4 章 : 昭和 18 年 12 月 26 日
昭和 18 年 12 月 26 日
春 に 兄 の 要一 が 軍 に 召集 さ れ 、 浦野 家 は 四 人 と なった 。 雷 も 落ち ず 、 ゲンコツ も 降って こ ない 日々 は 心 安らげ る もの で は あった が 、 十八 年間 鬼 い ちゃん の 雷 や ゲンコツ と ともに 暮らして きた すず に とって は 少し 物足りなく 、 寂しく も あった 。 その 寂し さ に も 慣れて きた 年の瀬 、 すず の 人 生 に 大きな 転機 が 訪れた 。
その 日 、 すず と すみ は 草津 の 叔父 の 家 に 手伝い に 来て いた 。 養殖 場 で 海苔 を 摘んだ あと は 、 海苔 漉 き の 作業 も 任せて もらえた 。 漉 き 枡 の 中 に 均等に 敷か れた 海苔 を 見た 叔母 の マリナ から 「 うもう なった ねえ 」 と ほめられ 、 すず は 鼻高々だ 。 お 昼 に なり 、 すず と すみ は 祖母 の イト と 九 歳 に なる いとこ 従姉妹 の ち 千 づ 鶴 こ 子 と 一緒に ちゃぶ台 を 囲んだ 。 「 遠 ぉ ~っ」 箸 を 持つ すず の 手 を 見て 、 千鶴子 が 言った 。 「 すず 姉ちゃん は 遠く に お 嫁 に 行って じゃ 」 雑炊 を 食べ ながら 、「 ほう なん ? 」 と す ず が 千鶴子 に 訊 ねる 。
「 すみ 姉ちゃん は 近い ね 」 今度 は 漬け物 に 箸 を 伸ばす すみ の 手 元 を 見て 、 千鶴子 は 言った 。 理由 を 知 り た げ なす ず と すみ に 、 自分 の 分 の 雑炊 を よ そって いた イト が 答える 。 「 箸 を 遠う 持つ 子 は 遠く へ お 嫁 に 行く いう け え ね 」 すず と すみ は 「 へえ ~」 と 感心 し なが ら 、 お互い の 箸 の 持ち 方 を 比べる 。 たし か に すず の 持つ 位置 は 高く 、 すみ の 持つ 位置 は 低い 。
「 おばあ ちゃん は どっから 来 ん さった ん ? 」 千鶴子 に 訊 かれ 、 イト は 答える 。 「 わ しゃ ふる 古 え 江 よ ね 」 孫 たち は イト の 手元 を じっと 見つめる 。 かなり 高い 位置 で 箸 を 持って いる 。 「 隣 の 古 江 から 草津 で そん と な じゃ 満州 や なんか へ 行って の 人 は 火箸 でも 足ら ん ね 」 「 と 言い ながら も 箸 を 持ち 直す 浦野 すみ であった 」 すず の 鋭い ツッコミ に すみ は 、「 だって ~」 と 照れる 。 「 あんまり 近い 人 は 夢 ない も ~ ん ! 」 そこ に 台所 の ほう から ドタドタ と 足音 が 聞こえ 、 ガラッ と 勢い よく ふすま 襖 が 開いた 。 「 すず ちゃん 、 すぐ 帰り ! 」 現れた 叔母 の 勢い に 、 すず は 茶碗 を 口元 に 持っていった まま 固まって いる 。 「 電話 に 呼ばれて 今 …… なんか 思 たら 、 あんた を 嫁 に いう 人 が あんた が た 家来 とって じゃ と 。 わざわざ くれ 呉 から 」 「 呉 !?」 と 千鶴子 は すず を うかがう 。 イト は 席 を 立ち 、 奥 の 部屋 へ と 向かい ながら す ず に 訊 ねた 。
「 すず ちゃん 、 あんたいくつに なった ? 」 「 十九 …… 満 で …… 十八 」 「 まあ 、 気 に 入ら なきゃ 断りゃ ええ ん よ 。 ち い と 会って きて み ん さい 」 マリナ に 励まされて かすかに うなずく も 、 すず に は ちっとも 実感 が わか ない 。 うち に 縁談 ……? 「 すず ちゃん 、 ちょっと おいで 」 と 奥 の 部屋 から イト が 声 を かけた 。 すず が 部屋 に 入 る と 、 イト は タンス から 出した 着物 の 包み を そっと 畳 の 上 に 置いた 。 「 いずれ 、 あんた の 嫁入り の とき 思う て ね え 。
直し といた 」 包み を 広げる イト の 前 に 、 すず が 座る 。 「 ええ 具合 に 決まりゃ ええ のう 」 すず は 着物 を 手 に とり 、 自分 の 身 に 当 て て みる 。 それ は 赤い 椿 の 柄 が 入った 立 派 な ゆう 友 ぜん 禅 ぞ め 染 だった 。
「 ありがとう ……」 「 ほ い で の う 、 向こう の 家 で 祝 言 挙げる じゃ ろ 」 「 うん 」 すず は 着物 を 包み に 戻し ながら 、 イト の 話 を 聞いて いる 。 「 その 晩 に 婿 さん が 『 傘 を 一 本 持ってきた か 』 言う て じゃ 」 「 うん 」 「 ほしたら 『 に い 新な の を 一 本 持ってきました 』 言う んで 」 「 え ? 」 「 ほ い で 『 差して も ええ かい の 』 言わ れた ら 、『 どうぞ 』 言う 。 ええ か ? 」 「 なんで ? 」 「 なんでも じゃ 」 と 言う イト は いつ に なく 厳 格 な 顔つき を して いる ので 、 ワケ が わから ぬ まま でも すずの 背すじ は ピンと 伸びる 。 ちょうど 近所 の 人 が 舟 を 出す と いう の で 、 すず は それ に 乗り 江波 へ と 戻った 。
かつて は 海苔 の 養殖 場 だった 浦野 家 の 前 の 土地 は 、 今では 埋め立てられ 大 根 畑 に 変わって いる 。 その 脇 を すず は う つ むき ながら 歩いて いく 。 どうやら 、 うち は 大人 に なる らし い ……。
「 呉 いう たら 軍港 の ある とこ で 、 水兵 さん が よ うけおって ……」 視線 の 中 に 男 の 人 の 足 が 入り 、 すず は 立ち止まった 。 顔 を 上げる と 、 海軍 上 等 水兵 の セーラー 服 を 着た 哲 が 目の前 に 立って いた 。 「 え …… え ? …… 水原 さん !?」 すず は 哲 の 顔 に 視線 を 釘づけ に した ま ま 、 わずかに あと ず さる 。 「…… 久しぶり 」 無理に 微笑む すず の 横 を すれ違い ざ ま 哲 は 言った 。 「 早 よ 、 家 行け 」 「 へ !?」 通りすぎる 哲 を すず は 振り返った 。 哲 は 足どり を ゆるめ 、 立ち止まった 。
「 お前 の 母ちゃん 、 たまげて 大騒ぎ し よった で 。 近所 みんな 知っと る わ 」 「 あ …… 焦った ぁ !! うちゃ てっきり あんた が 相手 か と !!」 すっとんきょうな 大声 を 上げた すず を 、 「 アホ か !!」 と 哲 が 振り返った 。 「 わしゃ 兄ちゃん の 七 回忌 に し ゆく 粛 し ゆく 々 と 帰って きた とこ じゃ 」 哲 は ムキ に なって 否定 した 自分 が 恥 ず か しく 、 すず も 縁談 相手 と 勘違い した こと が 恥ずかしく 、 互いに 同時に 背 を 向け た 。 「…… 相手 、 知り合い ちがう ん か ? 」 「 全然 」 すず は そのまま トボトボ と 歩き 出し 、 哲 も 反対 方向 へ と 歩き 出す 。 「…… すみ ちゃん と 間違う とって ん かも 。 すみ ちゃん の ほう が きれい なし ……」 「…… ほう で も ない と 思う が の 」 哲 の 声 に 、 すず は 立ち止まり かける が 、 哲 は そのまま 去って いく 。 遠ざかる 足音 を 聞き 、 すず も 家 に 向かって 足 を 速めた 。
家 に 着いて も すず は 中 に 入ら ず 、 裏 へ と 回った 。 居間 の ガラス 障子 の 向こう に かしこ まって 座って いる ふた り の 客 の 姿 が 見え 、 す ず は そ ーっと 近づいた 。 父親 らしき 年配 の 男性 は 丸 メガネ を かけた 真面目 そうな 感じ 。
隣 に 座って いる 青年 が 自分 の 縁 談 相手 な のだろう 。 障子 の 桟 が 邪魔で 顔 が よく 見え ない 。 すず は バレ ない ように 気 を つけ ながら ガラ ス に 顔 を 近づける 。 見えた 。
坊主 頭 が 少し 伸びた 短髪 。 キリッと し た 細い 眉 の 下 に 切れ 長 の 涼し げ な 目 が ある 。 緊張 して いる のだろう か 、 薄い 唇 は 固く 結ばれて いる 。 父親 らしき 男 の 声 が ガラス を 通して 、 わ ず か に 聞こえる 。 「…… これ が こっち の 学校 へ 通う とった 頃 、 どこ か で み 見 そ 初め たん じゃ 思います が …… いや 、 お宅 を 探す ん も 大 ごと で し たわ 」 ふた り の 正面 に 座った 十郎 が 答えた 。 「 うち も 江波 の 埋め立て で 海苔 は やめ と り まして のう 」 そこ に 菓子 盆 を 持った キセノ が やって 来 た 。 「 もう 戻って くる 思い ま すけ え 」 「 は あ ……」 と 父親 が 湯飲み に 手 を 伸ば す 。 隣 の 青年 は 硬い 表情 の まま 、 動か ない 。
すず は 静かに 家 の 前 を 離れた 。 この 縁談 が 自分 に とって 良い 話 な の か どう か は わから ない 。 ただ 、 あの 青年 の 顔 を 見て いる と 、 なぜ か 口 の 中 に キャラメル の 甘い 味 が 広がる 気 が した 。
なんで うち じゃった んじゃ ろう ……。 江波 山 を 登り ながら 、 すず は ぼんやり と 考える 。 木枯らし が 耳元 を 吹き抜け 、「 おお 、 さ ぶ 」 と すず は 頭巾 を かぶった 。 松林 を 抜け 、 海 を 見下ろす 崖 に 出た 。
うさぎ が 跳ねて いた 海 は 埋め立てられ 、 いく つ も の 工場 が できて いる 。 その 向こう に 鈍 色 の 海 が 細く 延びて いる 。
「 困った ねえ 」 風呂敷 包み を ほどいて イト から もらった 友禅 の 着物 を とり出し ながら 、 すず はつ ぶ やく 。 「…… 嫌 なら 断りゃ ええ 言われて も 」 すず は 着物 を 羽織って みた 。 やはり 、 自分 が 嫁 に 行く など ピンと こない 。 「 嫌 か どう かも わから ん 人 じゃった ね え ……」 すず が 眼下 の 景色 を 眺めて いる と 、「 あ のう ……」 と 背後 から 声 を かけられた 。 「 はい 」 と 振り返る と 、 あの 青年 と 父親 が 立って いた 。 「! ……」 「 道 に 迷って しまって 」 「 電 停 は どっち です か ? 」 頭 を かき ながら 青年 は すず に 訊 ねた 。 路面 電車 の 停留所 に 行こう と して 、 な ぜ 山 に 登った のだ ……?
なかなか 不思議な 人 たち だ と 内心 で 思い ながら 、「 こっち です 」 と すず は ふた り を 案内 する 。 「 すみません 」 「 親切な 水兵 さん に 教えて もろう たん じゃ が 」 と いう 父親 の 言葉 を 聞き 、 哲 の し 仕 わざ 業 か と すず は 合点 が いった 。
「 ありゃ 、 なかなか ちん 珍 き 奇 な 人 で すけ え 」 数 日 後 、 浦野 家 に 縁談 相手 ・ ほう 北 じよう 條 周作 の 父 、 円 太郎 から 葉書 が 届いた 。 十郎 が 楽し そうに それ を 読む 。
「 山 ん 中 に おった 珍 奇 な 女 に 案内 さ れ て 、 無事 帰れた そうな 」 「 へっ……」 たしかに 着物 を 頭から かぶって たん は 珍 奇 に 見えたろう が 、 電 停探 して 山 に 登る ん も 相当 珍 奇 な が …… と 心 の 中 で 毒 づ く すず であった 。