16.2 或る 女
葉子 の なめた すべて の 経験 は 、 男 に 束縛 を 受ける 危険 を 思わ せる もの ばかり だった 。 しかし なんという 自然の いたずらだろう 。 それ と ともに 葉子 は 、 男 と いう もの なし に は 一刻 も 過ごさ れ ない もの と なって いた 。 砒石 の 用法 を 謬った 患者 が 、 その 毒 の 恐ろし さ を 知り ぬき ながら 、 その 力 を 借り なければ 生きて 行け ない ように 、 葉子 は 生 の 喜び の 源 を 、 ま かり 違えば 、 生 そのもの を 虫ばむ べき 男 と いう もの に 、 求め ず に は いられ ない ディレンマ に 陥って しまった のだ 。 ・・
肉 欲 の 牙 を 鳴らして 集まって 来る 男 たち に 対して 、( そういう 男 たち が 集まって 来る の は ほんとう は 葉子 自身 が ふりまく 香 い の ため だ と は 気づいて いて ) 葉子 は 冷笑 し ながら 蜘蛛 の ように 網 を 張った 。 近づく もの は 一 人 残らず その 美しい 四 つ 手 網 に からめ取った 。 葉子 の 心 は 知らず知らず 残忍に なって いた 。 ただ あの 妖力 ある 女 郎 蜘蛛 の ように 、 生きて いたい 要求 から 毎日 その 美しい 網 を 四 つ 手 に 張った 。 そして それ に 近づき もし 得 ないで ののしり 騒ぐ 人 たち を 、 自分 の 生活 と は 関係 の ない 木 か 石 で で も ある ように 冷 然 と 尻目 に かけた 。 ・・
葉子 は ほんとう を いう と 、 必要に 従う と いう ほか に 何 を すれば いい の か わから なかった 。 ・・
葉子 に 取って は 、 葉子 の 心持ち を 少しも 理解 して いない 社会 ほど 愚 かしげ な 醜い もの は なかった 。 葉子 の 目 から 見た 親類 と いう 一 群れ は ただ 貪欲な 賤民 と しか 思え なかった 。 父 は あわれむ べく 影 の 薄い 一 人 の 男性 に 過ぎ なかった 。 母 は ―― 母 は いちばん 葉子 の 身近に いた と いって いい 。 それ だけ 葉子 は 母 と 両立 し 得 ない 仇 敵 の ような 感じ を 持った 。 母 は 新しい 型 にわ が 子 を 取り入れる こと を 心得て は いた が 、 それ を 取り扱う 術 は 知ら なかった 。 葉子 の 性格 が 母 の 備えた 型 の 中 で 驚く ほど するする と 生長 した 時 に 、 母 は 自分 以上 の 法 力 を 憎む 魔女 の ように 葉子 の 行く 道 に 立ちはだかった 。 その 結果 二 人 の 間 に は 第三者 から 想像 も でき ない ような 反目 と 衝突 と が 続いた のだった 。 葉子 の 性格 は この 暗 闘 の お陰 で 曲折 の おもしろ さ と 醜 さ と を 加えた 。 しかし なんといっても 母 は 母 だった 。 正面 から は 葉子 の する 事 なす 事 に 批点 を 打ち ながら も 、 心 の 底 で いちばん よく 葉子 を 理解 して くれた に 違いない と 思う と 、 葉子 は 母 に 対して 不思議な なつかし み を 覚える のだった 。 ・・
母 が 死んで から は 、 葉子 は 全く 孤独である 事 を 深く 感じた 。 そして 始終 張りつめた 心持ち と 、 失望 から わき出る 快活 さ と で 、 鳥 が 木 から 木 に 果実 を 探る ように 、 人 から 人 に 歓楽 を 求めて 歩いた が 、 どこ から と も なく 不意に 襲って 来る 不安 は 葉子 を 底 知れ ぬ 悒鬱 の 沼 に 蹴落とした 。 自分 は 荒 磯 に 一 本 流れ よった 流れ 木 で は ない 。 しかし その 流れ 木 より も 自分 は 孤独だ 。 自分 は 一 ひら 風 に 散って ゆく 枯れ葉 で は ない 。 しかし その 枯れ葉 より 自分 は うらさびしい 。 こんな 生活 より ほか に する 生活 は ない の か しら ん 。 いったい どこ に 自分 の 生活 を じっと 見て いて くれる 人 が ある のだろう 。 そう 葉子 は しみじみ 思う 事 が ないで も なかった 。 けれども その 結果 は いつでも 失敗 だった 。 葉子 は こうした さびし さ に 促されて 、 乳母 の 家 を 尋ねたり 、 突然 大塚 の 内田 に あい に 行ったり して 見る が 、 そこ を 出て 来る 時 に は ただ 一 入 の 心 の むなし さ が 残る ばかりだった 。 葉子 は 思い余って また 淫らな 満足 を 求める ため に 男 の 中 に 割って は いる のだった 。 しかし 男 が 葉子 の 目の前 で 弱 味 を 見せた 瞬間 に 、 葉子 は 驕慢 な 女王 の ように 、 その 捕虜 から 面 を そむけて 、 その 出来事 を 悪夢 の ように 忌み きらった 。 冒険 の 獲物 は きまり きって 取る に も 足ら ない やく ざ もの である 事 を 葉子 は しみじみ 思わさ れた 。 ・・
こんな 絶望 的な 不安に 攻め さ いなめられ ながら も 、 その 不安に 駆り立てられて 葉子 は 木村 と いう 降参 人 を ともかく その 良 人 に 選んで みた 。 葉子 は 自分 が なんとか して 木村 に そり を 合わせる 努力 を した ならば 、 一生涯 木村 と 連れ添って 、 普通の 夫婦 の ような 生活 が でき ない もの で も ない と 一 時 思う まで に なって いた 。 しかし そんな つぎはぎ な 考え かた が 、 どうして いつまでも 葉子 の 心 の 底 を 虫ばむ 不安 を いやす 事 が できよう 。 葉子 が 気 を 落ち 付けて 、 米国 に 着いて から の 生活 を 考えて みる と 、 こう あって こそ と 思い込む ような 生活 に は 、 木村 は のけ 物 に なる か 、 邪魔者 に なる ほか は ない ように も 思えた 。 木村 と 暮らそう 、 そう 決心 して 船 に 乗った ので は あった けれども 、 葉子 の 気分 は 始終 ぐらつき 通し に ぐらついて いた のだ 。 手足 の ちぎれた 人形 を おもちゃ 箱 に しまった もの か 、 いっそ 捨てて しまった もの か と 躊躇 する 少女 の 心 に 似た ぞんざいな ため らい を 葉子 は いつまでも 持ち 続けて いた 。 ・・
そういう 時 突然 葉子 の 前 に 現われた の が 倉地 事務 長 だった 。 横浜 の 桟橋 に つなが れた 絵 島 丸 の 甲板 の 上 で 、 始めて 猛獣 の ような この 男 を 見た 時 から 、 稲妻 の ように 鋭く 葉子 は この 男 の 優越 を 感 受 した 。 世 が 世 ならば 、 倉地 は 小さな 汽船 の 事務 長 なん ぞ を して いる 男 で は ない 。 自分 と 同様に 間違って 境遇 づけられて 生まれて 来た 人間 な のだ 。 葉子 は 自分 の 身 に つまされて 倉地 を あわれみ もし 畏 れ も した 。 今 まで だれ の 前 に 出て も 平気で 自分 の 思う存分 を 振る舞って いた 葉子 は 、 この 男 の 前 で は 思わず 知ら ず 心 に も ない 矯飾 を 自分 の 性格 の 上 に まで 加えた 。 事務 長 の 前 で は 、 葉子 は 不思議に も 自分 の 思って いる の と ちょうど 反対の 動作 を して いた 。 無 条件 的な 服従 と いう 事 も 事務 長 に 対して だけ は ただ 望ましい 事 に ばかり 思えた 。 この 人 に 思う存分 打ちのめさ れたら 、 自分 の 命 は 始めて ほんとうに 燃え上がる のだ 。 こんな 不思議な 、 葉子 に は あり 得 ない 欲望 すら が 少しも 不思議で なく 受け入れられた 。 そのくせ 表面 で は 事務 長 の 存在 を すら 気 が 付か ない ように 振る舞った 。 ことに 葉子 の 心 を 深く 傷つけた の は 、 事務 長 の 物 懶 げ な 無関心な 態度 だった 。 葉子 が どれほど 人 の 心 を ひきつける 事 を いった 時 でも 、 した 時 でも 、 事務 長 は 冷 然 と して 見向こう と も し なかった 事 だ 。 そういう 態度 に 出られる と 、 葉子 は 、 自分 の 事 は 棚 に 上げて おいて 、 激しく 事務 長 を 憎んだ 。 この 憎しみ の 心 が 日一日 と 募って 行く の を 非常に 恐れた けれども 、 どう しよう も なかった のだ 。 ・・
しかし 葉子 は とうとう けさ の 出来事 にぶっ突かって しまった 。 葉子 は 恐ろしい 崕 の きわ から めちゃくちゃに 飛び込んで しまった 。 葉子 の 目の前 で 今 まで 住んで いた 世界 は がらっと 変わって しまった 。 木村 が どうした 。 米国 が どうした 。 養って 行か なければ なら ない 妹 や 定子 が どうした 。 今 まで 葉子 を 襲い 続けて いた 不安 は どうした 。 人 に 犯さ れ まい と 身構えて いた その 自尊心 は どうした 。 そんな もの は 木っ葉 みじん に 無くなって しまって いた 。 倉地 を 得たら ば どんな 事 でも する 。 どんな 屈辱 でも 蜜 と 思おう 。 倉地 を 自分 ひと り に 得 さえ すれば ……。 今 まで 知ら なかった 、 捕虜 の 受 くる 蜜 より 甘い 屈辱 ! ・・
葉子 の 心 は こんなに 順序 立って いた わけで は ない 。 しかし 葉子 は 両手 で 頭 を 押えて 鏡 を 見入り ながら こんな 心持ち を 果てし も なく かみしめた 。 そして 追想 は 多く の 迷路 を たどり ぬいた 末 に 、 不思議な 仮 睡 状態 に 陥る 前 まで 進んで 来た 。 葉子 は ソファ を 牝鹿 の ように 立ち上がって 、 過去 と 未来 と を 断ち切った 現在 刹那 の くらむ ばかりな 変身 に 打ち ふるい ながら ほほえんだ 。 ・・
その 時 ろくろく ノック も せ ず に 事務 長 が はいって 来た 。 葉子 の ただならぬ 姿 に は 頓着 なく 、・・
「 もう すぐ 検疫 官 が やって 来る から 、 さっき の 約束 を 頼みます よ 。 資本 入ら ず で 大役 が 勤まる んだ 。 女 と いう もの は いい もの だ な 。 や 、 しかし あなた の は だいぶ 資本 が か かっと る でしょう ね 。 …… 頼みます よ 」 と 戯談 らしく いった 。 ・・
「 は あ 」 葉子 は なんの 苦 も なく 親しみ の 限り を こめた 返事 を した 。 その 一声 の 中 に は 、 自分 でも 驚く ほど な 蠱惑 の 力 が こめられて いた 。 ・・
事務 長 が 出て 行く と 、 葉子 は 子供 の ように 足なみ 軽く 小さな 船室 の 中 を 小 跳 りして 飛び回った 。 そして 飛び回り ながら 、 髪 を ほご し に かかって 、 時々 鏡 に 映る 自分 の 顔 を 見 やり ながら 、 こらえ きれ ない ように ぬすみ 笑い を した 。