48.1 或る 女
その 翌朝 手術 台 に のぼろう と した 葉子 は 昨夜 の 葉子 と は 別人 の ようだった 。 激しい 呼鈴 の 音 で 呼ば れ てつや が 病室 に 来た 時 に は 、 葉子 は 寝床 から 起き上がって 、 した ため 終わった 手紙 の 状 袋 を 封じて いる 所 だった が 、 それ を つや に 渡そう と する 瞬間 に いきなり いやに なって 、 口 び る を ぶるぶる 震わせ ながら つや の 見て いる 前 で それ を ずたずたに 裂いて しまった 。 それ は 愛子 に あてた 手紙 だった のだ 。 きょう は 手術 を 受ける から 九 時 まで に ぜひとも 立ち会い に 来る ように と したためた のだった 。 いくら 気丈 夫 でも 腹 を 立ち 割る 恐ろしい 手術 を 年 若い 少女 が 見て いられ ない くらい は 知ってい ながら 、 葉子 は 何 が なし に 愛子 に それ を 見せつけて やり たく なった のだ 。 自分 の 美しい 肉体 が むごたらしく 傷つけられて 、 そこ から 静脈 を 流れて いる どす黒い 血 が 流れ出る 、 それ を 愛子 が 見て いる うち に 気 が 遠く なって 、 そのまま そこ に 打ち 倒れる 、 そんな 事 に なったら どれほど 快い だろう と 葉子 は 思った 。 幾 度 来て くれろ と 電話 を かけて も 、 なんとか 口実 を つけて このごろ 見 も 返ら なく なった 愛子 に 、 これ だけ の 復讐 を して やる ので も 少し は 胸 が すく 、 そう 葉子 は 思った のだ 。 しかし その 手紙 を つや に 渡そう と する 段 に なる と 、 葉子 に は 思い も かけ ぬ 躊躇 が 来た 。 もし 手術 中 に はしたない 囈言 でも いって それ を 愛子 に 聞か れたら 。 あの 冷 刻 な 愛子 が 面 も そむけ ず に じっと 姉 の 肉体 が 切り さいなま れる の を 見 続け ながら 、 心 の 中 で 存分に 復讐 心 を 満足 する ような 事 が あったら 。 こんな 手紙 を 受け取って も てんで 相手 に し ないで 愛子 が 来 なかったら …… そんな 事 を 予想 する と 葉子 は 手紙 を 書いた 自分 に 愛想 が 尽きて しまった 。 ・・
つや は 恐ろしい まで に 激昂 した 葉子 の 顔 を 見 やり もし 得 ないで 、 おずおず と 立ち も やら ず に そこ に かしこまって いた 。 葉子 は それ が たまらない ほど 癪 に さわった 。 自分 に 対して すべて の 人 が 普通の 人間 と して 交わろう と は し ない 。 狂 人 に でも 接する ような 仕打ち を 見せる 。 だれ も 彼 も そう だ 。 医者 まで が そう だ 。 ・・
「 もう 用 は ない の よ 。 早く あっち に おい で 。 お前 は わたし を 気 狂い と でも 思って いる んだろう ね 。 …… 早く 手術 を して くださいって そう いって おい で 。 わたし は ちゃんと 死ぬ 覚悟 を して います からって ね 」・・
ゆうべ なつかしく 握って やった つや の 手 の 事 を 思い出す と 、 葉子 は 嘔吐 を 催す ような 不快 を 感じて こういった 。 きたない きたない 何もかも きたない 。 つや は 所在な げ に そっと そこ を 立って 行った 。 葉子 は 目 で かみつく ように その 後ろ姿 を 見送った 。 ・・
その 日 天気 は 上々で 東 向き の 壁 は さわって みたら 内部 から でも ほんのり と 暖か み を 感ずる だろう と 思わ れる ほど 暑く なって いた 。 葉子 は きのう まで の 疲労 と 衰弱 と に 似 ず 、 その 日 は 起きる と から 黙って 臥 てはいられ ない くらい 、 からだ が 動かし たかった 。 動かす たび ごと に 襲って 来る 腹部 の 鈍痛 や 頭 の 混乱 を いやが上にも 募らして 、 思い 存分の 苦痛 を 味わって みたい ような 捨てばち な 気分 に なって いた 。 そして ふらふら と 少し よろけ ながら 、 衣 紋 も 乱した まま 部屋 の 中 を 片づけよう と して 床の間 の 所 に 行った 。 懸け 軸 も ない 床の間 の 片すみ に は きのう 古藤 が 持って 来た 花 が 、 暑 さ の ため に 蒸れた ように しぼみ かけて 、 甘ったるい 香 を 放って うなだれて いた 。 葉子 は ガラス びん ごと それ を 持って 縁側 の 所 に 出た 。 そして その 花 の かたまり の 中 に む ず と 熱した 手 を 突っ込んだ 。 死 屍 から 来る ような 冷た さ が 葉子 の 手 に 伝わった 。 葉子 の 指先 は 知らず知らず 縮まって 没 義道 に それ を 爪 も 立た ん ばかり 握りつぶした 。 握りつぶして は びん から 引き抜いて 手 欄 から 戸外 に 投げ出した 。 薔薇 、 ダリア 、 小 田巻 、 など の 色とりどりの 花 が ばらばらに 乱れて 二 階 から 部屋 の 下 に 当たる きたない 路頭 に 落ちて 行った 。 葉子 は ほとんど 無意識に 一 つ かみ ずつ そう やって 投げ捨てた 。 そして 最後に ガラス びん を 力任せに たたきつけた 。 びん は 目 の 下 で 激しく こわれた 。 そこ から あふれ出た 水 が かわき きった 縁側 板 に 丸い 斑 紋 を いく つ と なく 散らかして 。 ・・
ふと 見る と 向こう の 屋根 の 物干し 台 に 浴衣 の 類 を 持って 干し に 上がって 来た らしい 女 中 風 の 女 が 、 じっと 不思議 そうに こっち を 見つめて いる のに 気 が ついた 。 葉子 と は 何の 関係 も ない その 女 まで が 、 葉子 の する 事 を 怪しむ らしい 様子 を して いる の を 見る と 、 葉子 の 狂暴な 気分 は ますます 募った 。 葉子 は 手 欄 に 両手 を ついて ぶるぶる と 震え ながら 、 その 女 を いつまでも いつまでも にらみつけた 。 女 の ほう でも 葉子 の 仕打ち に 気づいて 、 しばらく は 意 趣 に 見返す ふうだった が 、 やがて 一種 の 恐怖 に 襲わ れた らしく 、 干し物 を 竿 に 通し も せ ず に あたふた と あわてて 干し物 台 の 急な 階子 を 駆け おりて しまった 。 あと に は 燃える ような 青空 の 中 に 不規則な 屋根 の 波 ばかり が 目 を ちか ちか さ せて 残って いた 。 葉子 は なぜに と も 知れ ぬ ため 息 を 深く ついて まんじ り と その あからさまな 景色 を 夢 か なぞ の ように ながめ 続けて いた 。 ・・
やがて 葉子 は また われ に 返って 、 ふくよかな 髪 の 中 に 指 を 突っ込んで 激しく 頭 の 地 を かき ながら 部屋 に 戻った 。 ・・
そこ に は 寝床 の そば に 洋服 を 着た 一 人 の 男 が 立って いた 。 激しい 外 光 から 暗い 部屋 の ほう に 目 を 向けた 葉子 に は 、 ただ まっ黒 な 立ち 姿 が 見える ばかりで だれ と も 見分け が つか なかった 。 しかし 手術 の ため に 医 員 の 一 人 が 迎え に 来た のだ と 思わ れた 。 それにしても 障子 の あく 音 さえ し なかった の は 不思議な 事 だ 。 は いって 来 ながら 声 一 つ かけ ない の も 不思議だ 。 と 、 思う と 得 体 の わから ない その 姿 は 、 その まわり の 物 が だんだん 明らかに なって 行く 間 に 、 たった 一 つ だけ まっ黒 なま まで いつまでも 輪郭 を 見せ ない ようだった 。 いわば 人 の 形 を した まっ暗 な 洞穴 が 空気 の 中 に 出来上がった ようだった 。 始め の 間 好奇心 を もって それ を ながめて いた 葉子 は 見つめれば 見つめる ほど 、 その 形 に 実質 が なくって 、 まっ暗 な 空虚 ばかりである ように 思い出す と 、 ぞ ーっと 水 を 浴びせられた ように 怖 毛 を ふるった 。 「 木村 が 来た 」…… 何という 事 なし に 葉子 は そう 思い込んで しまった 。 爪 の 一 枚 一 枚 まで が 肉 に 吸い寄せられて 、 毛 と いう 毛 が 強 直して 逆 立つ ような 薄気味わる さ が 総身 に 伝わって 、 思わず 声 を 立てよう と し ながら 、 声 は 出 ず に 、 口 び る ばかり が かすかに 開いて ぶるぶる と 震えた 。 そして 胸 の 所 に 何 か 突き のける ような 具合 に 手 を あげた まま 、 ぴったり と 立ち止まって しまった 。 ・・
その 時 その 黒い 人 の 影 の ような もの が 始めて 動き出した 。 動いて みる と なんでもない 、 それ は やはり 人間 だった 。 見る見る その 姿 の 輪郭 が はっきり わかって 来て 、 暗 さ に 慣れて 来た 葉子 の 目 に は それ が 岡 である 事 が 知れた 。 ・・
「 まあ 岡 さん 」・・
葉子 は その 瞬間 の なつかし さ に 引き入れられて 、 今 まで 出 なかった 声 を どもる ような 調子 で 出した 。 岡 は かすかに 頬 を 紅 ら め たようだった 。 そして いつも の とおり 上品に 、 ちょっと 畳 の 上 に 膝 を ついて 挨拶 した 。 まるで 一 年 も 牢獄 に いて 、 人間 らしい 人 間にあわ ないで いた 人 の ように 葉子 に は 岡 が なつかしかった 。 葉子 と は なんの 関係 も ない 広い 世間 から 、 一 人 の 人 が 好意 を こめて 葉子 を 見舞う ため に そこ に 天 降った と も 思わ れた 。 走り 寄って しっかり と その 手 を 取りたい 衝動 を 抑える 事 が でき ない ほど に 葉子 の 心 は 感激 して いた 。 葉子 は 目 に 涙 を ため ながら 思う まま の 振る舞い を した 。 自分 でも 知ら ぬ 間 に 、 葉子 は 、 岡 の そば 近く すわって 、 右手 を その 肩 に 、 左手 を 畳 に 突いて 、 しげしげ と 相手 の 顔 を 見 やる 自分 を 見いだした 。 ・・
「 ごぶさた して いました 」・・
「 よく い らしって くださって ね 」・・
どっち から いい出す と も なく 二 人 の 言葉 は 親し げ に からみ合った 。 葉子 は 岡 の 声 を 聞く と 、 急に 今 まで 自分 から 逃げて いた 力 が 回復 して 来た の を 感じた 。 逆境 に いる 女 に 対して 、 どんな 男 であれ 、 男 の 力 が どれほど 強い もの である か を 思い知った 。 男性 の 頼もし さ が しみじみ と 胸 に 逼った 。 葉子 は われ知らず すがり付く ように 、 岡 の 肩 に かけて いた 右手 を すべら して 、 膝 の 上 に 乗せて いる 岡 の 右 手の甲 の 上 から しっかり と 捕えた 。 岡 の 手 は 葉子 の 触覚 に 妙に 冷たく 響いて 来た 。 ・・
「 長く 長く お あいしません でした わ ね 。 わたし あなた を 幽霊 じゃ ない か と 思い まして よ 。 変な 顔つき を した でしょう 。 貞 世 は …… あなた けさ 病院 の ほう から いら しった の ? 」・・
岡 は ちょっと 返事 を ためらった ようだった 。 ・・
「 い ゝ え 家 から 来ました 。 ですから わたし 、 きょう の 御 様子 は 知りません が 、 きのう まで の ところ で は だんだん お よろしい ようです 。 目 さえ さめて いらっしゃる と 『 おね え 様 おね え 様 』 と お 泣き なさる の が ほんとうに お かわいそうです 」・・
葉子 は それ だけ 聞く と もう 感情 が もろく なって いて 胸 が 張り裂ける ようだった 。 岡 は 目ざとく も それ を 見て取って 、 悪い 事 を いった と 思った らしかった 。 そして 少し あわてた ように 笑い 足し ながら 、・・
「 そう か と 思う と 、たいへん お 元気な 事 も あります 。 熱 の 下がって いらっしゃる 時 なんか は 、 愛子 さん に おもしろい 本 を 読んで お もらい に なって 、 喜んで 聞いて おいで です 」・・
と 付け足した 。 葉子 は 直 覚 的に 岡 が その 場 の 間に合わ せ を いって いる のだ と 知った 。 それ は 葉子 を 安心 さ せる ため の 好意 である と は いえ 、 岡 の 言葉 は 決して 信用 する 事 が でき ない 。 毎日 一 度 ずつ 大学 病院 まで 見舞い に 行って もらう つや の 言葉 に 安心 が でき ないで いて 、 だれ か 目 に 見た とおり を 知らせて くれる 人 は ない か と あせって いた 矢先 、 この 人 ならば と 思った 岡 も 、 つや 以上 に いいかげん を いおう と して いる のだ 。 この 調子 で は 、 とうに 貞 世 が 死んで しまって いて も 、 人 たち は 岡 が いって 聞か せる ような 事 を いつまでも 自分 に いう のだろう 。 自分 に は だれ一人 と して 胸 を 開いて 交際 しよう と いう 人 は い なく なって しまった のだ 。 そう 思う と さびしい より も 、 苦しい より も 、 かっと 取り のぼせる ほど 貞 世 の 身の上 が 気づかわれて なら なく なった 。 ・・
「 かわいそうに 貞 世 は …… さぞ やせて しまった でしょう ね ? 」・・
葉子 は 口裏 を ひく ように こう 尋ねて みた 。 ・・
「 始終 見つけて いる せい です か 、 そんなに も 見えません 」・・
岡 は ハンカチ で 首 の まわり を ぬぐって 、 ダブル ・ カラー の 合わせ を 左 の 手 で くつろげ ながら 少し 息 気 苦し そうに こう 答えた 。 ・・
「 なんにも いただけ ない んでしょう ね 」・・
「 ソップ と 重 湯 だけ です が 両方 と も よく 食べ なさいます 」・・
「 ひもじ がって おります か 」・・
「 い ゝ え そんな でも 」・・
もう 許せ ない と 葉子 は 思い 入って 腹 を 立てた 。 腸 チブス の 予後 に ある もの が 、 食欲 が ない …… そんな しらじらしい 虚構 が ある もの か 。 みんな 虚構 だ 。 岡 の いう 事 も みんな 虚構 だ 。 昨夜 は 病院 に 泊まら なかった と いう 、 それ も 虚構 で なくて なんだろう 。 愛子 の 熱情 に 燃えた 手 を 握り 慣れた 岡 の 手 が 、 葉子 に 握られて 冷える の も もっともだ 。 昨夜 は この 手 は …… 葉子 は ひとみ を 定めて 自分 の 美しい 指 に からま れた 岡 の 美しい 右手 を 見た 。 それ は 女 の 手 の ように 白く なめらかだった 。 しかし この 手 が 昨夜 は 、…… 葉子 は 顔 を あげて 岡 を 見た 。 ことさら に あざやかに 紅 いそ の 口 び る …… この 口 び る が 昨夜 は …… 眩暈 が する ほど 一度に 押し寄せて 来た 憤怒 と 嫉妬 と の ため に 、 葉子 は 危うく その 場 に あり 合わせた もの に かみつこう と した が 、 からく それ を ささえる と 、 もう 熱い 涙 が 目 を こがす ように 痛めて 流れ出した 。 ・・
「 あなた は よく うそ を お つき なさる の ね 」