30.2 或る 女
倉地 は 事業 の ため に 奔走 して いる ので その 夜 は 年越し に 来 ない と 下宿 から 知らせて 来た 。 妹 たち は 除夜 の 鐘 を 聞く まで は 寝 ない など と いって いた が いつのまにか ねむく なった と 見えて 、 あまり 静かな ので 二 階 に 行って 見る と 、 二 人 と も 寝床 に は いって いた 。 つや に は 暇 が 出して あった 。 葉子 に 内 所 で 「 報 正 新報 」 を 倉地 に 取り次いだ の は 、 た とい 葉子 に 無益な 心配 を さ せ ない ため だ と いう 倉地 の 注意 が あった ため である に も せよ 、 葉子 の 心持ち を 損じ もし 不安に も した 。 つや が 葉子 に 対して も 素直な 敬愛 の 情 を いだいて いた の は 葉子 も よく 心得て いた 。 前 に も 書いた ように 葉子 は 一目 見た 時 から つや が 好きだった 。 台所 など を さ せ ず に 、 小 間 使い と して 手回り の 用事 でも さ せたら 顔かたち と いい 、 性質 と いい 、 取り 回し と いい これほど 理想 的な 少女 は ない と 思う ほど だった 。 つや に も 葉子 の 心持ち は すぐ 通じた らしく 、 つや は この 家 の ため に 陰日向 なく せっせと 働いた のだった 。 けれども 新聞 の 小さな 出来事 一 つ が 葉子 を 不安に して しまった 。 倉地 が 双 鶴 館 の 女将 に 対して も 気の毒 がる の を 構わ ず 、 妹 たち に 働かせる の が かえって いい から と の 口実 の もと に 暇 を やって しまった のだった 。 で 勝手 の ほう に も 人気 は なかった 。 ・・
葉子 は 何 を 原因 と も なく そのころ 気分 が いらいら し がちで 寝付き も 悪かった ので 、 ぞくぞく しみ込んで 来る ような 寒 さ に も 係わら ず 、 火鉢 の そば に いた 。 そして 所在ない まま に その 日 倉地 の 下宿 から 届けて 来た 木村 の 手紙 を 読んで 見る 気 に なった のだ 。 ・・
葉子 は 猫 板 に 片 肘 を 持た せ ながら 、 必要 も ない ほど 高価だ と 思わ れる 厚い 書 牋紙 に 大きな 字 で 書きつづって ある 木村 の 手紙 を 一 枚 一 枚 読み 進んだ 。 おとなびた ようで 子供っぽい 、 そう か と 思う と 感情 の 高潮 を 示した と 思わ れる 所 も 妙に 打算 的な 所 が 離れ 切ら ない と 葉子 に 思わ せる ような 内容 だった 。 葉子 は 一 々 精読 する の が めんどうな ので 行 から 行 に 飛び越え ながら 読んで 行った 。 そして 日付け の 所 まで 来て も 格別な 情緒 を 誘わ れ は し なかった 。 しかし 葉子 は この 以前 倉地 の 見て いる 前 でした ように ずたずたに 引き裂いて 捨てて しまう 事 は し なかった 。 し なかった どころ で は ない 、 その 中 に は 葉子 を 考え させる もの が 含まれて いた 。 木村 は 遠からず ハミルトン と か いう 日本 の 名誉 領事 を して いる 人 の 手 から 、 日本 を 去る 前 に 思いきって して 行った 放 資 の 回収 を して もらえる のだ 。 不 即 不 離 の 関係 を 破ら ず に 別れた 自分 の やり かた は やはり 図 に あたって いた と 思った 。 「 宿屋 きめ ず に 草 鞋 を 脱 」 ぐ ばか を し ない 必要 は もう ない 、 倉地 の 愛 は 確かに 自分 の 手 に 握り 得た から 。 しかし 口 に こそ 出し は し ない が 、 倉地 は 金 の 上 で は かなり に 苦しんで いる に 違いない 。 倉地 の 事業 と いう の は 日本 じゅう の 開港 場 に いる 水 先 案内 業者 の 組合 を 作って 、 その 実権 を 自分 の 手 に 握ろう と する の らしかった が 、 それ が 仕上がる の は 短い 日月 に は できる 事 で は な さ そうだった 。 ことに 時節 が 時節がら 正月 に かかって いる から 、 そういう もの の 設立 に は いちばん 不便な 時 らしく も 思わ れた 。 木村 を 利用 して やろう 。 ・・
しかし 葉子 の 心 の 底 に は どこ か に 痛み を 覚えた 。 さんざん 木村 を 苦しめ 抜いた あげく に 、 なお あの 根 の 正直な 人間 を たぶらかして なけなし の 金 を しぼり 取る の は 俗に いう 「 つつ もた せ 」 の 所業 と 違って は いない 。 そう 思う と 葉子 は 自分 の 堕落 を 痛く 感ぜ ず に は いられ なかった 。 けれども 現在 の 葉子 に いちばん 大事な もの は 倉地 と いう 情 人 の ほか に は なかった 。 心 の 痛 み を 感じ ながら も 倉地 の 事 を 思う と なお 心 が 痛かった 。 彼 は 妻子 を 犠牲 に 供し 、 自分 の 職業 を 犠牲 に 供し 、 社会 上 の 名誉 を 犠牲 に 供して まで 葉子 の 愛 に おぼれ 、 葉子 の 存在 に 生きよう と して くれて いる のだ 。 それ を 思う と 葉子 は 倉地 の ため に なんでも して 見せて やり たかった 。 時に よる と われ に も なく 侵して 来る 涙ぐましい 感じ を じっと こらえて 、 定子 に 会い に 行か ず に いる の も 、 そう する 事 が 何 か 宗教 上 の 願 がけ で 、 倉地 の 愛 を つなぎとめる 禁 厭 の ように 思える から して いる 事 だった 。 木村 に だって いつか は 物質 上 の 償い 目 に 対して 物質 上 の 返礼 だけ は する 事 が できる だろう 。 自分 の する 事 は 「 つつ もた せ 」 と は 形 が 似て いる だけ だ 。 やって やれ 。 そう 葉子 は 決心 した 。 読む でも なく 読ま ぬ で も なく 手 に 持って ながめて いた 手紙 の 最後 の 一 枚 を 葉子 は 無意識 の ように ぽたり と 膝 の 上 に 落とした 。 そして そのまま じっと 鉄びん から 立つ 湯気 が 電 燈 の 光 の 中 に 多様な 渦 紋 を 描いて は 消え 描いて は 消え する の を 見つめて いた 。 ・・
しばらく して から 葉子 は 物 う げ に 深い 吐息 を 一 つ して 、 上体 を ひねって 棚 の 上 から 手 文庫 を 取り おろした 。 そして 筆 を かみ ながら また 上 目 で じっと 何 か 考える らしかった 。 と 、 急に 生きかえった ように はきはき なって 、 上等の シナ 墨 を 眼 の 三 つ まで は いった まん まるい 硯 に すり おろした 。 そして 軽く 麝香 の 漂う なか で 男 の 字 の ような 健筆 で 、 精巧な 雁 皮 紙 の 巻紙 に 、 一気に 、 次 の ように したためた 。 ・・
--
「 書けば きり が ございませ ん 。 伺えば きり が ございませ ん 。 だから 書き も いたしません でした 。 あなた の お 手紙 も きょう いただいた もの まで は 拝見 せ ず に ずたずたに 破って 捨てて しまいました 。 その 心 を お 察し ください まし 。 ・・
うわさ に も お 聞き と は 存じます が 、 わたし は みごとに 社会 的に 殺されて しまいました 。 どうして わたし が この上 あなた の 妻 と 名乗れましょう 。 自業自得 と 世の中 で は 申します 。 わたし も 確かに そう 存じて います 。 けれども 親類 、 縁者 、 友だち に まで 突き放されて 、 二 人 の 妹 を かかえて みます と 、 わたし は 目 も くらんで しまいます 。 倉地 さん だけ が どういう 御 縁 か お 見捨て なく わたし ども 三 人 を お 世話 くださって います 。 こうして わたし は どこ まで 沈んで 行く 事 で ございましょう 。 ほんとうに 自業自得 で ございます 。 ・・
きょう 拝見 した お 手紙 も ほんとう は 読ま ず に 裂いて しまう ので ございました けれども …… わたし の 居所 を どなた に も お 知らせ し ない わけ など は 申し上げる まで も ございます まい 。 ・・
この 手紙 は あなた に 差し上げる 最後 の もの か と 思わ れます 。 お 大事に お 過ごし 遊ば し ませ 。 陰ながら 御 成功 を 祈り 上げます 。 ・・
ただいま 除夜 の 鐘 が 鳴ります 。 ・・
大晦日 の 夜 ・・
木村 様 ・・
葉 より 」・・
--
葉子 は それ を 日本 風 の 状 袋 に 収めて 、 毛筆 で 器用に 表記 を 書いた 。 書き 終わる と 急に いらいら し 出して 、 いきなり 両手 に 握って ひと思いに 引き裂こう と した が 、 思い返して 捨てる ように それ を 畳 の 上 に なげ出す と 、 われ に も なく 冷ややかな 微笑 が 口 じ り を かすかに 引きつら した 。 ・・
葉子 の 胸 を ど きん と さ せる ほど 高く 、 すぐ 最寄り に ある 増 上 寺 の 除夜 の 鐘 が 鳴り 出した 。 遠く から どこ の 寺 の ともし れ ない 鐘 の 声 が それ に 応ずる ように 聞こえて 来た 。 その 音 に 引き入れられて 耳 を 澄ます と 夜 の 沈黙 の 中 に も 声 は あった 。 十二 時 を 打つ ぼん ぼん 時計 、「 かるた 」 を 読み上げる らしい はしゃいだ 声 、 何 に 驚いて か 夜なき を する 鶏 …… 葉子 は そんな 響き を 探り 出す と 、 人 の 生きて いる と いう の が 恐ろしい ほど 不思議に 思わ れ 出した 。 ・・
急に 寒 さ を 覚えて 葉子 は 寝 じたく に 立ち上がった 。