第 三 章 帝国 の 残照 (4)
キルヒアイス など に は 、 いっそ 歩いた ほう が 気楽な のだ が 、 皇帝 陛下 の ご 厚意 に より 宮 内省 から さしむけ られた 地上 車 と あって は しかたない 。
目的 の 館 は 菩提樹 の しげる 池 の 畔 に あり 、 女 主人 に ふさわしい 清 楚 な 建築 様式 だった 。
アンネローゼ の すんなり した 優美な 姿 を ポーチ に 見いだす と 、 ラインハルト は まだ 完全に は 停 まって いない 地上 車 から とびおり 、 小走り に 駆けよった 。 「 姉 上 ! 」 アンネローゼ は 春 の 陽 ざし の ような 笑顔 で 弟 を 迎えた 。 「 ラインハルト 、 よく 来て くれ ました ね 。 それ に ジーク も ……」
「…… アンネローゼ さま も お 元気 そうで なにより です 」
「 ありがとう 。 さあ 、 ふた り と も お 入り なさい 。 あなた たち が 来る の を 何 日 も 前 から 待って いた の よ 」
ああ 、 この 女 は 昔 と すこしも 変わら ない ―― と 、 キルヒアイス は 思った 。 その 優し さ 、 清 楚 さ を そこなう こと は 、 皇帝 の 権力 を もって して も 不可能だった のだ 。
「 コーヒー を 淹 れましょう 。 それ と 巴旦 杏 の ケーキ も ね 。 手作り だ から あなた が たの 口 に あう か どう か わから ない けど 。 食べて いって ちょうだい 」
「 口 を あわせます よ 」 笑い ながら ラインハルト が 応じ 、 手頃な 広 さ の 居間 に は なごやかな 雰囲気 が みちた 。 時 の 精霊 が この 空間 だけ を 一〇 年 前 に もどした ような 錯覚 を 、 若者 たち は ひとしく いだいた 。
コーヒー カップ の 触れあう 音 、 清潔な テーブル クロス 、 巴旦 杏 の ケーキ に 混ぜ られた 微量 の バニラ ・ エッセンス の 香り …… つつましい 幸福 の ひと つ の かたち が そこ に あった 。
「 伯爵 夫人 と も あろう 者 が 調理場 に たちいる もの で は ない と ときどき 言わ れる けど ……」
流れる ような 手 さばき で ケーキ を 切り分け ながら アンネローゼ は 微笑 した 。
「 なんと 言われて も 、 これ が 楽しい もの だ から しかたない わ ね 。 あまり 機械 に たよら ず 自分 の 手 で 焼く の が ね 」
コーヒー が 淹 れ られ 、 クリーム が 落とさ れた 。 手作り の ケーキ に 、 裏 を 考える 必要の ない 会話 。 心 が 温かい 波 に 浸されて ゆく か の ような 時 が すぎて ゆく 。 「 ラインハルト が わがまま ばかり 言って さぞ 迷惑 を かけて いる のでしょう ね 、 ジーク 」
「 いえ 、 そのような ……」
「 本心 を 言って いい のだ ぞ 」
「 ラインハルト 、 だめ よ 、 からかって は 。 そうそう 、 シャフハウゼン 子爵 夫人 から いただいた おいしい 桃色 葡萄 酒 が ある の 。 地下 室 に ある から 取って きて くれ ない かしら ? 帝国 元帥 閣下 に 雑用 を たのんで 悪い けど 」
「 姉 上 こそ 私 を からかう んです ね 。 ええ 、 雑用 でも なんでも 相 努めます と も 」 気軽に ラインハルト は 立って 行った 。
あと に は アンネローゼ と キルヒアイス が 残った 。 アンネローゼ は 弟 の 親友 に 優しい 微笑 を むけた 。
「 ジーク 、 弟 が いつも お 世話に なって います ね 」 「 とんで も ありません 、 お 世話 を 一方的に こうむって いる の は 私 です 。 貴族 で も ない 私 が この 年齢 で 大佐 など と 、 身 に あまる と 思って おります 」 「 もう すぐ 少将 でしょう 。 聞き ました よ 。 おめでとう 」
「 ありがとう ございます 」
耳朶 の 熱 さ を キルヒアイス は 自覚 した 。
「 弟 は 口 に は ださ ない し 、 あるいは 本人 も 気づいて いない かも しれ ない けど 、 ジーク 、 あなた を ほんとうに たより に して います 。 どうか 、 これ から も 弟 の こと を お 願い する わ ね 」
「 恐縮 です 、 私 など が 」
「 ジーク 、 あなた は もっと 自分 を 評価 す べきです よ 。 弟 に は 才能 は あります 。 たぶん 、 ほか の 誰 に も ない 才能 が 。 でも 、 弟 は あなた ほど おとな では ありません 。 自分 の 脚 の 速 さ に おぼれて 断崖 から 転落 する 羚羊 の ような 、 そんな ところ が あります 。 これ は 弟 が 生まれた とき から 知っている わたし だ から 言える こと です 」
「 アンネローゼ さま ……」
「 どうか 、 ジーク 、 お 願い します 。 ラインハルト が 断崖 から 足 を 踏みはずす こと の ない よう 見まもって やって 。 もし そんな きざし が 見えたら 叱って やって 。 弟 は あなた の 忠告 なら うけいれる でしょう 。 もし あなた の 言う こと も きか なく なったら …… その とき は 弟 も 終わり です 。 どんなに 才能 が あった と して も 、 それ に ともなう 器量 が なかった のだ と みずから 証明 する こと に なる でしょう 」
アンネローゼ の 美貌 から 、 すでに 微笑 は 消えさって いた 。 弟 の それ より 濃い サファイア 色 の 瞳 に 哀しみ に 似た 陰 翳 が たゆ たって いる 。
見え ざる 刃 が 心 の うえ を 滑って 、 するどい 痛み を キルヒアイス に あたえた 。 そう だ 、 いま は 一〇 年 前 で は ない のだ 。 ラインハルト と 自分 は 街 の 少年 で は なく 、 アンネローゼ も 家庭 的な 一 少女 で は ない 。 皇帝 の 寵姫 と 帝国 元帥 と その 副 官 。 権力 の 芳香 と 腐 臭 を 同時に 嗅ぐ 立場 に いる 三 人 の 男女 ……。
「 私 に できる こと でしたら なんでも いたします 、 アンネローゼ さま 」 キルヒアイス の 声 は 、 感情 を 抑制 しよう と する 主人 の 意思 に どうにか したがって いた 。
「 ラインハルト さま にたいする 私 の 忠誠 心 を 信じて ください 。 けっして アンネローゼ さま の お 心 に 背く ような こと は いたしません 」 「 ありがとう 、 ジーク 、 ごめんなさい ね 、 無理な こと ばかり お 願い して 。 でも あなた 以外 に たよる 人 は わたし に も いま せ ん 。 どうか ゆるして ください ね 」
私 は あなた たち に たよって ほしい のです ―― 胸中 で キルヒアイス は つぶやいた 。 一〇 年 前 、 貴 女 に 「 弟 と 仲よく して やって 」 と 言わ れた 瞬間 から 、 ずっと そう な のです ……。
一〇 年 前 ! ふたたび キルヒアイス の 心 は 痛む 。
一〇 年 前 に 自分 が いま の 年齢 であったら 、 アンネローゼ を けっして 皇帝 の 手 など に 渡し は し なかった 。 万難 を 排して 、 姉弟 を つれ 、 たぶん 、 自由 惑星 同盟 に 逃亡 して いた だろう 。 いまごろ は 同盟 軍 の 士官 に でも なって いた かも しれ ない 。
その 当時 、 自分 に は その 能力 も なく 、 自分 自身 の 意思 すら はっきり と 把握 できて い なかった 。 いま は そう で は ない 。 だが 一〇 年 前 以上 に 、 どう しよう も ない 。 人 は なぜ 、 自分 に とって もっとも 必要な とき 、 それ に ふさわしい 年齢 で いる こと が でき ない のだろう 。
「…… もっと 見つけ やすい 場所 に 置いて いて くれれば いい のに 」
その 声 が 、 ラインハルト の もどって きた こと を 告げた 。
「 はい 、 ご苦労さま 。 でも 苦労 して 探した だけ の 価値 は あって よ 。 グラス を もってくる わ ね 」
このような 時間 を 、 わずか でも もてた こと を 幸福に 思う べきな のだ 。 キルヒアイス は 自分 に そう 言い聞かせた 。 つぎに かならず 到来 する 戦い の 時 を うと ま しく 思う ような こと が あって は なら なかった 。