26.2 或る 女
向かい風 が うなり を 立てて 吹きつけて 来る と 、 車 夫 は 思わず 車 を あおら せて 足 を 止める ほど だった 。 この 四五 日 火鉢 の 前 ばかり に いた 葉子 に 取って は 身 を 切る か と 思わ れる ような 寒 さ が 、 厚い 膝 かけ の 目 まで 通して 襲って 来た 。 葉子 は 先ほど 女将 の 言葉 を 聞いた 時 に は さほど と も 思って い なかった が 、 少し ほど たった今 に なって みる と 、 それ が ひしひし と 身 に こたえる の を 感じ 出した 。 自分 は ひょっとすると あざむかれて いる 、 もてあそび もの に されて いる 。 倉地 は やはり どこまでも あの 妻子 と 別れる 気 は ない のだ 。 ただ 長い 航海 中 の 気まぐれ から 、 出来心 に 自分 を 征服 して みよう と 企てた ばかりな のだ 。 この 恋 の いきさつ が 葉子 から 持ち出さ れた もの である だけ に 、 こんな 心持ち に なって 来る と 、 葉子 は 矢 も たて も たまら ず 自分 に ひけ 目 を 覚えた 。 幸福 ―― 自分 が 夢想 して いた 幸福 が とうとう 来た と 誇り が に 喜んだ その 喜び は さもしい ぬか喜び に 過ぎ なかった らしい 。 倉地 は 船 の 中 で と 同様の 喜び で まだ 葉子 を 喜んで は いる 。 それ に 疑い を 入れよう 余地 は ない 。 けれども 美しい 貞 節 な 妻 と 可憐な 娘 を 三 人 まで 持って いる 倉地 の 心 が いつまで 葉子 に ひか されて いる か 、 それ を だれ が 語り 得よう 、 葉子 の 心 は 幌 の 中 に 吹きこむ 風 の 寒 さ と 共に 冷えて 行った 。 世の中 から きれいに 離れて しまった 孤独な 魂 が たった 一 つ そこ に は 見いださ れる ように も 思えた 。 どこ に うれし さ が ある 、 楽し さ が ある 。 自分 は また 一 つ の 今 まで に 味わわ なかった ような 苦悩 の 中 に 身 を 投げ込もう と して いる のだ 。 また うまう まと いたずら 者 の 運命 に して やられた のだ 。 それにしても もう この 瀬戸ぎわ から 引く 事 は でき ない 。 死ぬ まで …… そうだ 死んで も この 苦しみ に 浸り きら ず に 置く もの か 。 葉子 に は 楽し さ が 苦し さ な の か 、 苦し さ が 楽し さ な の か 、 全く 見さかい が つか なく なって しまって いた 。 魂 を 締め 木 に かけて その 油 で も しぼり あげる ような もだえ の 中 に やむ に やま れ ぬ 執着 を 見いだして われながら 驚く ばかりだった 。 ・・
ふと 車 が 停 まって 梶 棒 が おろさ れた ので 葉子 は はっと 夢心地 から われ に 返った 。 恐ろしい 吹き 降り に なって いた 。 車 夫 が 片足 で 梶 棒 を 踏まえて 、 風 で 車 の よろめく の を 防ぎ ながら 、 前 幌 を はずし に かかる と 、 まっ暗 だった 前方 から かすかに 光 が もれて 来た 。 頭 の 上 で は ざ あざ あと 降りしきる 雨 の 中 に 、 荒海 の 潮騒 の ような 物 すごい 響き が 何 か 変 事 でも わいて 起こり そうに 聞こえて いた 。 葉子 は 車 を 出る と 風 に 吹き飛ばさ れ そうに なり ながら 、 髪 や 新調 の 着物 の ぬれる の も かまわ ず 空 を 仰いで 見た 。 漆 を 流した ような 雲 で 固く とざさ れた 雲 の 中 に 、 漆 より も 色 濃く むらむら と 立ち 騒いで いる の は 古い 杉 の 木 立ち だった 。 花壇 らしい 竹 垣 の 中 の 灌木 の 類 は 枝 先 を 地 に つけ ん ばかりに 吹き なびいて 、 枯れ葉 が 渦 の ように ばらばら と 飛び回って いた 。 葉子 は われ に も なく そこ に べったり すわり込んで しまい たく なった 。 ・・
「 おい 早く はいらん か よ 、 ぬれて しまう じゃ ない か 」・・
倉地 が ランプ の 灯 を かばい つつ 家 の 中 から どなる の が 風 に 吹き ちぎら れ ながら 聞こえて 来た 。 倉地 が そこ に いる と いう 事 さえ 葉子 に は 意外の ようだった 。 だいぶ 離れた 所 で ど たん と 戸 か 何 か はずれた ような 音 が した と 思う と 、 風 は また 一 しきり うなり を 立てて 杉 叢 を こそ い で 通りぬけた 。 車 夫 は 葉子 を 助けよう に も 梶 棒 を 離れれば 車 を けし 飛ばさ れる ので 、 提灯 の 尻 を 風上 の ほう に 斜 に 向けて 目 八 分 に 上げ ながら 何 か 大声 に 後ろ から 声 を かけて いた 。 葉子 は すごすご と して 玄関 口 に 近づいた 。 一杯 きげん で 待ち あぐんだ らしい 倉地 の 顔 の 酒 ほてり に 似 ず 、 葉子 の 顔 は 透き通る ほど 青ざめて いた 。 なよなよ と まず 敷き 台 に 腰 を おろして 、 十 歩 ばかり 歩く だけ で 泥 に なって しまった 下駄 を 、 足先 で 手伝い ながら 脱ぎ捨てて 、 ようやく 板の間 に 立ち上がって から 、 うつろな 目 で 倉地 の 顔 を じっと 見入った 。 ・・
「 どう だった 寒かったろう 。 まあ こっち に お 上がり 」・・
そう 倉地 は いって 、 そこ に 出合わ して いた 女 中 らしい 人 に 手 ランプ を 渡す と 華車 な 少し 急な 階子 段 を のぼって 行った 。 葉子 は 吾妻 コート も 脱が ず に いいかげん ぬれた まま で 黙って その あと から ついて行った 。 ・・
二 階 の 間 は 電 燈 で 昼間 より 明るく 葉子 に は 思わ れた 。 戸 と いう 戸 が がた ぴし と 鳴り はためいて いた 。 板 葺 き らしい 屋根 に 一 寸 釘 でも たたきつける ように 雨 が 降り つけて いた 。 座敷 の 中 は 暖かく いきれて 、 飲み食い する 物 が 散らかって いる ようだった 。 葉子 の 注意 の 中 に は それ だけ の 事 が かろうじて は いって 来た 。 そこ に 立った まま の 倉地 に 葉子 は 吸いつけられる ように 身 を 投げかけて 行った 。 倉地 も 迎え 取る ように 葉子 を 抱いた と 思う と そのまま そこ に どっか と あぐら を かいた 。 そして 自分 の ほてった 頬 を 葉子 の に すり 付ける と さすが に 驚いた ように 、・・
「 こりゃ どう だ 冷えた に も 氷 の ようだ 」・・
と いい ながら その 顔 を 見入ろう と した 。 しかし 葉子 は 無性に 自分 の 顔 を 倉地 の 広い 暖かい 胸 に 埋めて しまった 。 なつかしみ と 憎しみ と の もつれ 合った 、 かつて 経験 し ない 激しい 情緒 が すぐに 葉子 の 涙 を 誘い出した 。 ヒステリー の ように 間 歇的 に ひき 起こる すすり泣き の 声 を かみしめて も かみしめて も とめる 事 が でき なかった 。 葉子 は そうした まま 倉地 の 胸 で 息 気 を 引き取る 事 が できたら と 思った 。 それとも 自分 の なめて いる ような 魂 の もだえ の 中 に 倉地 を 巻き込む 事 が できたら ば と も 思った 。 ・・
いそいそ と 世話 女房 らしく 喜び勇んで 二 階 に 上がって 来る 葉子 を 見いだす だろう と ばかり 思って いた らしい 倉地 は 、 この 理由 も 知れ ぬ 葉子 の 狂 体 に 驚いた らしかった 。 ・・
「 どうした と いう んだ な 、 え 」・・
と 低く 力 を こめて いい ながら 、 葉子 を 自分 の 胸 から 引き離そう と する けれども 、 葉子 は ただ 無性に かぶり を 振る ばかりで 、 駄々 児 の ように 、 倉地 の 胸 に しがみついた 。 できる なら その 肉 の 厚い 男らしい 胸 を かみ 破って 、 血みどろに なり ながら その 胸 の 中 に 顔 を 埋めこみたい ―― そういうように 葉子 は 倉地 の 着物 を かんだ 。 ・・
徐 かに で は ある けれども 倉地 の 心 は だんだん 葉子 の 心持ち に 染められて 行く ようだった 。 葉子 を かき 抱く 倉地 の 腕 の 力 は 静かに 加わって 行った 。 その 息 気づか い は 荒く なって 来た 。 葉子 は 気 が 遠く なる ように 思い ながら 、 締め 殺す ほど 引きしめて くれ と 念じて いた 。 そして 顔 を 伏せた まま 涙 の ひま から 切れ切れに 叫ぶ ように 声 を 放った 。 ・・
「 捨て ないで ちょうだい と は いいません …… 捨てる なら 捨てて くださって も ようご ざん す …… その代わり …… その代わり …… はっきり おっしゃって ください 、 ね …… わたし は ただ 引きずられて 行く の が いやな んです ……」・・
「 何 を いって る んだ お前 は ……」・・
倉地 の かんで ふくめる ような 声 が 耳 も と 近く 葉子 に こう ささやいた 。 ・・
「 それ だけ は …… それ だけ は 誓って ください …… ごまかす の は わたし は いや …… いやです 」・・
「 何 を …… 何 を ごまかす かい 」・・
「 そんな 言葉 が わたし は きらいです 」・・
「 葉子 ! 」・・
倉地 は もう 熱情 に 燃えて いた 。 しかし それ は いつでも 葉子 を 抱いた 時 に 倉地 に 起こる 野獣 の ような 熱情 と は 少し 違って いた 。 そこ に は やさしく 女 の 心 を いたわる ような 影 が 見えた 。 葉子 は それ を うれしく も 思い 、 物 足ら なく も 思った 。 ・・
葉子 の 心 の 中 は 倉地 の 妻 の 事 を いい出そう と する 熱意 で いっぱいに なって いた 。 その 妻 が 貞 淑 な 美しい 女 である と 思えば 思う ほど 、 その 人 が 二 人 の 間 に はさまって いる の が 呪わ しかった 。 た とい 捨てられる まで も 一 度 は 倉地 の 心 を その 女 から 根こそぎ 奪い取ら なければ 堪 念 が でき ない ような ひたむきに 狂暴な 欲 念 が 胸 の 中 で は はち 切れ そうに 煮えくり返って いた 。 けれども 葉子 は どうしても それ を 口 の 端に 上せる 事 は でき なかった 。 その 瞬間 に 自分 に 対する 誇り が 塵 芥 の ように 踏みにじら れる の を 感じた から だ 。 葉子 は 自分 ながら 自分 の 心 が じれったかった 。 倉地 の ほう から 一言 も それ を いわ ない の が 恨めしかった 。 倉地 は そんな 事 は いう に も 足ら ない と 思って いる の かも しれ ない が …… い ゝ え そんな 事 は ない 、 そんな 事 の あろう はず は ない 。 倉地 は やはり 二 股 かけて 自分 を 愛して いる のだ 。 男 の 心 に は そんな みだらな 未練 が ある はずだ 。 男 の 心 と は いう まい 、 自分 も 倉地 に 出あう まで は 、 異性 に 対する 自分 の 愛 を 勝手に 三 つ に も 四 つ に も 裂いて みる 事 が できた のだ 。 …… 葉子 は ここ に も 自分 の 暗い 過去 の 経験 の ため に 責め さいなま れた 。 進んで 恋 の とりこ と なった もの が 当然 陥ら なければ なら ない たとえ よう の ない ほど 暗く 深い 疑惑 は あと から あと から 口実 を 作って 葉子 を 襲う のだった 。 葉子 の 胸 は 言葉 どおり に 張り裂けよう と して いた 。 ・・
しかし 葉子 の 心 が 傷めば 傷む ほど 倉地 の 心 は 熱して 見えた 。 倉地 は どうして 葉子 が こんなに きげん を 悪く して いる の か を 思い 迷って いる 様子 だった 。 倉地 は やがて しいて 葉子 を 自分 の 胸 から 引き 放して その 顔 を 強く 見守った 。 ・・
「 何 を そう 理屈 も なく 泣いて いる のだ …… お前 は おれ を 疑って いる な 」・・
葉子 は 「 疑わ ないで いられます か 」 と 答えよう と した が 、 どうしても それ は 自分 の 面目 に かけて 口 に は 出せ なかった 。 葉子 は 涙 に 解けて 漂う ような 目 を 恨めし げ に 大きく 開いて 黙って 倉地 を 見返した 。 ・・
「 きょう おれ は とうとう 本店 から 呼び出さ れた んだった 。 船 の 中 で の 事 を それ と なく 聞き ただそう と し おった から 、 おれ は 残らず いって のけた よ 。 新聞 に おれたち の 事 が 出た 時 でも が 、 あわてる が もの は ない と 思っとった んだ 。 どうせ いつか は 知れる 事 だ 。 知れる ほど なら 、 大っぴ ら で 早い が いい くらい の もの だ 。 近い うち に 会社 の ほう は 首 に なろう が 、 おれ は 、 葉子 、 それ が 満足な んだ ぞ 。 自分 で 自分 の 面 に 泥 を 塗って 喜んで る おれ が ばかに 見えよう な 」・・
そう いって から 倉地 は 激しい 力 で 再び 葉子 を 自分 の 胸 に 引き寄せよう と した 。 ・・
葉子 は しかし そう は させ なかった 。 素早く 倉地 の 膝 から 飛びのいて 畳 の 上 に 頬 を 伏せた 。 倉地 の 言葉 を そのまま 信じて 、 素直に うれし がって 、 心 を 涙 に 溶いて 泣き たかった 。 しかし 万一 倉地 の 言葉 が その場のがれ の 勝手な 造り 事 だったら …… なぜ 倉地 は 自分 の 妻 や 子供 たち の 事 を いって は 聞か せて くれ ない のだ 。 葉子 は わけ の わから ない 涙 を 泣く より 術 が なかった 。 葉子 は 突っ伏した まま で さめざめ と 泣き出した 。 ・・
戸外 の あらし は 気勢 を 加えて 、 物 すさまじく ふけて 行く 夜 を 荒れ狂った 。 ・・
「 おれ の いう た 事 が わから ん なら まあ 見とる が いい さ 。 おれ は くどい 事 は 好か ん から な 」・・
そう いい ながら 倉地 は 自分 を 抑制 しよう と する ように しいて 落ち着いて 、 葉巻 を 取り上げて 煙草 盆 を 引き寄せた 。 ・・
葉子 は 心 の 中 で 自分 の 態度 が 倉地 の 気 を まずく して いる の を はらはら し ながら 思いやった 。 気 を まずく する だけ でも それ だけ 倉地 から 離れ そうな の が この上 なく つらかった 。 しかし 自分 で 自分 を どう する 事 も でき なかった 。 ・・
葉子 は あらし の 中 に われ と わが身 を さいなみ ながら さめざめ と 泣き 続けた 。