47.2 或る 女
神 がかり に あった 人 が 神 から 見放さ れた 時 の ように 、 葉子 は 深い 肉体 の 疲労 を 感じて 、 寝床 の 上 に 打ち 伏さって しまった 。 そう やって いる と 自分 の 過去 や 現在 が 手 に 取る ように はっきり 考えられ 出した 。 そして 冷ややかな 悔恨 が 泉 の ように わき出した 。 ・・
「 間違って いた …… こう 世の中 を 歩いて 来る んじゃ なかった 。 しかし それ は だれ の 罪 だ 。 わから ない 。 しかし とにかく 自分 に は 後悔 が ある 。 できる だけ 、 生きて る うち に それ を 償って おか なければ なら ない 」・・
内田 の 顔 が ふと 葉子 に は 思い出さ れた 。 あの 厳格な キリスト の 教師 は はたして 葉子 の 所 に 尋ねて 来て くれる か どう か わから ない 。 そう 思い ながら も 葉子 は もう 一 度 内 田 に あって 話 を したい 心持ち を 止める 事 が でき なかった 。 ・・
葉子 は 枕 もと の ベル を 押して つや を 呼び寄せた 。 そして 手 文庫 の 中 から 洋紙 で とじた 手帳 を 取り出さ して 、 それ に 毛筆 で 葉子 の いう 事 を 書き 取ら した 。 ・・
「 木村 さん に 。 ・・
「 わたし は あなた を 詐って おりました 。 わたし は これ から 他の 男 に 嫁入ります 。 あなた は わたし を 忘れて ください まし 。 わたし は あなた の 所 に 行ける 女 で は ない のです 。 あなた の お 思い違い を 充分 御 自分 で 調べて みて ください まし 。 ・・
「 倉地 さん に 。 ・・
「 わたし は あなた を 死ぬ まで 。 けれども 二 人 と も 間違って いた 事 を 今 はっきり 知りました 。 死 を 見て から 知りました 。 あなた に は お わかり に なります まい 。 わたし は 何もかも 恨み は しません 。 あなた の 奥さん は どう な さって おいで です 。 …… わたし は 一緒に 泣く 事 が できる 。 ・・
「 内田 の おじさん に 。 ・・
「 わたし は 今夜 に なって おじさん を 思い出しました 。 おば 様 に よろしく 。 ・・
「 木部 さん に 。 ・・
「 一 人 の 老女 が あなた の 所 に 女の子 を 連れて 参る でしょう 。 その 子 の 顔 を 見て やって ください まし 。 ・・
「 愛子 と 貞 世に 。 ・・
「 愛さ ん 、 貞 ちゃん 、 もう 一 度 そう 呼ば し ておくれ 。 それ で たくさん 。 ・・
「 岡 さん に 。 ・・
「 わたし は あなた を も 怒って は いま せ ん 。 ・・
「 古藤 さん に 。 ・・
「 お 花 と お 手紙 と を ありがとう 。 あれ から わたし は 死 を 見ました 。 ・・
七 月 二十一 日 葉子 」・・
つや は こんな ぽつりぽつり と 短い 葉子 の 言葉 を 書き 取り ながら 、 時々 怪 訝 な 顔 を して 葉子 を 見た 。 葉子 の 口 び る は さびしく 震えて 、 目 に は こぼれ ない 程度 に 涙 が にじみ出 して いた 。 ・・
「 もう それ で いい ありがとう よ 。 あなた だけ ね 、 こんなに なって しまった わたし の そば に いて くれる の は 。 …… それ だ のに 、 わたし は こんなに 零 落した 姿 を あなた に 見られる の が つらくって 、 来た 日 は 途中 から ほか の 病院 に 行って しまおう か と 思った の よ 。 ばかだった わ ね 」・・
葉子 は 口 で は なつかし そうに 笑い ながら 、 ほろほろ と 涙 を こぼして しまった 。 ・・
「 それ を この 枕 の 下 に 入れて おいて おくれ 。 今夜 こそ は わたし 久しぶりで 安 々 と した 心持ち で 寝られる だろう よ 、 あす の 手術 に 疲れ ない ように よく 寝て おか ない と いけない わ ね 。 でも こんなに 弱って いて も 手術 は できる の か しら ん …… もう 蚊帳 を つって おくれ 。 そして ついでに 寝床 を もっと そっち に 引っぱって 行って 、 月 の 光 が 顔 に あたる ように して ちょうだいな 。 戸 は 寝入ったら 引いて おくれ 。 …… それ から ちょっと あなた の 手 を お 貸し 。 …… あなた の 手 は 温かい 手 ね 。 この 手 は いい 手 だ わ 」・・
葉子 は 人 の 手 と いう もの を こんなに なつかしい もの に 思った 事 は なかった 。 力 を こめた 手 で そっと 抱いて 、 いつまでも やさしく それ を なでて い たかった 。 つや も いつか 葉子 の 気分 に 引き入れられて 、 鼻 を すする まで に 涙ぐんで いた 。 ・・
葉子 は やがて 打ち 開いた 障子 から 蚊帳 越し に うっとり と 月 を ながめ ながら 考えて いた 。 葉子 の 心 は 月 の 光 で 清められた か と 見えた 。 倉地 が 自分 を 捨てて 逃げ出す ため に 書いた 狂言 が 計ら ず その 筋 の 嫌疑 を 受けた の か 、 それとも 恐ろしい 売 国 の 罪 で 金 を すら 葉子 に 送れ ぬ ように なった の か 、 それ は どうでも よかった 。 よしんば 妾 が 幾 人 あって も それ も どうでも よかった 。 ただ すべて が むなしく 見える 中 に 倉地 だけ が ただ 一 人 ほんとうに 生きた 人 の ように 葉子 の 心 に 住んで いた 。 互い を 堕落 さ せ 合う ような 愛し かた を した 、 それ も 今 は なつかしい 思い出 だった 。 木村 は 思えば 思う ほど 涙ぐましい 不幸な 男 だった 。 その 思い 入った 心持ち は 何事 も わだかまり の なくなった 葉子 の 胸 の 中 を 清水 の ように 流れて 通った 。 多年 の 迫害 に 復讐 する 時機 が 来た と いう ように 、 岡 まで を そそのかして 、 葉子 を 見捨てて しまった と 思わ れる 愛子 の 心持ち に も 葉子 は 同情 が できた 。 愛子 の 情け に 引か されて 葉子 を 裏切った 岡 の 気持ち は なおさら よく わかった 。 泣いて も 泣いて も 泣き 足りない ように かわいそうな の は 貞 世 だった 。 愛子 は いまに きっと 自分 以上 に 恐ろしい 道 に 踏み迷う 女 だ と 葉子 は 思った 。 その 愛子 の ただ 一 人 の 妹 と して …… もしも 自分 の 命 が なくなって しまった 後 は …… そう 思う に つけて 葉子 は 内田 を 考えた 。 すべて の 人 は 何 か の 力 で 流れて 行く べき 先 に 流れて 行く だろう 。 そして しまい に は だれ でも 自分 と 同様に 一 人 ぼっち に なって しまう んだ 。 …… どの 人 を 見て も あわれま れる …… 葉子 は そう 思い ふ けり ながら 静かに 静かに 西 に 回って 行く 月 を 見入って いた 。 その 月 の 輪郭 が だんだん ぼやけて 来て 、 空 の 中 に 浮き 漂う ように なる と 、 葉子 の まつ毛 の 一つ一つ に も 月 の 光 が 宿った 。 涙 が 目じり から あふれて 両方 の こめかみ の 所 を くすぐる ように する する と 流れ 下った 。 口 の 中 は 粘液 で 粘った 。 許す べき 何 人 も ない 。 許さ る べき 何事 も ない 。 ただ ある が まま …… ただ 一抹 の 清い 悲しい 静けさ 。 葉子 の 目 は ひとりでに 閉じて 行った 。 整った 呼吸 が 軽く 小 鼻 を 震わして 流れた 。 ・・
つや が 戸 を たて に そ ーっと その 部屋 に は いった 時 に は 、 葉子 は 病気 を 忘れ 果てた もの の ように 、 がた ぴし と 戸 を 締める 音 に も 目ざめ ず に 安ら け く 寝入って いた 。