 留め ながら 葉子 が 着がえ を 終えて 座 に つく の を 見て 、 女将 は うれし そうに もみ 手 を し ながら 、・・
「 これ で あす こ に 大丈夫 着いて くださり さえ すれば わたし は 重荷 が 一 つ 降りる と 申す もの です 。 しかし これ から が あなた は 御 大抵 じゃ こ ざいません ね 。 あちら の 奥様 の 事 など 思います と 、 どちら に どう お 仕向け を して いい やら わたし に は わから なく なります 。 あなた の お 心持ち も わたし は 身 に しみて お 察し 申します が 、 どこ から 見て も 批点 の 打ち どころ の ない 奥様 の お 身の上 も わたし に は 御 不憫で 涙 が こぼれて しまう んで ございます よ 。 で ね 、 これ から の 事 に ついちゃ わたし は こう 決めました 。 なんでも できます 事 なら と 申し上げたい んで ございます けれども 、 わたし に は 心底 を お 打ち明け 申しました 所 、 どちら 様 に も 義理 が 立ちません から 、 薄情で も きょう かぎり この お 話 に は 手 を ひか せて いただきます 。 …… どう か 悪く お 取り に なりません ように ね …… どうも わたし は こんな で いながら 甲斐 性 が ございませ ん で ……」・・
そう いい ながら 女将 は 口 を きった 時 の うれし げ な 様子 に も 似 ず 、 襦袢 の 袖 を 引き出す ひ まもなく 目 に 涙 を いっぱい ためて しまって いた 。 葉子 に は それ が 恨めしく も 憎く も なかった 。 ただ 何となく 親身な 切な さ が 自分 の 胸 に も こみ上げて 来た 。 ・・
「 悪く 取る どころ です か 。 世の中 の 人 が 一 人 でも あなた の ような 心持ち で 見て くれたら 、 わたし は その 前 に 泣き ながら 頭 を 下げて ありがとう ございます と いう 事 でしょう よ 。 これ まで の あなた の お 心尽くし で わたし は もう 充分 。 また いつか 御 恩返し の できる 事 も ありましょう 。 …… それでは これ で 御免 ください まし 。 お 妹 御 に も どう か 着物 の お 礼 を くれぐれも よろしく 」・・
少し 泣き声 に なって そう いい ながら 、 葉子 は 女将 と その 妹 分 に あたる と いう 人 に 礼 心 に 置いて 行こう と する 米国 製 の 二 つ の 手 携 げ を し まいこんだ 違い棚 を ちょっと 見 やって そのまま 座 を 立った 。 ・・
雨 風 の ため に 夜 は にぎやかな 往来 も さすが に 人通り が 絶え絶えだった 。 車 に 乗ろう と して 空 を 見上げる と 、 雲 は そう 濃く は かかって いない と 見えて 、 新月 の 光 が おぼろに 空 を 明るく して いる 中 を あらし 模様 の 雲 が 恐ろしい 勢い で 走って いた 。 部屋 の 中 の 暖か さ に 引きかえて 、 湿気 を 充分に 含んだ 風 は 裾 前 を あおって ぞくぞく と 膚 に 逼った 。 ば たば た と 風 に なぶら れる 前 幌 を 車 夫 が かけよう と して いる すき から 、 女将 が みずみずしい 丸 髷 を 雨 に も 風 に も 思う まま 打た せ ながら 、 女 中 の さし かざそう と する 雨傘 の 陰 に 隠れよう と も せ ず 、 何 か 車 夫 に いい聞かせて いる の が 大事 らしく 見 やられた 。 車 夫 が 梶 棒 を あげよう と する 時 女将 が 祝儀 袋 を その 手 に 渡す の が 見えた 。 ・・
「 さようなら 」・・
「 お 大事に 」・・
はばかる ように 車 の 内外 から 声 が かわさ れた 。 幌 に のしかかって 来る 風 に 抵抗 し ながら 車 は 闇 の 中 を 動き出した 。