14.2 或る 女
岡 は 決して 葉子 の 部屋 を 訪れる 事 は し なかった けれども 、 この 事 の あって 後 は 、 二 人 は よく 親しく 話し合った 。 岡 は 人 なじみ の 悪い 、 話 の 種 の ない 、 ごく 初心 な 世慣れ ない 青年 だった けれども 、 葉子 は わずかな タクト で すぐ 隔て を 取り去って しまった 。 そして 打ち解けて 見る と 彼 は 上品な 、 どこまでも 純粋な 、 そして 慧 かし い 青年 だった 。 若い 女性 に は その はにかみや な 所 から 今 まで 絶えて 接して い なかった ので 、 葉子 に は すがり付く ように 親しんで 来た 。 葉子 も 同性 の 恋 を する ような 気持ち で 岡 を かわいがった 。 ・・
そのころ から だ 、 事務 長 が 岡 に 近づく ように なった の は 。 岡 は 葉子 と 話 を し ない 時 は いつでも 事務 長 と 散歩 など を して いた 。 しかし 事務 長 の 親友 と も 思わ れる 二三 の 船客 に 対して は 口 も きこう と は し なかった 。 岡 は 時々 葉子 に 事務 長 の うわさ を して 聞か した 。 そして 表面 は あれほど 粗暴 の ように 見え ながら 、 考え の 変わった 、 年齢 や 位置 など に 隔て を おか ない 、 親切な 人 だ と いったり した 。 もっと 交際 して みる と いい と も いった 。 その たび ごと に 葉子 は 激しく 反対 した 。 あんな 人間 を 岡 が 話し相手 に する の は 実際 不思議な くらい だ 。 あの 人 の どこ に 岡 と 共通 する ような 優れた 所 が あろう など と からかった 。 ・・
葉子 に 引き付けられた の は 岡 ばかり で は なかった 。 午 餐 が 済んで 人々 が サルン に 集まる 時 など は 団欒 がたいてい 三 つ くらい に 分かれて できた 。 田川 夫妻 の 周囲 に は いちばん 多数 の 人 が 集まった 。 外国 人 だけ の 団体 から 田川 の ほう に 来る 人 も あり 、 日本 の 政治 家 実業 家 連 は もちろん われ先に そこ に 馳せ 参じた 。 そこ から だんだん 細く 糸 の ように つながれて 若い 留学 生 と か 学者 と か いう 連中 が 陣 を 取り 、 それ から また だんだん 太く つながれて 、 葉子 と 少年 少女 ら の 群れ が いた 。 食堂 で 不意 の 質問 に 辟易 した 外交 官 補 など は 第 一 の 連絡 の 綱 と なった 。 衆人 の 前 で は 岡 は 遠慮 する ように あまり 葉子 に 親しむ 様子 は 見せ ず に 不 即 不 離 の 態度 を 保って いた 。 遠慮 会釈 なく そんな 所 で 葉子 に なれ 親しむ の は 子供 たち だった 。 まっ白 な モスリン の 着物 を 着て 赤い 大きな リボン を 装った 少女 たち や 、 水兵 服 で 身軽に 装った 少年 たち は 葉子 の 周囲 に 花輪 の ように 集まった 。 葉子 が そういう 人 たち を かたみ が わりに 抱いたり かかえたり して 、 お伽話 など して 聞か せて いる 様子 は 、 船 中 の 見もの だった 。 どうかする と サルン の 人 たち は 自分 ら の 間 の 話題 など は 捨てて おいて この 可憐な 光景 を うっとり 見 やって いる ような 事 も あった 。 ・・
ただ 一 つ これら の 群れ から は 全く 没 交渉 な 一団 が あった 。 それ は 事務 長 を 中心 に した 三四 人 の 群れ だった 。 いつでも 部屋 の 一隅 の 小さな 卓 を 囲んで 、 その 卓 の 上 に は ウイスキー 用 の 小さな コップ と 水 と が 備えられて いた 。 いちばん いい 香 い の 煙草 の 煙 も そこ から 漂って 来た 。 彼ら は 何 か ひそひそ と 語り合って は 、 時々 傍若無人な 高い 笑い声 を 立てた 。 そう か と 思う と じっと 田川 の 群れ の 会話 に 耳 を 傾けて いて 、 遠く の ほう から 突然 皮肉 の 茶々 を 入れる 事 も あった 。 だれ いう と なく 人々 は その 一団 を 犬 儒派 と 呼び なした 。 彼ら が どんな 種類 の 人 で どんな 職業 に 従事 して いる か を 知る 者 は なかった 。 岡 など は 本能 的に その 人 たち を 忌み きらって いた 。 葉子 も 何かしら 気 の おける 連中 だ と 思った 。 そして 表面 は いっこう 無頓着に 見え ながら 、 自分 に 対して 充分 の 観察 と 注意 と を 怠って いない の を 感じて いた 。 ・・
どうしても しかし 葉子 に は 、 船 に いる すべて の 人 の 中 で 事務 長 が いちばん 気 に なった 。 そんな はず 、 理由 の ある はず は ない と 自分 を たしなめて みて も なんの かい も なかった 。 サルン で 子供 たち と 戯れて いる 時 でも 、 葉子 は 自分 の して 見せる 蠱惑 的な 姿 態 が いつでも 暗 々 裡 に 事務 長 の ため に されて いる の を 意識 し ない わけに は 行か なかった 。 事務 長 が その 場 に いない 時 は 、 子供 たち を あやし 楽しま せる 熱意 さえ 薄らぐ の を 覚えた 。 そんな 時 に 小さい 人 たち は きまって つまらな そうな 顔 を したり あくび を したり した 。 葉子 は そうした 様子 を 見る と さらに 興味 を 失った 。 そして そのまま 立って 自分 の 部屋 に 帰って しまう ような 事 を した 。 それ に も 係わら ず 事務 長 は かつて 葉子 に 特別な 注意 を 払う ような 事 は ない らしく 見えた 。 それ が 葉子 を ますます 不快に した 。 夜 など 甲板 の 上 を そぞろ歩き して いる 葉子 が 、 田川 博士 の 部屋 の 中 から 例 の 無遠慮な 事務 長 の 高 笑い の 声 を もれ 聞いたり なぞ する と 、 思わず かっと なって 、 鉄 の 壁 すら 射 通し そうな 鋭い ひとみ を 声 の する ほう に 送ら ず に は いられ なかった 。 ・・
ある 日 の 午後 、 それ は 雲行き の 荒い 寒い 日 だった 。 船客 たち は 船 の 動揺 に 辟易 して 自分 の 船室 に 閉じこもる の が 多かった ので 、 サルン が がら 明き に なって いる の を 幸い 、 葉子 は 岡 を 誘い出して 、 部屋 の かどに なった 所 に 折れ曲がって 据えて ある モロッコ 皮 の ディワン に 膝 と 膝 を 触れ合わ さん ばかり 寄り添って 腰 を かけて 、 トランプ を いじって 遊んだ 。 岡 は 日ごろ そういう 遊 戯 に は 少しも 興味 を 持って い なかった が 、 葉子 と 二 人きり で いら れる の を 非常に 幸福に 思う らしく 、 いつ に なく 快活に 札 を ひねくった 。 その 細い しなやかな 手 から ぶきっちょう に 札 が 捨てられたり 取ら れたり する の を 葉子 は おもしろい もの に 見 やり ながら 、 断続 的に 言葉 を 取りかわした 。 ・・
「 あなた も シカゴ に いらっしゃる と おっしゃって ね 、 あの 晩 」・・
「 え ゝ いいました 。 …… これ で 切って も いい でしょう 」・・
「 あら そんな もの で もったいない …… もっと 低い もの は お あり なさら ない ? …… シカゴ で は シカゴ 大学 に いらっしゃる の ? 」・・
「 これ で いい でしょう か …… よく わから ない んです 」・・
「 よく わから ないって 、 そりゃ おかしゅう ご ざん すわ ね 、 そんな 事 お 決め なさら ず に 米国 に いらっしゃるって 」・・ 「 僕 は ……」・・ 「 これ で いただきます よ …… 僕 は …… 何 」・・ 「 僕 は ねえ 」・・ 「 え ゝ 」・・
葉子 は トランプ を いじる の を やめて 顔 を 上げた 。 岡 は 懺悔 でも する 人 の ように 、 面 を 伏せて 紅 く なり ながら 札 を いじ くって いた 。 ・・
「 僕 の ほんとうに 行く 所 は ボストン だった のです 。 そこ に 僕 の 家 で 学資 を やって る 書生 が いて 僕 の 監督 を して くれる 事 に なって いた んです けれど ……」・・
葉子 は 珍しい 事 を 聞く ように 岡 に 目 を すえた 。 岡 は ますます いい 憎 そうに 、・・
「 あなた に お あい 申して から 僕 も シカゴ に 行き たく なって しまった んです 」・・
と だんだん 語尾 を 消して しまった 。 なんという 可憐 さ …… 葉子 は さらに 岡 に すり寄った 。 岡 は 真剣に なって 顔 まで 青ざめて 来た 。 ・・
「 お 気 に さわったら 許して ください …… 僕 は ただ …… あなた の いらっしゃる 所 に いたい んです 、 どう いう わけだ か ……」・・ もう 岡 は 涙ぐんで いた 。 葉子 は 思わず 岡 の 手 を 取って やろう と した 。 ・・
その 瞬間 に いきなり 事務 長 が 激しい 勢い で そこ に は いって 来た 。 そして 葉子 に は 目 も くれ ず に 激しく 岡 を 引っ立てる ように して 散歩 に 連れ出して しまった 。 岡 は 唯 々 と して その あと に したがった 。 ・・
葉子 はかっと なって 思わず 座 から 立ち上がった 。 そして 思い 存分 事務 長 の 無礼 を 責めよう と 身構え した 。 その 時 不意に 一 つ の 考え が 葉子 の 頭 を ひらめき 通った 。 「 事務 長 は どこ か で 自分 たち を 見守って いた に 違いない 」・・
突っ立った まま の 葉子 の 顔 に 、 乳房 を 見せつけられた 子供 の ような ほほえみ が ほのかに 浮かび上がった 。