58. 指 - 江戸川 乱 歩
指 - 江戸川 乱 歩
患者 は 手術 の 麻酔 から 醒 め て 私 の 顔 を 見た 。
右手 に 厚 ぼったく 繃帯 が 巻いて あった が 、 手首 を 切断 されて いる こと は 、 少しも 知ら ない 。 彼 は 名 の ある ピアニスト だ から 、 右 手首 が なくなった こと は 致命 傷 であった 。 犯人 は 彼 の 名声 を ねたむ 同業 者 かも しれ ない 。
彼 は 闇夜 の 道路 で 、 行きずり の 人 に 、 鋭い 刃物 で 右 手首 関節 の 上部 から 斬り 落とされて 、 気 を 失った のだ 。 幸い 私 の 病院 の 近く で の 出来事 だった ので 、 彼 は 失神 した まま 、 この 病院 に 運びこま れ 、 私 は できる だけ の 手当て を した 。
「 あ 、 君 が 世話 を して くれた の か 。 ありがとう …… 酔っぱらって ね 、 暗い 通り で 、 誰 か わから ない やつ に やられた …… 右手 だ ね 。 指 は 大丈夫だろう か 」
「 大丈夫だ よ 。 腕 を ちょっと やられた が 、 なに 、 じきに 治る よ 」
私 は 親友 を 落胆 さ せる に 忍び ず 、 もう 少し よく なる まで 、 彼 の ピアニスト と して の 生涯 が 終わった こと を 、 伏せて おこう と した 。
「 指 も かい 。 指 も 元 の 通り 動く かい 」
「 大丈夫だ よ 」
私 は 逃げ出す ように 、 ベッド を はなれて 病室 を 出た 。
付添い の 看護 婦 に も 、 今 しばらく 、 手首 が なくなった こと は 知らせ ない ように 、 固く いいつけて おいた 。
それ から 二 時間 ほど して 、 私 は 彼 の 病室 を 見舞った 。
患者 は やや 元気 を とり戻して いた 。 しかし 、 まだ 自分 の 右手 を あらためる 力 は ない 。 手首 の なくなった こと は 知ら ないで いる 。
「 痛む かい 」
私 は 彼 の 上 に 顔 を 出して 訊 ねて みた 。
「 うん 、 よほど 楽に なった 」
彼 は そう いって 、 私 の 顔 を じっと 見た 。 そして 、 毛布 の 上 に 出して いた 左手 の 指 を 、 ピアノ を 弾く 恰好 で 動かし はじめた 。
「 いい だろう か 、 右手 の 指 を 少し 動かして も …… 新しい 作曲 を した ので ね 、 そい つ を 毎日 一 度 やって み ない と 気 が すまない んだ 」
私 は ハッと した が 、 咄嗟に 思いついて 、 患部 を 動かさ ない ため と 見せかけ ながら 、 彼 の 上 膊 の 尺 骨 神経 の 個所 を 、 指 で 圧さ えた 。 そこ を 圧迫 する と 、 指 が なくて も 、 ある ような 感覚 を 、 脳 中枢 に 伝える こと が できる から だ 。
彼 は 毛布 の 上 の 左手 の 指 を 、 気持 よ さ そうに 、 しきりに 動かして いた が 、
「 ああ 、 右 の 指 は 大丈夫だ ね 。 よく 動く よ 」
と 、 呟き ながら 、 夢中に なって 、 架空の 曲 を 弾き つづけた 。
私 は 見る に たえ なかった 。 看護 婦 に 、 患者 の 右腕 の 尺 骨 神経 を 圧さ えて いる ように 、 目 顔 で さしず して おいて 、 足音 を 盗んで 病室 を 出た 。
そして 手術 室 の 前 を 通りかかる と 、 一 人 の 看護 婦 が 、 その 部屋 の 壁 に とりつけた 棚 を 見つめて 、 突っ立って いる の が 見えた 。
彼女 の 様子 は 普通で は なかった 。 顔 は 青ざめ 、 眼 は 異様に 大きく ひらいて 、 棚 に のせて ある 何 か を 凝視 して いた 。
私 は 思わず 手術 室 に は いって 、 その 棚 を 見た 。 そこ に は 彼 の 手首 を アルコール 漬け に した 大きな ガラス 瓶 が 置いて あった 。
一 目 それ を 見る と 、 私 は 身動き が でき なく なった 。
瓶 の アルコール の 中 で 、 彼 の 手首 が 、 いや 、 彼 の 五 本 の 指 が 、 白い 蟹 の 脚 の ように 動いて いた 。
ピアノ の キイ を 叩く 調子 で 、 しかし 、 実際 の 動き より も ずっと 小さく 、 幼児 の ように 、 たよりな げ に 、 しきりと 動いて いた 。