30.1 或る 女
「 僕 が 毎日 ―― 毎日 と は いわ ず 毎 時間 あなた に 筆 を 執ら ない の は 執り たく ない から 執ら ない の では ありません 。 僕 は 一 日 あなた に 書き 続けて いて も なお 飽き足ら ない のです 。 それ は 今 の 僕 の 境界 で は 許さ れ ない 事 です 。 僕 は 朝 から 晩 まで 機械 の ごとく 働か ねば なりません から 。 ・・
あなた が 米国 を 離れて から この 手紙 は たぶん 七 回 目 の 手紙 と して あなた に 受け取ら れる と 思います 。 しかし 僕 の 手紙 は いつまでも 暇 を ぬすんで 少しずつ 書いて いる のです から 、 僕 から いう と 日 に 二 度 も 三 度 も あなた に あてて 書いて る わけに なる のです 。 しかし あなた は あの 後 一 回 の 音信 も 恵んで は くださら ない 。 ・・
僕 は 繰り返し 繰り返し いいます 。 た とい あなた に どんな 過失 どんな 誤 謬 が あろう と も 、 それ を 耐え 忍び 、 それ を 許す 事 に おいて は 主 キリスト 以上 の 忍耐 力 を 持って いる の を 僕 は 自ら 信じて います 。 誤解 して は 困ります 。 僕 が いかなる 人 に 対して も かかる 力 を 持って いる と いう ので は ない のです 。 ただ あなた に 対して です 。 あなた は いつでも 僕 の 品性 を 尊く 導いて くれます 。 僕 は あなた に よって 人 が どれほど 愛し うる か を 学びました 。 あなた に よって 世間 で いう 堕落 と か 罪悪 と か いう 者 が どれほど まで 寛容の 余裕 が ある か を 学びました 。 そうして その 寛容 に よって 、 寛容 する 人 自身 が どれほど 品性 を 陶冶 さ れる か を 学びました 。 僕 は また 自分 の 愛 を 成就 する ため に は どれほど の 勇者 に なり うる か を 学びました 。 これほど まで に 僕 を 神 の 目 に 高めて くださった あなた が 、 僕 から 万一 に も 失わ れる と いう の は 想像 が できません 。 神 が そんな 試練 を 人 の 子 に 下される 残虐 は なさら ない の を 僕 は 信じて います 。 そんな 試練 に 堪える の は 人力 以上 です から 。 今 の 僕 から あなた が 奪わ れる と いう の は 神 が 奪わ れる の と 同じ 事 です 。 あなた は 神 だ と は いい ま すまい 。 しかし あなた を 通して のみ 僕 は 神 を 拝む 事 が できる のです 。 ・・
時々 僕 は 自分 で 自分 を あわれんで しまう 事 が あります 。 自分 自身 だけ の 力 と 信仰 と で すべて の もの を 見る 事 が できたら どれほど 幸福で 自由だろう と 考える と 、 あなた を わずらわさ なければ 一 歩 を 踏み出す 力 を も 感じ 得 ない 自分 の 束縛 を 呪い たく も なります 。 同時に それほど 慕わ しい 束縛 は 他 に ない 事 を 知る のです 。 束縛 の ない 所 に 自由 は ない と いった 意味 で あなた の 束縛 は 僕 の 自由です 。 ・・
あなた は ―― いったん 僕 に 手 を 与えて くださる と 約束 なさった あなた は 、 ついに 僕 を 見捨てよう と して おら れる のです か 。 どうして 一 回 の 音信 も 恵んで は くださら ない のです 。 しかし 僕 は 信じて 疑いません 。 世にも し 真理 が ある ならば 、 そして 真理 が 最後 の 勝利 者 ならば あなた は 必ず 僕 に 還って くださる に 違いない と 。 なぜ なれば 、 僕 は 誓います 。 ―― 主 よこ の 僕 を 見守り たまえ ―― 僕 は あなた を 愛して 以来 断じて 他の 異性 に 心 を 動かさ なかった 事 を 。 この 誠意 が あなた に よって 認められ ない わけ は ない と 思います 。 ・・
あなた は 従来 暗い いくつか の 過去 を 持って います 。 それ が 知らず知らず あなた の 向上 心 を 躊躇 さ せ 、 あなた を やや 絶望 的に して いる ので は ない のです か 。 もし そう なら あなた は 全然 誤 謬 に 陥って いる と 思います 。 すべて の 救い は 思いきって その 中 から 飛び出す ほか に は ない のでしょう 。 そこ に 停滞 して いる の は それ だけ あなた の 暗い 過去 を 暗く する ばかりです 。 あなた は 僕 に 信頼 を 置いて くださる 事 は でき ない のでしょう か 。 人類 の 中 に 少なく も 一 人 、 あなた の すべて の 罪 を 喜んで 忘れよう と 両手 を 広げて 待ち 設けて いる もの の ある の を 信じて くださる 事 は でき ない でしょう か 。 ・・
こんな 下らない 理屈 は もう やめましょう 。 ・・
昨夜 書いた 手紙 に 続けて 書きます 。 けさ ハミルトン 氏 の 所 から 至急 に 来い と いう 電話 が かかりました 。 シカゴ の 冬 は 予期 以上 に 寒い のです 。 仙台 どころ の 比 では ありません 。 雪 は 少しも ない けれども 、 イリー 湖 を 多 湖 地方 から 渡って 来る 風 は 身 を 切る ようでした 。 僕 は 外套 の 上 に また 大 外套 を 重ね 着して い ながら 、 風 に 向いた 皮膚 に しみ とおる 風 の 寒 さ を 感じました 。 ハミルトン 氏 の 用 と いう の は 来年 セントルイス に 開催 さ れる 大規模な 博覧 会 の 協議 の ため 急に そこ に 赴く ように なった から 同行 しろ と いう のでした 。 僕 は 旅行 の 用意 は なんら して い なかった が 、 ここ に アメリカニズム が ある のだ と 思って そのまま 同行 する 事 に しました 。 自分 の 部屋 の 戸 に 鍵 も かけ ず に 飛び出した のです から バビコック 博士 の 奥さん は 驚いて いる でしょう 。 しかし さすが に 米国 です 。 着のみ着のまま で ここ まで 来て も 何一つ 不自由 を 感じません 。 鎌倉 あたり まで 行く の に も 膝 かけ から 旅 カバン まで 用意 しなければ なら ない のです から 、 日本 の 文明 は まだ なかなか の もの です 。 僕たち は この 地 に 着く と 、 停車場 内 の 化粧 室 で 髭 を そり 、 靴 を みがか せ 、 夜会 に 出て も 恥ずかしく ない したく が できて しまいました 。 そして すぐ 協議 会 に 出席 しました 。 あなた も 知って おら る る とおり ドイツ 人 の あの へんに おける 勢力 は 偉い もの です 。 博覧 会 が 開けたら 、 われわれ は 米国 に 対して より も むしろ これら の ドイツ 人 に 対して 褌 裸 一 番 する 必要 が あります 。 ランチ の 時 僕 は ハミルトン 氏 に 例 の 日本 に 買い占めて ある キモノ その他 の 話 を もう 一 度 しました 。 博覧 会 を 前 に 控えて いる ので ハミルトン 氏 も 今度 は 乗り気に なって くれ まして 、 高島 屋 と 連絡 を つけて おく ため に とにかく 品物 を 取り寄せて 自分 の 店 で さ ばかして みよう と いって くれました 。 これ で 僕 の 財政 は 非常に 余裕 が できる わけです 。 今 まで 店 が なかった ばかりに 、 取り寄せて も 荷 厄介 だった もの です が 、 ハミルトン 氏 の 店 で 取り扱って くれれば 相当に 売れる の は わかって います 。 そう なったら 今 まで と 違って あなた の ほう に も 足りない ながら 仕送り を して 上げる 事 が できましょう 。 さっそく 電報 を 打って いちばん 早い 船便 で 取り寄せる 事 に に しました から 不 日 着 荷 する 事 と 思って います 。 ・・
今 は 夜 も だいぶ ふけました 。 ハミルトン 氏 は 今夜 も 饗応 に 呼ばれて 出かけました 。 大きらいな テーブル ・ スピーチ に なやま されて いる のでしょう 。 ハミルトン 氏 は 実に シャープな ビジネスマンライキ な 人 です 。 そして 熱心な 正統 派 の 信仰 を 持った 慈善 家 です 。 僕 は ことのほか 信頼 さ れ 重宝がられて います 。 そこ から 僕 の ライフ ・ キャリヤア を 踏み出す の は 大 なる 利益 です 。 僕 の 前途 に は 確かに 光明 が 見え 出して 来ました 。 ・・
あなた に 書く 事 は 底 止 なく 書く 事 です 。 しかし あす の 奮闘 的 生活 ( これ は 大統領 ルーズベルト の 著書 の “ Strenuous Life ” を 訳して みた 言葉 です 。 今 この 言葉 は 当地 の 流行 語 に なって います ) に 備える ため に 筆 を 止め ねば なりません 。 この 手紙 は あなた に も 喜び を 分けて いただく 事 が できる か と 思います 。 ・・
きのう セントルイス から 帰って 来たら 、 手紙 が かなり 多数 届いて いました 。 郵便 局 の 前 を 通る に つけ 、 郵便 箱 を 見る に つけ 、 脚 夫 に 行きあう に つけ 、 僕 は あなた を 連想 し ない 事 は ありません 。 自分 の 机 の 上 に 来信 を 見いだした 時 は なおさら の 事 です 。 僕 は 手紙 の 束の間 を かき分けて あなた の 手 跡 を 見いだそう と つとめました 。 しかし 僕 は また 絶望 に 近い 失望 に 打た れ なければ なりません でした 。 僕 は 失望 は しましょう 。 しかし 絶望 は しません 。 できません 葉子 さん 、 信じて ください 。 僕 は ロングフェロー の エヴァンジェリン の 忍耐 と 謙遜 と を もって あなた が 僕 の 心 を ほんとうに 汲み取って くださる 時 を 待って います 。 しかし 手紙 の 束 の 中 から は わずかに 僕 を 失望 から 救う ため に 古藤 君 と 岡 君 と の 手紙 が 見いださ れました 。 古藤 君 の 手紙 は 兵 営 に 行く 五 日 前 に 書か れた もの でした 。 いまだに あなた の 居所 を 知る 事 が でき ない ので 、 僕 の 手紙 は やはり 倉地 氏 に あてて 回送 して いる と 書いて あります 。 古藤 君 は そうした 手続き を 取る の を はなはだしく 不快に 思って いる ようです 。 岡 君 は 人 に もらし 得 ない 家庭 内 の 紛 擾 や 周囲 から 受ける 誤解 を 、 岡 君 らしく 過敏に 考え 過ぎて 弱い 体質 を ますます 弱く して いる ようです 。 書いて ある 事 に は ところどころ 僕 の 持つ 常識 で は 判断 し かねる ような 所 が あります 。 あなた から いつか 必ず 消息 が 来る の を 信じ きって 、 その 時 を ただ 一 つ の 救い と して 待って います 。 その 時 の 感謝 と 喜 悦 と を 想像 で 描き出して 、 小説 でも 読む ように 書いて あります 。 僕 は 岡 君 の 手紙 を 読む と 、 いつでも 僕 自身 の 心 が そのまま 書き 現わされて いる ように 思って 涙 を 感じます 。 ・・
なぜ あなた は 自分 を それほど まで 韜晦 して おら れる の か 、 それ に は 深い わけ が ある 事 と 思います けれども 、 僕 に は どちら の 方面 から 考えて も 想像 が つきません 。 ・・
日本 から の 消息 は どんな 消息 も 待ち遠しい 。 しかし それ を 見 終わった 僕 は きっと 憂鬱に 襲わ れます 。 僕 に もし 信仰 が 与えられて い なかったら 、 僕 は 今 どう なって いた か を 知りません 。 ・・
前 の 手紙 と の 間 に 三 日 が たちました 。 僕 は バビコック 博士 夫婦 と 今夜 ライシアム 座 に ウェルシ 嬢 の 演じた トルストイ の 「 復活 」 を 見物 しました 。 そこ に は キリスト 教徒 と して 目 を そむけ なければ なら ない ような 場面 が ない で は なかった けれども 、 終わり の ほう に 近づいて 行って の 荘厳 さ は 見物人 の すべて を 捕 捉 して しまいました 。 ウェルシ 嬢 の 演じた 女 主人公 は 真に 迫り すぎて いる くらい でした 。 あなた が もし まだ 「 復活 」 を 読んで いられ ない の なら 僕 は ぜひ それ を お 勧め します 。 僕 は トルストイ の 「 懺悔 」 を K 氏 の 邦文 訳 で 日本 に いる 時 読んだ だけ です が 、 あの 芝居 を 見て から 、 暇 が あったら もっと 深く いろいろ 研究 したい と 思う ように なりました 。 日本 で は トルストイ の 著書 は まだ 多く の 人 に 知られて いない と 思います が 、 少なくとも 「 復活 」 だけ は 丸善 から でも 取り寄せて 読んで いただきたい 、 あなた を 啓発 する 事 が 必ず 多い の は 請け合います から 。 僕ら は 等しく 神 の 前 に 罪人 です 。 しかし その 罪 を 悔い改める 事 に よって 等しく 選ば れた 神 の 僕 と なり うる のです 。 この 道 の ほか に は 人 の 子 の 生活 を 天国 に 結び付ける 道 は 考えられません 。 神 を 敬い 人 を 愛する 心 の 萎えて しまわ ない うち に お互いに 光 を 仰ごう では ありません か 。 ・・
葉子 さん 、 あなた の 心 に 空虚 なり 汚点 なり が あって も 万 望 絶望 し ないで ください よ 。 あなた を そのまま に 喜んで 受け入れて 、―― 苦し み が あれば あなた と 共に 苦しみ 、 あなた に 悲しみ が あれば あなた と 共に 悲しむ もの が ここ に 一 人 いる 事 を 忘れ ないで ください 。 僕 は 戦って 見せます 。 どんなに あなた が 傷ついて いて も 、 僕 は あなた を かばって 勇ましく この 人生 を 戦って 見せます 。 僕 の 前 に 事業 が 、 そして 後ろ に あなた が あれば 、 僕 は 神 の 最も 小さい 僕 と して 人類 の 祝福 の ため に 一生 を ささげます 。 ・・
あ ゝ 、 筆 も 言語 も ついに 無益です 。 火 と 熱する 誠意 と 祈り と を こめて 僕 は ここ に この 手紙 を 封じます 。 この 手紙 が 倉地 氏 の 手 から あなた に 届いたら 、 倉地 氏 に も よろしく 伝えて ください 。 倉地 氏 に 迷惑 を おか けした 金銭 上 の 事 に ついて は 前 便 に 書いて おきました から 見て くださった と 思います 。 願 わく は 神 われら と 共に 在 し たまわ ん 事 を 。 ・・
明治 三十四 年 十二 月 十三 日 」