12. 夢 十 夜 - 夏目 漱石
夢 十 夜 - 夏目 漱石
第 五 夜
こんな 夢 を 見た 。 ・・
何でも よほど 古い 事 で 、 神代 に 近い 昔 と 思わ れる が 、 自分 が 軍 を して 運 悪く 敗北 たため に 、 生 擒 に なって 、 敵 の 大将 の 前 に 引き 据えられた 。 ・・
その頃 の 人 は みんな 背 が 高かった 。 そうして 、 みんな 長い 髯 を 生やして いた 。 革 の 帯 を 締めて 、 それ へ 棒 の ような 剣 を 釣る して いた 。 弓 は 藤 蔓 の 太い の を そのまま 用いた ように 見えた 。 漆 も 塗って なければ 磨き も かけて ない 。 極めて 素 樸 な も のであった 。 ・・
敵 の 大将 は 、 弓 の 真中 を 右 の 手 で 握って 、 その 弓 を 草 の 上 へ 突いて 、 酒 甕 を 伏せた ような もの の 上 に 腰 を かけて いた 。 その 顔 を 見る と 、 鼻 の 上 で 、 左右 の 眉 が 太く 接続って いる 。 その頃 髪 剃 と 云 う もの は 無論 なかった 。 ・・
自分 は 虜 だ から 、 腰 を かける 訳 に 行か ない 。 草 の 上 に 胡坐 を かいて いた 。 足 に は 大きな 藁沓 を 穿 いて いた 。 この 時代 の 藁沓 は 深い もの であった 。 立つ と 膝頭 まで 来た 。 その 端 の 所 は 藁 を 少し 編 残して 、 房 の ように 下げて 、 歩く と ばらばら 動く ように して 、 飾り と して いた 。 ・・
大将 は 篝火 で 自分 の 顔 を 見て 、 死ぬ か 生きる か と 聞いた 。 これ は その頃 の 習慣 で 、 捕虜 に は だれ でも 一応 は こう 聞いた もの である 。 生きる と 答える と 降参 した 意味 で 、 死ぬ と 云 う と 屈服 し ない と 云 う 事 に なる 。 自分 は 一言 死ぬ と 答えた 。 大将 は 草 の 上 に 突いて いた 弓 を 向 う へ 抛 げ て 、 腰 に 釣る した 棒 の ような 剣 を する り と 抜き かけた 。 それ へ 風 に 靡 いた 篝火 が 横 から 吹きつけた 。 自分 は 右 の 手 を 楓 の ように 開いて 、 掌 を 大将 の 方 へ 向けて 、 眼 の 上 へ 差し上げた 。 待て と 云 う 相 図 である 。 大将 は 太い 剣 を かちゃ り と 鞘 に 収めた 。 ・・
その頃 でも 恋 は あった 。 自分 は 死ぬ 前 に 一目 思う 女 に 逢いたい と 云った 。 大将 は 夜 が 開けて 鶏 が 鳴く まで なら 待つ と 云った 。 鶏 が 鳴く まで に 女 を ここ へ 呼ば なければ なら ない 。 鶏 が 鳴いて も 女 が 来 なければ 、 自分 は 逢わ ず に 殺されて しまう 。 ・・
大将 は 腰 を かけた まま 、 篝火 を 眺めて いる 。 自分 は 大きな 藁沓 を 組み合わした まま 、 草 の 上 で 女 を 待って いる 。 夜 は だんだん 更ける 。 ・・
時々 篝火 が 崩れる 音 が する 。 崩れる たび に 狼狽 えた ように 焔 が 大将 に なだれ かかる 。 真 黒 な 眉 の 下 で 、 大将 の 眼 が ぴかぴか と 光って いる 。 すると 誰 やら 来て 、 新しい 枝 を たくさん 火 の 中 へ 抛 げ 込んで 行く 。 しばらく する と 、 火 が ぱち ぱち と 鳴る 。 暗闇 を 弾き 返す ような 勇ましい 音 であった 。 ・・
この 時 女 は 、 裏 の 楢 の 木 に 繋いで ある 、 白い 馬 を 引き出した 。 鬣 を 三 度 撫でて 高い 背 に ひらり と 飛び乗った 。 鞍 も ない 鐙 も ない 裸馬 であった 。 長く 白い 足 で 、 太 腹 を 蹴る と 、 馬 は いっさ ん に 駆け出した 。 誰 か が 篝 り を 継ぎ足した ので 、 遠く の 空 が 薄 明るく 見える 。 馬 は この 明るい もの を 目懸けて 闇 の 中 を 飛んで 来る 。 鼻 から 火 の 柱 の ような 息 を 二 本 出して 飛んで 来る 。 それ でも 女 は 細い 足 で しきり なし に 馬 の 腹 を 蹴って いる 。 馬 は 蹄 の 音 が 宙 で 鳴る ほど 早く 飛んで 来る 。 女 の 髪 は 吹流し の ように 闇 の 中 に 尾 を 曳 いた 。 それ でも まだ 篝 の ある 所 まで 来られ ない 。 ・・
する と 真 闇 な 道 の 傍 で 、 たちまち こけ こっこう と いう 鶏 の 声 が した 。 女 は 身 を 空 様 に 、 両手 に 握った 手綱 を うんと 控えた 。 馬 は 前足 の 蹄 を 堅い 岩 の 上 に 発 矢 と 刻み込んだ 。 ・・
こけ こっこう と 鶏 が また 一声 鳴いた 。 ・・
女 は あっと 云って 、 緊 め た 手綱 を 一度に 緩めた 。 馬 は 諸 膝 を 折る 。 乗った 人 と 共に 真 向 へ 前 へ の めった 。 岩 の 下 は 深い 淵 であった 。 ・・
蹄 の 跡 は いまだに 岩 の 上 に 残って いる 。 鶏 の 鳴く 真似 を した もの は 天 探 女 である 。 この 蹄 の 痕 の 岩 に 刻みつけられて いる 間 、 天 探 女 は 自分 の 敵 である 。 ・・