25.1 或る 女
それ から 一 日 置いて 次の 日 に 古藤 から 九 時 ごろ に 来る が いい か と 電話 が かかって 来た 。 葉子 は 十 時 すぎ に して くれ と 返事 を さ せた 。 古藤 に 会う に は 倉地 が 横浜 に 行った あと が いい と 思った から だ 。 ・・
東京 に 帰って から 叔母 と 五十川 女史 の 所 へ は 帰った 事 だけ を 知らせて は 置いた が 、 どっち から も 訪問 は 元 より の 事 一言半句 の 挨拶 も なかった 。 責めて 来る なり 慰めて 来る なり 、 なんとか し そうな もの だ 。 あまり と いえば 人 を 踏みつけ に した しわざ だ と は 思った けれども 、 葉子 と して は 結 句 それ が めんどう が なくって いい と も 思った 。 そんな 人 たち に 会って いさく さ 口 を きく より も 、 古藤 と 話し さえ すれば その 口裏 から 東京 の 人 たち の 心持ち も 大体 は わかる 。 積極 的な 自分 の 態度 は その 上 で 決めて も おそく は ない と 思案 した 。 ・・
双 鶴 館 の 女将 は ほんとうに 目 から 鼻 に 抜ける ように 落ち度 なく 、 葉子 の 影 身 に なって 葉子 の ため に 尽くして くれた 。 その 後ろ に は 倉地 が いて 、 あの いかにも 疎 大 らしく 見え ながら 、 人 の 気 も つか ない ような 綿密な 所 に まで 気 を 配って 、 采配 を 振って いる の は わかって いた 。 新聞 記者 など が どこ を どうして 探り 出した か 、 始め の うち は 押し 強く 葉子 に 面会 を 求めて 来た の を 、 女将 が 手ぎわ よく 追い払った ので 、 近づき こそ は し なかった が 遠巻き に して 葉子 の 挙動 に 注意 して いる 事 など を 、 女将 は 眉 を ひそめ ながら 話して 聞か せたり した 。 木部 の 恋人 であった と いう 事 が ひどく 記者 たち の 興味 を ひいた ように 見えた 。 葉子 は 新聞 記者 と 聞く と 、 震え上がる ほど いやな 感じ を 受けた 。 小さい 時分 に 女 記者 に なろう など と 人 に も 口外 した 覚え が ある くせ に 、 探訪 など に 来る 人 たち の 事 を 考える と いちばん 賤 しい 種類 の 人間 の ように 思わ ないで はいら れ なかった 。 仙台 で 、 新聞 社 の 社長 と 親 佐 と 葉子 と の 間 に 起こった 事 と して 不倫な 捏造 記事 ( 葉子 は その 記事 の うち 、 母 に 関して は どの へん まで が 捏造 である か 知ら なかった 。 少なくとも 葉子 に 関して は 捏造 だった ) が 掲載 さ れた ばかりで なく 、 母 の いわゆる 寃罪 は 堂々と 新聞 紙上 で 雪 が れた が 、 自分 の は とうとう そのまま に なって しまった 、 あの 苦い 経験 など が ますます 葉子 の 考え を 頑 な に した 。 葉子 が 「 報 正 新報 」 の 記事 を 見た 時 も 、 それほど 田川 夫人 が 自分 を 迫害 しよう と する なら 、 こちら も どこ か の 新聞 を 手 に 入れて 田川 夫人 に 致命 傷 を 与えて やろう か と いう ( 道徳 を 米 の 飯 と 同様に 見て 生きて いる ような 田川 夫人 に 、 その 点 に 傷 を 与えて 顔 出し が でき ない ように する の は 容易な 事 だ と 葉子 は 思った ) 企み を 自分 ひと り で 考えた 時 でも 、 あの 記者 と いう もの を 手なずける まで に 自分 を 堕落 さ せ たく ない ばかりに その 目論見 を 思いとどまった ほど だった 。 ・・
その 朝 も 倉地 と 葉子 と は 女将 を 話 相手 に 朝飯 を 食い ながら 新聞 に 出た あの 奇怪な 記事 の 話 を して 、 葉子 が とうに それ を ちゃんと 知っていた 事 など を 談 り 合い ながら 笑ったり した 。 ・・
「 忙しい に かまけて 、 あれ は あの まま に して おった が …… 一 つ は あまり 短 兵 急に こっち から 出しゃ ば る と 足 もと を 見 や がる で 、…… あれ は なんとか せ ん と めんどうだ て 」・・
と 倉地 は がらっと 箸 を 膳 に 捨て ながら 、 葉子 から 女将 に 目 を やった 。 ・・
「 そう です と も さ 。 下らない 、 あなた 、 あれ で あなた の お 職 掌 に でも けち が 付いたら ほんとうに ばかばかしゅう ご ざん す わ 。 報 正 新報 社 に なら わたし 御 懇意の 方 も 二 人 や 三 人 は いらっしゃる から 、 なんなら わたし から それ と なく お 話し して みて も よう ございます わ 。 わたし は また お 二 人 と も 今 まで あんまり 平気で いらっしゃる んで 、 もう なんとか お 話 が ついた のだ と ばかり 思ってました の 」・・
と 女将 は 怜 し そうな 目 に 真 味な 色 を 見せて こういった 。 倉地 は 無頓着に 「 そう さ な 」 と いった きり だった が 、 葉子 は 二 人 の 意見 が ほぼ 一致 した らしい の を 見る と 、 いくら 女将 が 巧みに 立ち回って も それ を もみ消す 事 は でき ない と いい出した 。 なぜ と いえば それ は 田川 夫人 が 何 か 葉子 を 深く 意 趣 に 思って させた 事 で 、「 報 正 新報 」 に それ が 現われた わけ は 、 その 新聞 が 田川 博士 の 機関 新聞 だ から だ と 説明 した 。 倉地 は 田川 と 新聞 と の 関係 を 始めて 知った らしい 様子 で 意外な 顔つき を した 。 ・・
「 おれ は また 興 録 の やつ …… あいつ は べらべら した やつで 、 右左 の はっきり し ない 油断 の なら ぬ 男 だ から 、 あいつ の 仕事 か と も 思って みた が 、 なるほど それ に して は 記事 の 出 かた が 少し 早 すぎる て 」・・
そう いって やおら 立ち上がり ながら 次の 間 に 着 かえ に 行った 。 ・・
女 中 が 膳 部 を 片づけ 終わら ぬ うち に 古藤 が 来た と いう 案内 が あった 。 ・・
葉子 は ちょっと 当惑 した 。 あつらえて おいた 衣類 が まだ でき ない の と 、 着 具合 が よくって 、 倉地 から も しっくり 似合う と ほめられる ので 、 その 朝 も 芸者 の ちょいちょい 着 らしい 、 黒 繻子 の 襟 の 着いた 、 伝法 な 棒 縞 の 身 幅 の 狭い 着物 に 、 黒 繻子 と 水色 匹 田 の 昼夜 帯 を しめて 、 どてら を 引っかけて いた ばかりで なく 、 髪 まで やはり 櫛 巻き に して いた のだった 。 え ゝ 、 いい 構う もの か 、 どうせ 鼻 を あかさ せる なら のっけ から あかさ せて やろう 、 そう 思って 葉子 は そのまま の 姿 で 古藤 を 待ち構えた 。 ・・
昔 の まま の 姿 で 、 古藤 は 旅館 と いう より も 料理 屋 と いった ふう の 家 の 様子 に 少し 鼻 じ ろ み ながら は いって 来た 。 そうして 飛び 離れて 風体 の 変わった 葉子 を 見る と 、 なおさら 勝手 が 違って 、 これ が あの 葉子 な の か と いう ように 、 驚き の 色 を 隠し 立て も せ ず に 顔 に 現わし ながら 、 じっと その 姿 を 見た 。 ・・
「 まあ 義一 さん しばらく 。 お 寒い の ね 。 どうぞ 火鉢 に よって ください ましな 。 ちょっと 御免 ください よ 」 そう いって 、 葉子 は あでやかに 上体 だけ を 後ろ に ひねって 、 広 蓋 から 紋付き の 羽織 を 引き出して 、 すわった まま どてら と 着 直した 。 なまめかしい におい が その 動作 に つれて ひそやかに 部屋 の 中 に 動いた 。 葉子 は 自分 の 服装 が どう 古藤 に 印象 して いる か など を 考えて も み ない ようだった 。 十 年 も 着 慣れた ふだん着 で きのう も 会った ばかりの 弟 の ように 親しい 人 に 向かう ような とり なし を した 。 古藤 は とみに は 口 も きけ ない ように 思い惑って いる らしかった 。 多少 垢 に なった 薩摩 絣 の 着物 を 着て 、 観世 撚 の 羽織 紐 に も 、 きちんと はいた 袴 に も 、 その 人 の 気質 が 明らかに 書き記して ある ようだった 。 ・・
「 こんな でたいへん 変な 所 です けれども どう か 気楽に なさって ください まし 。 それ で ない と なんだか 改まって しまって お 話 が しに くくって いけません から 」・・
心 置き ない 、 そして 古藤 を 信頼 して いる 様子 を 巧みに も それ と なく 気取ら せる ような 葉子 の 態度 は だんだん 古藤 の 心 を 静めて 行く らしかった 。 古藤 は 自分 の 長所 も 短所 も 無自覚で いる ような 、 そのくせ どこ か に 鋭い 光 の ある 目 を あげて まじまじ と 葉子 を 見 始めた 。 ・・
「 何より 先 に お 礼 。 ありがとう ございました 妹 たち を 。 おととい 二 人 で ここ に 来てたいへん 喜んで いました わ 」・・
「 なんにも し やしない 、 ただ 塾 に 連れて 行って 上げた だけ です 。 お 丈夫です か 」・・
古藤 は ありのまま を ありのままに いった 。 そんな 序曲 的な 会話 を 少し 続けて から 葉子 は おもむろに 探り 知って おか なければ なら ない ような 事柄 に 話題 を 向けて 行った 。 ・・
「 今度 こんな ひょんな 事 で わたし アメリカ に 上陸 も せ ず 帰って 来る 事 に なった んです が 、 ほんとう を おっしゃって ください よ 、 あなた は いったい わたし を どう お 思い に なって 」・・
葉子 は 火鉢 の 縁 に 両 肘 を ついて 、 両手 の 指先 を 鼻 の 先 に 集めて 組んだり ほどいたり し ながら 、 古藤 の 顔 に 浮かび 出る すべて の 意味 を 読もう と した 。 ・・
「 え ゝ 、 ほんとう を いいましょう 」・・
そう 決心 する もの の ように 古藤 は いって から ひと 膝 乗り出した 。 ・・
「 この 十二 月 に 兵隊 に 行か なければ なら ない もの だ から 、 それ まで に 研究 室 の 仕事 を 片づく もの だけ は 片づけて 置こう と 思った ので 、 何もかも 打ち捨てて いました から 、 この あいだ 横浜 から あなた の 電話 を 受ける まで は 、 あなた の 帰って 来られた の を 知ら ないで いた んです 。 もっとも 帰って 来られる ような 話 は どこ か で 聞いた ようでした が 。 そして 何 か それ に は 重大な わけ が ある に 違いない と は 思って いました が 。 ところが あなた の 電話 を 切る と まもなく 木村 君 の 手紙 が 届いて 来た んです 。 それ は たぶん 絵 島 丸 より 一 日 か 二 日 早く 大北 汽船 会社 の 船 が 着いた はずだ から 、 それ が 持って 来た んでしょう 。 ここ に 持って 来ました が 、 それ を 見て 僕 は 驚いて しまった んです 。 ずいぶん 長い 手紙 だ から あと で 御覧 に なる なら 置いて 行きましょう 。 簡単に いう と ( そう いって 古藤 は その 手紙 の 必要な 要点 を 心 の 中 で 整頓 する らしく しばらく 黙って いた が ) 木村 君 は あなた が 帰る ように なった の を 非常に 悲しんで いる ようです 。 そして あなた ほど 不幸な 運命 に もてあそば れる 人 は ない 。 また あなた ほど 誤解 を 受ける 人 は ない 。 だれ も あなた の 複雑な 性格 を 見 窮めて 、 その 底 に ある 尊い 点 を 拾い上げる 人 が ない から 、 いろいろな ふうに あなた は 誤解 されて いる 。 あなた が 帰る に ついて は 日本 でも 種々 さまざまな 風説 が 起こる 事 だろう けれども 、 君 だけ は それ を 信じて くれちゃ 困る 。 それ から …… あなた は 今 でも 僕 の 妻 だ …… 病気 に 苦しめられ ながら 、 世の中 の 迫害 を 存分に 受け なければ なら ない あわれむ べき 女 だ 。 他人 が なんと いおう と 君 だけ は 僕 を 信じて …… もし あなた を 信ずる こと が でき なければ 僕 を 信じて 、 あなた を 妹 だ と 思って あなた の ため に 戦って くれ …… ほんとう は もっと 最大 級 の 言葉 が 使って ある のだ けれども 大体 そんな 事 が 書いて あった んです 。 それ で ……」・・
「 それ で ? 」・・
葉子 は 目の前 で 、 こん がら がった 糸 が 静かに ほごれて 行く の を 見つめる ように 、 不思議な 興味 を 感じ ながら 、 顔 だけ は 打ち沈んで こう 促した 。 ・・
「 それ で です ね 。 僕 は その 手紙 に 書いて ある 事 と あなた の 電話 の 『 滑稽だった 』 と いう 言葉 と を どう 結び付けて みたら いい か わから なく なって しまった んです 。 木村 の 手紙 を 見 ない 前 でも あなた の あの 電話 の 口調 に は …… 電話 だった せい か まるで のんきな 冗談 口 の ように しか 聞こえ なかった もの だ から …… ほんとう を いう と かなり 不快 を 感じて いた 所 だった のです 。 思った とおり を いいます から 怒ら ないで 聞いて ください 」・・
「 何 を 怒りましょう 。 ようこそ はっきり おっしゃって くださる わ ね 。 あれ は わたし も あと で ほんとうに すまなかった と 思いました の よ 。 木村 が 思う ように わたし は 他人 の 誤解 なん ぞ そんなに 気 に して は いない の 。 小さい 時 から 慣れっこに なって る んです もの 。 だから 皆さん が 勝手な あて 推量 なぞ を して いる の が 少し は 癪 に さわった けれども 、 滑稽に 見えて しかたがなかった んです の よ 。 そこ に もって 来て 電話 で あなた の お 声 が 聞こえた もん だ から 、 飛び立つ ように うれしくって 思わず しら ず あんな 軽はずみな 事 を いって しまいました の 。 木村 から 頼まれて 私 の 世話 を 見て くださった 倉地 と いう 事務 長 の 方 も それ は きさくな 親切な 人 じゃ あります けれども 、 船 で 始めて 知り合い に なった 方 だ から 、 お 心安 立て な ん ぞ は でき ない でしょう 。 あなた の お 声 が した 時 に は ほんとうに 敵 の 中 から 救い出さ れた ように 思った んです もの …… まあ しかし そんな 事 は 弁解 する に も 及びません わ 。 それ から どう なさって ? 」・・
古藤 は 例 の 厚い 理想 の 被 の 下 から 、 深く 隠さ れた 感情 が 時々 きらきら と ひらめく ような 目 を 、 少し 物 惰 げ に 大きく 見開いて 葉子 の 顔 を つれ づれ と 見 やった 。 初対面 の 時 に は 人並み は ずれて 遠慮がちだった くせ に 、 少し 慣れて 来る と 人 を 見 徹そう と する ように 凝視 する その 目 は 、 いつでも 葉子 に 一種 の 不安 を 与えた 。 古藤 の 凝視 に は ずうずうしい と いう 所 は 少しも なかった 。 また 故意 に そう する らしい 様子 も 見え なかった 。 少し 鈍 と 思わ れる ほど 世 事 に うとく 、 事物 の ほんとうの 姿 を 見て取る 方法 に 暗い ながら 、 まっ正直に 悪意 なく それ を なし遂げよう と する らしい 目つき だった 。 古藤 なん ぞ に 自分 の 秘密 が なんで あばかれて たまる もの か と 多寡 を くくり つつ も 、 その物 軟らか ながら どんどん 人 の 心 の 中 に はいり込もう と する ような 目つき に あう と 、 いつか 秘密の どん底 を 誤 た ずつ かま れ そうな 気 が して なら なかった 。 そう なる に して も しかし それ まで に は 古藤 は 長い 間 忍耐 して 待たなければ なら ない だろう 、 そう 思って 葉子 は 一面 小気味よく も 思った 。