20. 森 の 声 - 薄田 泣 菫
森 の 声 - 薄田 泣 菫
自分 は 今春 日 の 山路 に 立つ て ゐる 。 路 の 両側 に は 数 知れ ぬ 大木 が 聳 え 立つ て 、 枝 と 枝 と の 絡みあ つたな か に は 、 闊葉 細 葉 が こんもり と 繁 つて 、 たまたま その 下 蔭 を 往 く 山 番 の 男 達 が 、 昼 過ぎ の 空 合 を 見よう と した ところ で 、 雲 の 影 ひと つ 見つける の は 、 容易な 事 で は 無い 。 何と い つて も 、 承 和 の 帝 から 禁 山 の 御 宣 旨 が あつ て 以来 、 今日 まで 斧 ひと つ 入ら ぬ 神山 である 。 夏 が 来て 瑞葉 が さし 、 冬 が 来て 枯葉 が 落ちる 。 落ちた 木 の 葉 は 、 歳 々 の 夢 を 抱いて 、 その 儘 再び 大地 に 朽ち 入 つて しま ふ 。 かう して 千 年 の 齢 を 重ねて 見れば 、 一体 の 山 の 風情 が 、 そんじよ そこら に 出来 合 の 雑木林 と 、 趣 を 異にして ゐる の は 無理 も ある まい 。 大気 は 冷 つ こい 。 山 の 肌 は いつも 下 湿り が して ゐる 。 あり ふれた 山 で は 、 秋 で なくて は 嗅が れ ぬ 土 の 香 が 、 どことなく しつ とり と 漂 つて 来る 。 ・・
大 なる か な 、 春日 の 森 。 海原 を つくり 、 焔 の 山 を つくり 、 摩 西 を つくり 、 鯨 の 背骨 を つく つた 大 自然 の 手 は 、 ここ に 又 春日 の 森 を 造 つて ゐる 。 杉 は 暁 方 の 心 あがり に 、 天 に も 伸びよ と 、 丈 高く 作 つた も の らしい 。 櫟 は 月曜日 の 午前 、 魂 の 張 切 つた 一瞬 に 産み 落した もの らしい 。 竹 柏 は 夕 暮 の 歌 で あらう 。 馬 酔 木 は 折 節 の 独り言 かも 知れ ぬ 。 い づれ も 持前 の 性分 を 思 ふ が 儘 に 見せて 、 側 目 も 振ら ず 、 すくすく と 衝立 つて ゐる 。 大空 は 微笑 を 湛 へて 、 額 の 上 に ひろ が つて ゐる 。 第 一 の 光明 は わが 掌 に とい つた 風 に 、 い づれ も 骨太の 腕 を さし伸べて ゐる 。 地 に 生れて 天 を 望む と いふ の は 、 思 ふだ に 痛ましい 。 痛ましい に 違 ひ は 無い が 、 その昔 嫩葉 を 芽 ぐん だ 日 より 、 も つて 産れた 各 が じし の 宿命 である 。 木 は その 宿命 を 楽 んで 自ら の 代 の 終る まで は 、 ただ の 一 日 たり と も 、 その 努力 を 休め ぬ 。 時 は 皐月 の 半ば 、 古 沼 の 藻 も 花 を かざら う と いふ この頃 である 。 薄曇り した 蒸暑い 正午 過ぎ の 温 気 に 葉 は 葉 の 営み を し 、 根 は 根 の いそしみ を し 、 幹 は 幹 の つとめ を 励む 。 まことに 烈 しい 生活 の 有様 である 。 ・・
大杉 の ひと つ が いふ 。 ・・
「 余りに 高く なり 過ぎて 、 どうにも 心 寂しくて なら ない 。 それ に あの 雲 の 襞 が うるさい 。 電光 など 落ちて 来る と いい のに 。」 ・・
若い 馬 酔 木 が いふ 。 ・・
「 背 低 な の も 厭 に な つた 。 土 の 香 が 鼻 に つき 過ぎる 。 き の ふ を 忘れる 術 は 無い もの か 知ら 。」 ・・
老 樹 の 櫟 が つぶやく 。 ・・
「 生命 に も 少し 飽きた や う だ 。 鷲 は どこ へ 往 つた か 知ら 。 良 弁 を 落した まま で 、 未 だに 帰 つて 来 ない 。 待つ て ゐる 間 に 千 年 の 夏 は 経つ て しま つた 。 余り 短い 月日 でも 無 か つた や う だ 。」 ・・
竹 柏 が またいふ 。 ・・
「 何だか 言語 が 欲しく な つて 来 や う だ 。」 ・・
空 に は 雲 も 薄らいで 、 そろそろ 天気 が 直 つて 来た らしい 。 初夏 の 気力 に 満ちた 白い 光 が 一筋 さつ と 黒ずんだ 竹 柏 の 枝 を 洩れて 、 花 や かに 樹 々 の 幹 に 落ちる 。 すると 、 鳶色 が か つた 樅 や 、 白 味 の 勝つ た 櫟 や 、 干 割れた 竹 柏 の 樹 の 肌 が 、 陰 鬱 な 森 の 空気 に くつ きり と 浮き上 つて 、 さながら 古寺 の 内 陣 で 、 手 燭 の 火影 に 、 名匠 の 刻んだ 十二 神 将 の 背 でも 見る や うに 、 引き 緊 つた 健 かな 気持 で 眺められる 。 ・・
ふと 、 女 の 吐息 する や う なけ は ひ が して 、 ほろほろ と 頸 に 落ち かかる もの が ある 。 ・・
手 に 取つ て 見る と 、 萎び か か つた 藤 の 花 らしい 。 さては 奈良 に は 、 皐月 も 半ば を 過ぎた 今日 この 頃 、 いまだに この 紫 の 花 が 咲き 残 つて ゐる 事 か 。 見あげる と 、 太い 杉 の 木かげ に 、 すくすく と 伸びあが つた 古い 藤 蔓 が 、 さながら 女 の 取り乱した や うに 茎 を 垂れ 、 葉 を 垂れて 、 細長い 腕 を 離れ じ と ばかり 傍 の 樹 々 に 纏 ひ かけて ゐる 。 いろいろ の 木 の 囁き の なか に 、 この 木 の 声 のみ が 聞か れ なか つたの に 無理 は 無い 。 藤 は 忍び 音 に 泣いて ゐる のである 。