昭和 13 年 2 月 18 日
昭和 13 年 2 月 18 日
漉 いた 海苔 を 十 数 枚 差しこんだ ハシゴ を 抱えた すず が 、 風 に あおら れ ながら 干し 場 へ と やって 来た 。
強い 風 に スカート が ふわり と 舞う 。 掛け 台 の 竹 に ハシゴ を 立て かけ ひと 息つく と 、「 す ず ! 」 と 続いて やって 来た 要一 が 鋭い 声 を 発した 。
「 もっと 低う 掛け え 。 風 が あるけ え ハヤ る ( 飛ぶ ) ぞ 」
「 うん 」 と すず は ハシゴ を 低い 角度 に 掛け 直す 。 隣 の ハシゴ も 同じ 角度 に 直し 、 奥 で すみ と 一緒に 作業 を して いた キセノ を 振り向いた 。
「 あっ、 お 母ちゃん 、 二 銭 ちょうだい 。 鉛筆 落として し も うて 」
「 一 本 も ない ん ね ? 「 まだ 一 本 ある けど ……」
話 を 聞いて いた 要一 が 学生 服 に 着替え ながら 、「 ある ん なら 来週 の こづかい まで 我慢 せ え や ! 」 と すず に 言った 。
「 お前 が さかん に 落書き せ に ゃす む 話 じゃ ろう が 」
「 う う ……」
すず は ハシゴ の うしろ に 隠れ 、 すみ に 言った 。
「 すみ ちゃん 、 鉛筆 替えっこ しよう か 」 「 いい 」 と すみ は に べ も ない 。 キセノ が すず を 覗きこむ ように 訊 ねた 。
「 す ず 、 水原 の 哲 くん 、 毎日 学校 来 と る ? 「 え ? 来 とる けど ……」
「 あんた も 哲 くん に 親切 に せ ん と いけん よ 」
「 う ……」 と すず は 一瞬 口ごもり 、「 は ~ い 」 と 軽く キセノ に 答えた 。
六 年 三 組 の 教室 に 入った すず は セルロイド 製 の 筆箱 の フタ を 開け 、 かじかんだ 手 に 「 は ぁ ー 」 と 息 を 吹きかけた 。 両手 を こすって 温める と 、 小 刀 を 手 に とり 、 筆箱 から ちび た 鉛筆 を つまみ 上げる 。
小 刀 の 刃 を 鉛筆 の 先 に 当て 、 削り 、 芯 を とがら せて いく 。
削り 終え 、 芯 の とがり 方 を すず が 確かめて いる と 、 隣 の 席 の りっち ゃん が 言った 。
「 短 か ~」
「 これ で 今週 も つか ねえ 」 と すず も 小指 の 先ほど の 鉛筆 に 不安 を のぞかせる 。
「 今度 は 落とさ ん ように せんと ね 」
「 ほん ま に 」
すず は 削り カス を 入れた 筆箱 の フタ を 手 に 席 を 離れる と 、 壁 際 の 床板 の 節穴 の 前 に しゃがんだ 。
トントン と 穴 に 削り カ ス を 落とす 。
と 、 どこ から か 転がって きた サイコロ が 壁 に ぶつかり 、 手前 の 机 の 陰 へ と 消えて いった 。
「 き ゃっ」 と いう りっち ゃん の 声 に 振り向く と 、 自分 たち の 机 が 水原 哲 に よって 持ち 上げられて いた 。 哲 は 机 を 持った まま 床 を 見回し 、 舌打ち した 。
「 ない の ー 」
「 あ …… あの 水原 さん 、 うち の お 母ちゃん が 」
哲 が ギロリ と すず を にらむ 。
「 うっ…… え …… その …… 何 か お 手伝い しましょう かて 、 おばちゃん に 伝えてって ……」 哲 は 持ち上げて いた 机 を 乱暴に 下ろ す と 、 すず を 見下ろした 。 クラス で 最も 背 の 高い 哲 は すず より は 頭 一 つ 以上 大き い 。
あと ず さる すず の 胸ぐら に 手 を 伸ば し 、「 知ら ん わ 、 そんな もん 」 と すず の 手 から 鉛筆 を とりあげた 。
「 あ ……」 哲 は 戸口 の ほう を にらみつけ 、「 お ー い 、 これ で 代用 じゃ ! 」 と 叫ぶ 。
「 ウ が 一 塁 打 、 ラ が 二 塁 打 、 ノ が 三 塁 打 で ──」
「 ちょ ー 、 返して ー や !!」 と すず が あわてて 哲 に すがる 。
野球 ゲーム に 興じて いた 男子 たち も 強引 な 哲 の やり 方 に 、「 水原 、 そりゃ あ 」 と 引いて いる 。
哲 は 「 ち ……」 と すず を にらみつけ 、「 ふ ん ! 」 と 無造作に 鉛筆 を 放った 。
鉛筆 は すず の 頭 に 当たって 弾み 、 床 に 落ちる と コロコロ 転がり 、 節穴 の 中 へ と 消えて いった 。 「 ああ ーっ! すず は 節穴 に 駆け寄り 、 がっくり と 肩 を 落とす 。
「 おととい も 鉛筆 ここ へ 落とした のに ー !!」
「 すず ちゃん 、 かわいそう 」 と りっちゃん が 寄 り 添う 。 その 様子 が しやく 癪 に さわ 障った の か 、 哲 は ドカドカ と 大股 で すず に 歩み寄る と 、 お さげ 髪 を ひっつか ん だ 。
「 なんなら 、 これ に 墨 つけて 書け え や 」
「 あ たた たた 」
あわてて 男子 たち が 割って 入り 、 どう に かそ の 場 は 収まった 。
「 う ~ む 、 水原 を 見たら 全速力 で 逃げ え いう 女子 の 掟 を 忘れ とった わ い 」 鉛筆 の 代わり に 絵筆 で ノート を とり なが ら 、 すず は そう つぶやく のだった 。 今日 の 最後 の 授業 は 図画 だった 。
題 材 は 自由 、 提出 した 者 から 帰って も いい と いう 先生 の 言葉 を 聞く や 、 生徒 たち は 一斉に 教室 を 飛び出した 。
女学校 に 上がる りっち ゃん が 、 最後 だ し 校舎 でも 描こう か な と 言う ので 、 すず も 校舎 を 描く こと に した 。
時間 内 に 上げ 、 教室 へ と 戻る 。
先生 は すず の 絵 を 見て 、「 浦野 、 さす が じゃ の 」 と うなった 。
「 ええ ねぇ 、 すず ちゃん 、 うまい け え 」
りっちゃん に ほめられ 、 照れて いる と 、 先生 が 言った 。 「 午前 中 寝 とった だけ ある のう 」 気づかれ とったん か と すず は 顔 を しかめ た 。 帰宅 した すず は 、 すぐに 手伝い を 始めた 。 干し 台 の 海苔 を 片づけ 終える と 、「 ほ い じゃ 、 うち コクバ ( 焚きつけ ) 拾う て くる わ 」 と キセノ に 言い 、 家 を 飛び出して い く 。
江波 山 の 松林 に 入る と 、 すず は 地面 に 散り 敷か れた コクバ の 松葉 を しゃがんで 籠 に 入れた 。 そのまま ピョンピョン と うさぎ 跳び で 移動 し 、 松葉 を 集めて いく 。
籠 の 中 の 松葉 を 一 つ とり 、 もてあそび ながら 歩いて いる と 不意 に 視界 が 開けた 。
松林 を 抜けた のだ 。
ふと 前 を 見る と 図画 の 道具 と カバン が 草っぱ ら に 放り出されて いる 。 すず は その 脇 で 足 を 止めた 。
崖 の 端 に 腰 を 下ろした 哲 が 、 眼下 に 広がる 海 を 見つめて いる のだ 。
面倒 な ヤツ と 会って しまった 。
すず は そっと きび す 踵 を 返し 帰り かけた が 、 母 の 言葉 を 思い出し 、 振り向いた 。
「…… 水原 さん …… 早 絵 出さん と いつまでも 帰れ ん よ 」
哲 は ゆっくり と 立ち上がり 、 すず に 背 を 向けた まま 言った 。
「 帰ら ん 。 お 父 と お 母 が 海苔 も 摘まんで 飲んだ くれ とる し 、 海 は 嫌い じゃ 。 描か ん 」
さっき と は まるで 違う 雰囲気 の 哲 に 、 すず は 目 が 離せ なく なる 。
哲 は すず の 前 へ と やって 来る と 、 立ち止まった 。
「 浦野 、 手 ぇ 出せ や 」
「 は ? 」 すず は おそるおそる 右手 を 出した 。 その 手 に 哲 は 新品 の 鉛筆 を 置いた 。
「 やる 」
「 えっ…… ほ い でも 」 「 兄 ちゃん のじゃ 。 よう け あるけ え 」 そう 言う と 、 哲 は ふたたび 海 の ほう へ と 歩き 出した 。 崖 の 端 で 立ち止まり 、 顔 を 見られ たく ない か の ように 学生 帽 の ひさし を 下げた 。 「 うさぎ が よう 跳ね よる 。 正月 の 転覆 事故 も こんな 海 じゃった わ ……」 寂し げ な 哲 の 背中 を 、 すず は じっと 見 つめる 。 「 描き たきゃ お前 が 描け え や 。 この つまら ん 海 でも 」
すず は 置か れた 画 板 を 手 に とり 、 哲 の 隣 に 腰 を 下ろした 。
真っ白な 画用紙 に 水色 の 絵 の 具 を 含ま せた 筆 を 置き 、 すーっと 一 本 の 線 を 引いた 。
「 水原 さん 、 今 の ん は どういう 意味 ? 「 ん ? ああ 、 白 波 が うさぎ が 跳ね よる みたい な が ……」 水平 線 の 向こう に 見える 島々 の 輪郭 を 描き 、 両端 に 松 の 木 を 描いて いく 。
「…… 水原 さん 、 お 兄ちゃん 、 あげよ か ? 「 いら ん 。 浦野 の 兄ちゃん 見たら 全力 で 逃げ え いう 男子 の 掟 が あるけ え の 」
地面 の 草 を 描き 、 海 を 青く 塗って いく 。
「 ほ い でも …… 海軍 の 学校 入って 、 海 で 溺れる アホ よりゃ まし かも のう 」
すず は 海 の 上 に たくさん の 跳ねる うさぎ を 描き ながら 、 言った 。
「 ほん ま じゃ ねえ 。 白い うさぎ みたい な ねえ ……」 最後 に 海 を 見て いる 哲 の うしろ 姿 を 描 き 、 すず は 筆 を 止めた 。 「 ん 、 できた 」 松林 の ほう に 行って いた 哲 が 戻り 、 黙って すず の 絵 を 眺める 。 そして 、 すず の 頭 の 上 に 乱暴に 籠 を のせた 。
「 集め といた で 」
すず が 落ち ない ように 両手 で 籠 を 押さ える と 、 その 隙 に 哲 は 画 板 を とり返した 。
コクバ で いっぱいに なった 籠 を 見て 、「 ありがとう 」 と すず が 礼 を 言う 。
「 よい よ 、 いら ん こと する わ 。 できて し もう たら 帰ら に ゃい けん じゃ ろう が 」
そうして 、 哲 は あらためて すず の 絵 を 見 る 。
「 こんな 絵 じゃあ 、 海 を 嫌いに なれ んじゃ ろう が ……」 誰 と も なく つぶやき 、 哲 は 山 を 降りて い く 。 すず が 手 に した 籠 の 中 に は 椿 の 花 が 一 輪 さ 挿して あった 。