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「十一 」 野 分 夏目 漱石
十一
今日 も また 風 が 吹く 。
汁 気 の ある もの を ことごとく 乾 鮭 に する つもりで 吹く 。
「 御 兄さん の 所 から 御 使 です 」 と 細 君 が 封書 を 出す 。
道也 は 坐った まま 、 体 を そらして 受け取った 。
「 待って る かい 」 「 ええ 」 道也 は 封 を 切って 手紙 を 読み 下す 。
やがて 、 終り から 巻き返して 、 再び 状 袋 の なか へ 収めた 。
何にも 云 わ ない 。
「 何 か 急用 で でも ご ざん す か 」 道也 は 「 うん 」 と 云 いながら 、 墨 を 磨って 、 何 か さらさら と 返事 を 認めて いる 。
「 何の 御用 です か 」 「 ええ ?
ちょっと 待った 。
書いて しまう から 」 返事 は わずか 五六 行 である 。
宛名 を かいて 、「 これ を 」 と 出す 。
細 君 は 下 女 を 呼んで 渡して やる 。
自分 は 動か ない 。
「 何の 御用 な んです か 」 「 何の 用 か わから ない 。
ただ 、 用 が ある から 、 すぐ 来て くれ と かいて ある 」 「 いらっしゃる でしょう 」 「 おれ は 行か れ ない 。
なんなら お前 行って 見てくれ 」 「 私 が ?
私 は 駄目です わ 」 「 なぜ 」 「 だって 女 です もの 」 「 女 でも 行か ない より いい だろう 」 「 だって 。
あなた に 来い と 書いて ある んでしょう 」 「 おれ は 行か れ ない もの 」 「 どうして ?
」 「 これ から 出掛け なくっちゃ なら ん 」 「 雑誌 の 方 なら 、 一 日 ぐらい 御 休み に なって も いい でしょう 」 「 編 輯 なら いい が 、 今日 は 演説 を やら なくっちゃ なら ん 」 「 演説 を ?
あなた が です か ?
」 「 そう よ 、 おれ が やる の さ 。
そんなに 驚 ろく 事 は なかろう 」 「 こんなに 風 が 吹く のに 、 よし に なされば いい のに 」 「 ハハハハ 風 が 吹いて やめる ような 演説 なら 始め から やりゃ し ない 」 「 ですけれども 滅多な 事 は なさら ない 方 が よ ご ざん す よ 」 「 滅多な 事 と は 。
何 が さ 」 「 いいえ ね 。
あんまり 演説 なんか なさら ない 方 が 、 あなた の 得だ と 云 うん です 」 「 な に 得な 事 が ある もの か 」 「 あと が 困る かも 知れ ない と 申す のです 」 「 妙な 事 を 云 うね 御前 は 。
―― 演説 を しちゃ いけない と 誰 か 云った の か ね 」 「 誰 が そんな 事 を 云 う もの です か 。
―― 云 いやしま せ ん が 、 御 兄さん から こう やって 、 急用 だって 、 御 使 が 来て いる んです から 行って 上げ なくって は 義理 が わるい じゃ ありません か 」 「 それ じゃ 演説 を やめ なくっちゃ なら ない 」 「 急に 差 支 が 出来たって 断わったら いい でしょう 」 「 今さら そんな 不 義理 が 出来る もの か 」 「 では 御 兄さん の 方 へ は 不 義理 を な すって も 、 いい と おっしゃる んです か 」 「 いい と は 云 わ ない 。
しかし 演説 会 の 方 は 前 から の 約束 で ―― それ に 今日 の 演説 は ただ の 演説 で は ない 。
人 を 救う ため の 演説 だ よ 」 「 人 を 救うって 、 誰 を 救う のです 」 「 社 の もの で 、 この 間 の 電車 事件 を 煽 動 した と 云 う 嫌疑 で 引っ張ら れた もの が ある 。
―― ところが その 家族 が 非常な 惨状 に 陥って 見る に 忍びない から 、 演説 会 を して その 収入 を そちら へ 廻して やる 計画 な んだ よ 」 「 そんな 人 の 家族 を 救う の は 結構な 事 に 相違 ない でしょう が 、 社会 主義 だ なんて 間違えられる と あと が 困ります から ……」 「 間違えたって 構わ ない さ 。
国家 主義 も 社会 主義 も ある もの か 、 ただ 正しい 道 が いい の さ 」 「 だって 、 もし あなた が 、 その 人 の ように なった と して 御覧 なさい 。
私 は やっぱり 、 その 人 の 奥さん 同様な 、 ひどい 目 に 逢わ なけりゃ なら ない でしょう 。
人 を 御 救い なさる の も 結構です が 、 ちっと は 私 の 事 も 考えて 、 やって 下さら なくっちゃ 、 あんまりです わ 」 道也 先生 は しばらく 沈 吟 して いた が 、 やがて 、 机 の 前 を 立ち ながら 「 そんな 事 は ない よ 。
そんな 馬鹿な 事 は ない よ 。
徳川 政府 の 時代 じゃ ある ま いし 」 と 云った 。
例の 袴 を 突っかける と 支度 は 一 分 たた ぬ うち に 出来上った 。
玄関 へ 出る 。
外 は いまだに 強く 吹いて いる 。
道也 先生 の 姿 は 風 の 中 に 消えた 。
清 輝 館 の 演説 会 は この 風 の 中 に 開か れる 。
講演 者 は 四 名 、 聴衆 は 三百 名 足らず である 。
書生 が 多い 。
その 中 に 文学 士 高柳 周作 が いる 。
彼 は この 風 の 中 を 襟巻 に 顔 を 包んで 咳 を し ながら やって 来た 。
十 銭 の 入場 料 を 払って 、 二 階 に 上った 時 は 、 広い 会場 は まばらに 席 を あまして むしろ 寂 寞 の 感 が あった 。
彼 は 南側 の なるべく 暖か そうな 所 に 席 を とった 。
演説 は すでに 始まって いる 。
「…… 文士 保護 は 独立 し がたき 文士 の 言う 事 である 。
保護 と は 貴族 的 時代 に 云 う べき 言葉 で 、 個人 平等 の 世に これ を 云々 する の は 恥 辱 の 極 である 。
退いて 保護 を 受 くる より 進んで 自己 に 適当なる 租税 を 天下 から 払わ しむ べきである 」 と 云った と 思ったら 、 引き込んだ 。
聴衆 は 喝采 する 。
隣り に 薩摩 絣 の 羽織 を 着た 書生 が いて 話して いる 。
「 今 の が 、 黒田 東陽 か 」 「 うん 」 「 妙な 顔 だ な 。
もっと 話せる 顔 か と 思った 」 「 保護 を 受けたら 、 もう 少し 顔 らしく なる だろう 」 高柳 君 は 二 人 を 見た 。
二 人 も 高柳 君 を 見た 。
「 おい 」 「 何 だ 」 「 いやに 睨め る じゃ ねえ か 」 「 おっか ねえ 」 「 こんだ 誰 の 番 だ 。
―― 見ろ 見ろ 出て 来た 」 「 いやに 、 ひ ょろ 長い な 。
この 風 に どうして 出て 来たろう 」 ひ ょろ ながい 道也 先生 は 綿 服 の まま 壇上 に あらわれた 。
かれ は この 風 の 中 を 金 釘 の ごとく 直立 して 来た のである 。
から風 に 吹き 曝さ れ たる 彼 は 、 からからの 古 瓢箪 の ごとく に 見える 。
聴衆 は 一度に 手 を たたく 。
手 を たたく の は 必ずしも 喝采 の 意 と 解す べ から ざる 場合 が ある 。
独り 高柳 君 のみ は 粛然 と して 襟 を 正した 。
「 自己 は 過去 と 未来 の 連鎖 である 」 道也 先生 の 冒頭 は 突如と して 来た 。
聴衆 は ちょっと 不意 撃 を 食った 。
こんな 演説 の 始め 方 は ない 。
「 過去 を 未来 に 送り込む もの を 旧派 と 云 い 、 未来 を 過去 より 救う もの を 新派 と 云 う のであります 」 聴衆 は いよいよ 惑った 。
三百 の 聴衆 の うち に は 、 道也 先生 を ひやかす 目的 を もって 入場 して いる もの が ある 。
彼ら に 一 寸 の 隙 でも 与えれば 道也 先生 は 壇上 に 嘲 殺さ れ ねば なら ぬ 。
角 力 は 呼吸 である 。
呼吸 を 計ら ん で ひやかせば かえって 自分 が 放り出さ れる ばかりである 。
彼ら は 蛇 の ごとく 鎌 首 を 持ち上げて 待構えて いる 。
道也 先生 の 眼中 に は 道 の 一 字 が ある 。
「 自己 の うち に 過去 なし と 云 う もの は 、 われ に 父母 なし と 云 う が ごとく 、 自己 の うち に 未来 なし と 云 う もの は 、 われ に 子 を 生む 能力 なし と いう と 一般 である 。
わが 立脚 地 は ここ に おいて 明瞭である 。
われ は 父母 の ため に 存在 する か 、 われ は 子 の ため に 存在 する か 、 あるいは われ そのもの を 樹立 せ ん が ため に 存在 する か 、 吾人 生存 の 意義 は この 三 者 の 一 を 離 る る 事 が 出来 ん のである 」 聴衆 は 依然と して 、 だまって いる 。
あるいは 煙 に 捲 かれた の かも 知れ ない 。
高柳 君 は なるほど と 聴いて いる 。
「 文芸 復興 は 大 なる 意味 に おいて 父母 の ため に 存在 し たる 大 時期 である 。
十八 世紀 末 の ゴシック 復活 も また 大 なる 意味 に おいて 父母 の ため に 存在 し たる 小 時期 である 。
同時に スコット 一派 の 浪漫 派 を 生ま ん が ため に 存在 した 時期 である 。
すなわち 子孫 の ため に 存在 し たる 時期 である 。
自己 を 樹立 せ ん が ため に 存在 し たる 時期 の 好例 は エリザベス 朝 の 文学 である 。
個人 に ついて 云 えば イブセン である 。
メレジス である 。
ニイチェ である 。
ブラウニング である 。
耶蘇 教徒 ( ヤソ きょうと ) は 基督 ( キリスト ) の ため に 存在 して いる 。
基督 は 古 え の 人 である 。
だから 耶蘇 教徒 は 父 の ため に 存在 して いる 。
儒者 は 孔子 の ため に 生きて いる 。
孔子 も 昔 え の 人 である 。
だから 儒者 は 父 の ため に 生きて いる 。
……」 「 もう わかった 」 と 叫ぶ もの が ある 。
「 なかなか わかりません 」 と 道也 先生 が 云 う 。
聴衆 は どっと 笑った 。
「 袷 は 単 衣 の ため に 存在 する です か 、 綿 入 の ため に 存在 する です か 。
または 袷 自身 の ため に 存在 する です か 」 と 云って 、 一応 聴衆 を 見 廻した 。
笑う に は あまり 、 奇 警 である 。
慎 しむ に は あまり 飄 きん である 。
聴衆 は 迷う た 。
「 六 ず か しい 問題 じゃ 、 わたし に も わから ん 」 と 済ました 顔 で 云って しまう 。
聴衆 は また 笑った 。
「 それ は わから ん でも 差 支 ない 。
しかし 吾々 は 何の ため に 存在 して いる か ?
これ は 知ら なくて は なら ん 。
明治 は 四十 年 立った 。
四十 年 は 短 かく は ない 。
明治 の 事業 は これ で 一 段落 を 告げた ……」 「 ノー 、 ノー 」 と 云 う もの が ある 。
「 どこ か で ノー 、 ノー と 云 う 声 が する 。
わたし は その 人 に 賛成 である 。
そう 云 う 人 が ある だろう と 思う て 待って いた のである 」 聴衆 は また 笑った 。
「 いや 本当に 待って いた のである 」 聴衆 は 三 たび 鬨 を 揚げた 。
「 私 は 四十 年 の 歳月 を 短 かく は ない と 申した 。
なるほど 住んで 見れば 長い 。
しかし 明治 以外 の 人 から 見たら やはり 長い だろう か 。
望遠 鏡 の 眼鏡 は 一 寸 の 直径 である 。
しかし 愛宕 山 から 見る と 品川 の 沖 が この 一 寸 の なか に 這 入って しまう 。
明治 の 四十 年 を 長い と 云 う もの は 明治 の なか に 齷齪 して いる もの の 云 う 事 である 。
後世 から 見れば ずっと 縮まって しまう 。
ずっと 遠く から 見る と 一 弾 指 の 間 に 過ぎ ん 。
―― 一 弾 指 の 間 に 何 が 出来る 」 と 道也 は テーブル の 上 を とんと 敲いた 。
聴衆 は ちょっと 驚 ろ いた 。
「 政治 家 は 一大事 業 を した つもりで いる 。
学者 も 一大事 業 を した つもりで いる 。
実業 家 も 軍人 も みんな 一大事 業 を した つもりで いる 。
した つもりで いる が それ は 自分 の つもりである 。
明治 四十 年 の 天地 に 首 を 突き 込んで いる から 、 した つもり に なる のである 。
―― 一 弾 指 の 間 に 何 が 出来る 」 今度 は 誰 も 笑わ なかった 。
「 世の中 の 人 は 云 うて いる 。
明治 も 四十 年 に なる 、 まだ 沙 翁 が 出 ない 、 まだ ゲーテ が 出 ない 。
四十 年 を 長い と 思えば こそ 、 そんな 愚痴 が 出る 。
一 弾 指 の 間 に 何 が 出る 」 「 もうでる ぞ 」 と 叫んだ もの が ある 。
「 もうでる かも 知れ ん 。
しかし 今 まで に 出て おら ん 事 は 確かである 。
―― 一言 に して 云 えば 」 と 句 を 切った 。
満場 は しんと して いる 。
「 明治 四十 年 の 日月 は 、 明治 開化 の 初期 である 。
さらに 語 を 換えて これ を 説明 すれば 今日 の 吾人 は 過去 を 有 た ぬ 開化 の うち に 生息 して いる 。
したがって 吾人 は 過去 を 伝う べき ため に 生れた ので は ない 。
―― 時 は 昼夜 を 舎 て ず 流れる 。
過去 の ない 時代 は ない 。
―― 諸君 誤解 して は なりません 。
吾人 は 無論 過去 を 有して いる 。
しかし その 過去 は 老 耄 した 過去 か 、 幼稚な 過去 である 。
則 とる に 足る べき 過去 は 何にも ない 。
明治 の 四十 年 は 先例 の ない 四十 年 である 」 聴衆 の うち に そう か なあ と 云 う 顔 を して いる 者 が ある 。
「 先例 の ない 社会 に 生れた もの ほど 自由な もの は ない 。
余 は 諸君 が この 先例 の ない 社会 に 生れた の を 深く 賀 する もの である 」 「 ひや 、 ひや 」 と 云 う 声 が 所々 に 起る 。
「 そう 早合点 に 賛成 されて は 困る 。
先例 の ない 社会 に 生れた もの は 、 自から 先例 を 作ら ねば なら ぬ 。
束縛 の ない 自由 を 享 ける もの は 、 すでに 自由 の ため に 束縛 されて いる 。
この 自由 を いかに 使いこなす か は 諸君 の 権利 である と 同時に 大 なる 責任 である 。
諸君 。
偉大なる 理想 を 有せ ざる 人 の 自由 は 堕落 で あります 」 言い切った 道也 先生 は 、 両手 を 机 の 上 に 置いて 満場 を 見 廻した 。
雷 が 落ちた ような 気合 である 。
「 個人 に ついて 論じて も わかる 。
過去 を 顧みる 人 は 半 白 の 老人 である 。
少 壮 の 人 に 顧みる べき 過去 は ない はずである 。
前途 に 大 なる 希望 を 抱く もの は 過去 を 顧みて 恋 々 たる 必要 が ない のである 。
―― 吾人 が 今日 生きて いる 時代 は 少 壮 の 時代 である 。
過去 を 顧みる ほど に 老い 込んだ 時代 で は ない 。
政治 に 伊藤 侯 や 山県 侯 を 顧みる 時代 で は ない 。
実業 に 渋沢 男 や 岩崎 男 を 顧みる 時代 で は ない 。
……」 「 大気 」 と 評した の は 高柳 君 の 隣り に いた 薩摩 絣 である 。
高柳 君 は むっと した 。
「 文学 に 紅葉 氏 一 葉 氏 を 顧みる 時代 で は ない 。
これら の 人々 は 諸君 の 先例 に なる が ため に 生きた ので は ない 。
諸君 を 生む ため に 生きた のである 。
最 前 の 言葉 を 用いれば これら の 人々 は 未来 の ため に 生きた のである 。
子 の ため に 存在 した のである 。
しか して 諸君 は 自己 の ため に 存在 する のである 。
―― およそ 一 時代 に あって 初期 の 人 は 子 の ため に 生きる 覚悟 を せ ねば なら ぬ 。
中期 の 人 は 自己 の ため に 生きる 決心 が 出来 ねば なら ぬ 。
後期 の 人 は 父 の ため に 生きる あきらめ を つけ なければ なら ぬ 。
明治 は 四十 年 立った 。
まず 初期 と 見て 差 支 なかろう 。
すると 現代 の 青年 たる 諸君 は 大 に 自己 を 発展 して 中期 を かたちづくら ねば なら ぬ 。
後ろ を 顧みる 必要 なく 、 前 を 気遣う 必要 も なく 、 ただ 自我 を 思 の まま に 発展 し 得る 地位 に 立つ 諸君 は 、 人生 の 最大 愉快 を 極 む る もの である 」 満場 は 何となく どよめき 渡った 。
「 なぜ 初期 の もの が 先例 に なら ん ?
初期 は もっとも 不 秩序 の 時代 である 。
偶然 の 跋扈 する 時代 である 。
僥倖 の 勢 を 得る 時代 である 。
初期 の 時代 に おいて 名 を 揚げ たる もの 、 家 を 起し たる もの 、 財 を 積み たる もの 、 事業 を なし たる もの は 必ずしも 自己 の 力量 に 由って 成功 した と は 云 われ ぬ 。
自己 の 力量 に よら ず して 成功 する は 士 の もっとも 恥 辱 と する ところ である 。
中期 の もの は この 点 に おいて 遥かに 初期 の 人々 より も 幸福である 。
事 を 成す の が 困難である から 幸福である 。
困難に も かかわら ず 僥倖 が 少ない から 幸福である 。
困難に も かかわら ず 力量 しだい で 思う ところ へ 行ける ほど の 余裕 が あり 、 発展 の 道 が ある から 幸福である 。
後期 に 至る と かたまって しまう 。
ただ 前代 を 祖 述 する より ほか に 身動き が とれ ぬ 。
身動き が とれ なく なって 、 人間 が 腐った 時 、 また 波 瀾 が 起る 。
起ら ねば 化石 する より ほか に しようがない 。
化石 する の が いやだ から 、 自から 波 瀾 を 起す のである 。
これ を 革命 と 云 う のである 。
「 以上 は 明治 の 天下 に あって 諸君 の 地位 を 説明 した のである 。
かかる 愉快な 地位 に 立つ 諸君 は この 愉快に 相当 する 理想 を 養わ ねば なら ん 」 道也 先生 は ここ に おいて 一転 語 を 下した 。
聴衆 は 別に ひやかす 気 も なくなった と 見える 。
黙って いる 。
「 理想 は 魂 である 。
魂 は 形 が ない から わから ない 。
ただ 人 の 魂 の 、 行為 に 発現 する ところ を 見て 髣髴 する に 過ぎ ん 。
惜しい かな 現代 の 青年 は これ を 髣髴 する こと が 出来 ん 。
これ を 過去 に 求めて も ない 、 これ を 現代 に 求めて は なおさら ない 。
諸君 は 家庭 に 在って 父母 を 理想 と する 事 が 出来ます か 」 ある もの は 不平 な 顔 を した 。
しかし だまって いる 。
「 学校 に 在って 教師 を 理想 と する 事 が 出来ます か 」 「 ノー 、 ノー 」 「 社会 に 在って 紳士 を 理想 と する 事 が 出来ます か 」 「 ノー 、 ノー 」 「 事実 上 諸君 は 理想 を もって おら ん 。
家 に 在って は 父母 を 軽蔑 し 、 学校 に 在って は 教師 を 軽蔑 し 、 社会 に 出 でて は 紳士 を 軽蔑 して いる 。
これら を 軽蔑 し 得る の は 見識 である 。
しかし これら を 軽蔑 し 得る ため に は 自己 に より 大 なる 理想 が なくて は なら ん 。
自己 に 何ら の 理想 なく して 他 を 軽蔑 する の は 堕落 である 。
現代 の 青年 は 滔々と して 日 に 堕落 し つつ ある 」 聴衆 は 少し く 色めいた 。
「 失敬な 」 と つぶやく もの が ある 。
道也 先生 は 昂 然 と して 壇 下 を 睥睨 して いる 。
「 英国 風 を 鼓 吹 して 憚 から ぬ もの が ある 。
気の毒な 事 である 。
己 れ に 理想 の ない の を 明か に 暴露 して いる 。
日本 の 青年 は 滔々と して 堕落 する に も かかわら ず 、 いまだ ここ まで は 堕落 せ ん と 思う 。
すべて の 理想 は 自己 の 魂 である 。
うち より 出 ねば なら ぬ 。
奴隷 の 頭脳 に 雄大な 理想 の 宿り よう が ない 。
西洋 の 理想 に 圧倒 せられて 眼 が くらむ 日本 人 は ある 程度 に おいて 皆 奴隷 である 。
奴隷 を もって 甘んずる のみ なら ず 、 争って 奴隷 たら ん と する もの に 何ら の 理想 が 脳裏 に 醗酵 し 得る 道理 が あろう 。
「 諸君 。
理想 は 諸君 の 内部 から 湧き出 なければ なら ぬ 。
諸君 の 学問 見識 が 諸君 の 血 と なり 肉 と なり ついに 諸君 の 魂 と なった 時 に 諸君 の 理想 は 出来上る のである 。
付 焼 刃 は 何にも なら ない 」 道也 先生 は ひやかさ れる なら 、 ひやかして 見ろ と 云 わ ぬ ばかりに 片手 の 拳骨 を テーブル の 上 に 乗せて 、 立って いる 。
汚 ない 黒 木綿 の 羽織 に 、 べん べら の 袴 は 最 前 ほど に 目立た ぬ 。
風 の 音 が ごう と 鳴る 。
「 理想 の ある もの は 歩く べき 道 を 知っている 。
大 なる 理想 の ある もの は 大 なる 道 を あるく 。
迷子 と は 違う 。
どう あって も この 道 を あるか ねば やま ぬ 。
迷い たくて も 迷え ん のである 。
魂 が こちら こちら と 教える から である 。
「 諸君 の うち に は 、 どこ まで 歩く つもりだ と 聞く もの が ある かも 知れ ぬ 。
知れた 事 である 。
行ける 所 まで 行く の が 人生 である 。
誰しも 自分 の 寿命 を 知って る もの は ない 。
自分 に 知れ ない 寿命 は 他人 に は なおさら わから ない 。
医者 を 家業 に する 専門 家 でも 人間 の 寿命 を 勘定 する 訳 に は 行か ぬ 。
自分 が 何 歳 まで 生きる か は 、 生 きた あと で 始めて 言う べき 事 である 。
八十 歳 まで 生きた と 云 う 事 は 八十 歳 まで 生きた 事実 が 証拠 立てて くれ ねば なら ん 。
た とい 八十 歳 まで 生きる 自信 が あって 、 その 自信 通り に なる 事 が 明瞭である に して も 、 現に 生きた と 云 う 事実 が ない 以上 は 誰 も 信ずる もの は ない 。
したがって 言う べき もの で ない 。
理想 の 黙 示 を 受けて 行く べき 道 を 行く の も その 通り である 。
自己 が どれほど に 自己 の 理想 を 現実 に し 得る か は 自己 自身 に さえ 計ら れ ん 。
過去 が こう である から 、 未来 も こう であろう ぞ と 臆 測 する の は 、 今 まで 生きて いた から 、 これ から も 生きる だろう と 速 断 する ような もの である 。
一種 の 山 である 。
成功 を 目的 に して 人生 の 街頭 に 立つ もの は すべて 山師 である 」 高柳 君 の 隣り に いた 薩摩 絣 は 妙な 顔 を した 。
「 社会 は 修羅場 である 。
文明 の 社会 は 血 を 見 ぬ 修羅場 である 。
四十 年 前 の 志士 は 生死 の 間 に 出入 して 維新 の 大 業 を 成就 した 。
諸君 の 冒す べき 危険 は 彼ら の 危険 より 恐ろしい かも 知れ ぬ 。
血 を 見 ぬ 修羅場 は 砲声 剣 光 の 修羅場 より も 、 より 深刻に 、 より 悲惨である 。
諸君 は 覚悟 を せ ねば なら ぬ 。
勤 王 の 志士 以上 の 覚悟 を せ ねば なら ぬ 。
斃 る る 覚悟 を せ ねば なら ぬ 。
太平の 天地 だ と 安心 して 、 拱 手 して 成功 を 冀う 輩 は 、 行く べき 道 に 躓いて 非業 に 死 し たる 失敗 の 児 より も 、 人間 の 価値 は 遥かに 乏しい のである 。
「 諸君 は 道 を 行か ん が ため に 、 道 を 遮 ぎ る もの を 追わ ねば なら ん 。
彼ら と 戦う とき に 始めて 、 わが 生涯 の 内 生命 に 、 勤 王 の 諸 士 が あえて し たる 以上 の 煩 悶 と 辛 惨 と を 見出し 得る のである 。
―― 今日 は 風 が 吹く 。
昨日 も 風 が 吹いた 。
この頃 の 天候 は 不穏である 。
しかし 胸 裏 の 不穏 は こんな もの で は ない 」 道也 先生 は 、 が たつ く 硝子 窓 ( ガラス まど ) を 通して 、 往来 の 方 を 見た 。
折から 一陣 の 風 が 、 会釈 なく 往来 の 砂 を 捲 き 上げて 、 屋 の 棟 に 突き当って 、 虚 空 を 高く 逃れて 行った 。
「 諸君 。
諸君 の どれ ほど に 剛 健 なる か は 、 わたし に は 分 らん 。
諸君 自身 に も 知れ ぬ 。
ただ 天下 後世 が 証拠 だ てる のみ である 。
理想 の 大道 を 行き 尽して 、 途上 に 斃 る る 刹那 に 、 わが 過去 を 一 瞥 の うち に 縮め 得て 始めて 合点 が 行く のである 。
諸君 は 諸君 の 事業 そのもの に 由って 伝えられ ねば なら ぬ 。
単に 諸君 の 名 に 由って 伝えられ ん と する は 軽薄である 」 高柳 君 は 何となく きまり が わるかった 。
道也 の 輝 やく 眼 が 自分 の 方 に 注いで いる ように 思 れる 。
「 理想 は 人 に よって 違う 。
吾々 は 学問 を する 。
学問 を する もの の 理想 は 何 であろう 」 聴衆 は 黙 然 と して 応ずる もの が ない 。
「 学問 を する もの の 理想 は 何で あろう と も ―― 金 で ない 事 だけ は たしかである 」 五六 ヵ 所 に 笑 声 が 起る 。
道也 先生 の 裕福 なら ぬ 事 は その 服装 を 見た もの の 心 から 取り除けられ ぬ 事実 である 。
道也 先生 は 羽織 の ゆき を 左右 の 手 に 引っ張り ながら 、 まず 徐 ろ にわ が 右 の 袖 を 見た 。
次に 眼 を 転じて また 徐 ろ にわ が 左 の 袖 を 見た 。
黒 木綿 の 織 目 の なか に 砂 が いっぱい たまって いる 。
「 随分 きたない 」 と 落ちつき払って 云った 。
笑 声 が 満場 に 起る 。
これ は ひやかし の 笑 声 で は ない 。
道也 先生 は ひやかし の 笑 声 を 好意 の 笑 声 で 揉み 潰した のである 。
「 せんだって 学問 を 専門 に する 人 が 来て 、 私 も 妻 を もろう て 子 が 出来た 。
これ から 金 を 溜 め ねば なら ぬ 。
是非 共子 供 に 立派な 教育 を さ せる だけ は 今 の うち に 貯蓄 して 置か ねば なら ん 。
しかし どう したら 貯蓄 が 出来る でしょう か と 聞いた 。
「 どう したら 学問 で 金 が とれる だろう と 云 う 質問 ほど 馬鹿 気 た 事 は ない 。
学問 は 学者 に なる もの である 。
金 に なる もの で は ない 。
学問 を して 金 を とる 工夫 を 考える の は 北極 へ 行って 虎 狩 を する ような もの である 」 満場 は また ちょっと どよめいた 。
「 一般 の 世 人 は 労力 と 金 の 関係 に ついて 大 なる 誤 謬 を 有して いる 。
彼ら は 相応の 学問 を すれば 相応の 金 が とれる 見込 の ある もの だ と 思う 。
そんな 条 理 は 成立 する 訳 が ない 。
学問 は 金 に 遠ざかる 器械 である 。
金 が ほし ければ 金 を 目的 に する 実業 家 と か 商 買 人 に なる が いい 。
学者 と 町人 と は まるで 別途 の 人間 であって 、 学者 が 金 を 予期 して 学問 を する の は 、 町人 が 学問 を 目的 に し て 丁 稚 に 住み込む ような もの である 」 「 そう か なあ 」 と 突飛な 声 を 出す 奴 が いる 。
聴衆 は どっと 笑った 。
道也 先生 は 平然と して 笑 の しずまる の を 待って いる 。
「 だから 学問 の こと は 学者 に 聞か なければ なら ん 。
金 が 欲しければ 町人 の 所 へ 持って行く より ほか に 致し方 は ない 」 「 金 が 欲しい 」 と まぜかえす 奴 が 出る 。
誰 だ か わから ない 。
道也 先生 は 「 欲しい でしょう 」 と 云った ぎり 進行 する 。
「 学問 すなわち 物 の 理 が わかる と 云 う 事 と 生活 の 自由 すなわち 金 が ある と 云 う 事 と は 独立 して 関係 の ない のみ なら ず 、 かえって 反対 の もの である 。
学者 であれば こそ 金 が ない のである 。
金 を 取る から 学者 に は なれ ない のである 。
学者 は 金 が ない 代り に 物 の 理 が わかる ので 、 町人 は 理 窟 が わから ない から 、 その 代り に 金 を 儲ける 」 何 か 云 うだろう と 思って 道也 先生 は 二十 秒 ほど 絶句 して 待って いる 。
誰 も 何も 云 わ ない 。
「 それ を 心得 ん で 金 の ある 所 に は 理 窟 も ある と 考えて いる の は 愚 の 極 で ある 。
しかも 世間 一般 は そう 誤認 して いる 。
あの 人 は 金持ち で 世間 が 尊敬 して いる から して 理 窟 も わかって いる に 違 ない 、 カルチュアー も ある に きまって いる と ―― こう 考える 。
ところが その実 は カルチュアー を 受ける 暇 が なければ こそ 金 を もうける 時間 が 出来た のである 。
自然 は 公平な もの で 一 人 の 男 に 金 も もうけ させ る 、 同時に カルチュアー も 授ける と 云 う ほど 贔屓 に は せ ん のである 。
この 見やすき 道理 も 弁 ぜ ず して 、 か の 金持ち 共 は 己 惚れて ……」 「 ひや 、 ひや 」「 焼く な 」「 しっ、 しっ」 だいぶ 賑やかに なる 。
「 自分 達 は 社会 の 上流 に 位 して 一般 から 尊敬 されて いる から して 、 世の中 に 自分 ほど 理 窟 に 通じた もの は ない 。
学者 だろう が 、 何 だろう が おれ に 頭 を さげ ねば なら ん と 思う の は 憫然 の しだい で 、 彼ら が こんな 考 を 起す 事 自身 が カルチュアー の ない と 云 う 事実 を 証明 して いる 」 高柳 君 の 眼 は 輝 やいた 。
血 が 双 頬 に 上って くる 。
「 訳 の わから ぬ 彼ら が 己 惚 は とうてい 済 度 すべ から ざる 事 と する も 、 天下 社会 から 、 彼ら の 己 惚 を もっともだ と 是認 する に 至って は 愛想 の 尽きた 不 見識 と 云 わ ねば なら ぬ 。
よく 云 う 事 だ が 、 あの 男 も あの くらい な 社会 上 の 地位 に あって 相応の 財産 も 所有 して いる 事 だ から 万 更 そんな 訳 の わから ない 事 も なかろう 。
豈計 らん や ある 場合 に は 、 そんな 社会 上 の 地位 を 得て 相当 の 財産 を 有して おれば こそ 訳 が わから ない のである 」 高柳 君 は 胸 の 苦し み を 忘れて 、 ひやひや と 手 を 打った 。
隣 の 薩摩 絣 はえ へん と 嘲 弄 的な 咳払 を する 。
「 社会 上 の 地位 は 何で きまる と 云 えば ―― いろいろ ある 。
第 一 カルチュアー で きまる 場合 も ある 。
第 二 門 閥 で きまる 場合 も ある 。
第 三 に は 芸能 で きまる 場合 も ある 。
最後に 金 で きまる 場合 も ある 。
しか して これ は もっとも 多い 。
かよう に いろいろの 標準 が ある の を 混同 して 、 金 で 相場 が きまった 男 を 学問 で 相場 が きまった 男 と 相互 に 通用 し 得る ように 考えて いる 。
ほとんど 盲目 同然である 」 エヘン 、 エヘン と 云 う 声 が 散らばって 五六 ヵ 所 に 起る 。
高柳 君 は 口 を 結んで 、 鼻 から 呼吸 を はずま せて いる 。
「 金 で 相場 の きまった 男 は 金 以外 に 融通 は 利か ぬ はずである 。
金 は ある 意味 に おいて 貴重 かも 知れ ぬ 。
彼ら は この 貴重な もの を 擁して いる から 世 の 尊敬 を 受ける 。
よろしい 。
そこ まで は 誰 も 異存 は ない 。
しかし 金 以外 の 領分 に おいて 彼ら は 幅 を 利かし 得る 人間 で は ない 、 金 以外 の 標準 を もって 社会 上 の 地位 を 得る 人 の 仲間 入 は 出来 ない 。
もし それ が 出来る と 云 えば 学者 も 金持ち の 領分 へ 乗り込んで 金銭 本位 の 区域 内 で 威張って も 好 い 訳 に なる 。
彼ら は そう は させ ぬ 。
しかし 自分 だけ は 自分 の 領分 内 に おとなしく して いる 事 を 忘れて 他の 領分 まで のさばり 出よう と する 。
それ が 物 の わから ない 、 好 い 証拠 である 」 高柳 君 は 腰 を 半分 浮かして 拍手 を した 。
人間 は 真似 が 好 である 。
高柳 君 に 誘い出されて 、 ぱち ぱち の 声 が 四方 に 起る 。
冷笑 党 は 勢 の 不可 なる を 知って 黙した 。
「 金 は 労力 の 報酬 である 。
だから 労力 を 余計に すれば 金 は 余計に とれる 。
ここ まで は 世間 も 公平である 。
これ すら も 不公平な 事 が ある 。
相場 師 など は 労力 なし に 金 を 攫んで いる ) しかし 一 歩 進めて 考えて 見る が 好 い 。
高等な 労力 に 高等な 報酬 が 伴う であろう か ―― 諸君 どう 思います ―― 返事 が なければ 説明 しなければ なら ん 。
報酬 なる もの は 眼前 の 利害 に もっとも 影響 の 多い 事情 だけ で きめられる のである 。
だから 今 の 世 でも 教師 の 報酬 は 小 商人 の 報酬 より も 少ない のである 。
眼前 以上 の 遠い 所 高い 所 に 労力 を 費やす もの は 、 いかに 将来 の ため に なろう と も 、 国家 の ため に なろう と も 、 人類 の ため に なろう と も 報酬 は いよいよ 減 ずる のである 。
だに よって 労力 の 高 下 で は 報酬 の 多寡 は きまら ない 。
金銭 の 分配 は 支配 されて おら ん 。
したがって 金 の ある もの が 高尚な 労力 を した と は 限ら ない 。
換言 すれば 金 が ある から 人間 が 高尚だ と は 云 え ない 。
金 を 目安 に して 人物 の 価値 を きめる 訳 に は 行か ない 」 滔々と して 述べて 来た 道也 は ちょっと ここ で 切って 、 満場 の 形勢 を 観 望 した 。
活版 に 押した 演説 は 生命 が ない 。
道也 は 相手 しだい で 、 どう と も 変わる つもりである 。
満場 は 思った より 静かである 。
「 それ を 金 が ある から と 云 うて むやみに えら がる の は 間違って いる 。
学者 と 喧嘩 する 資格 が ある と 思って る の も 間違って いる 。
気品 の ある 人々 に 頭 を 下げ させる つもりで いる の も 間違って いる 。
―― 少し は 考えて も 見る が いい 。
いくら 金 が あって も 病気 の 時 は 医者 に 降参 しなければ なる まい 。
金貨 を 煎じて 飲む 訳 に は 行か ない ……」 あまり 熱心な 滑稽な ので 、 思わず 噴き出した もの が 三四 人 ある 。
道也 先生 は 気 が ついた 。
「 そう でしょう ―― 金貨 を 煎じたって 下痢 は とまら ない でしょう 。
―― だ から 御 医者 に 頭 を 下げる 。
その代り 御 医者 は ―― 金 に 頭 を 下げる 」 道也 先生 は に やに や と 笑った 。
聴衆 も おとなしく 笑う 。
「 それ で 好 い のです 。
金 に 頭 を 下げて 結構です ―― しかし 金持 は いけない 。
医者 に 頭 を 下げる 事 を 知って ながら 、 趣味 と か 、 嗜好 と か 、 気品 と か 人品 と か 云 う 事 に 関して 、 学問 の ある 、 高尚な 理 窟 の わかった 人 に 頭 を 下げる こと を 知ら ん 。
のみ なら ず かえって 金 の 力 で 、 それ ら の 頭 を さげ させよう と する 。
―― 盲目 蛇 に 怖 じ ず と は よく 云った もの です ねえ 」 と 急に 会話 調 に なった の は 曲折 が あった 。
「 学問 の ある 人 、 訳 の わかった 人 は 金持 が 金 の 力 で 世間 に 利益 を 与 うる と 同様の 意味 に おいて 、 学問 を もって 、 わけ の 分った ところ を もって 社会 に 幸福 を 与える のである 。
だから して 立場 こそ 違え 、 彼ら は とうてい 冒し 得 べ から ざる 地位 に 確たる 尻 を 据えて いる のである 。
「 学者 が もし 金銭 問題 に かかれば 、 自己 の 本領 を 棄 て て 他 の 縄張 内 に 這 入る のだ から 、 金持ち に 頭 を 下げる が 順当であろう 。
同時に 金 以上 の 趣味 と か 文学 と か 人生 と か 社会 と か 云 う 問題 に 関して は 金持ち の 方 が 学者 に 恐れ入って 来 なければ なら ん 。
今 、 学者 と 金持 の 間 に 葛藤 が 起る と する 。
単に 金銭 問題 ならば 学者 は 初手 から 無能力である 。
しかし それ が 人生 問題 であり 、 道徳 問題 であり 、 社会 問題 である 以上 は 彼ら 金持 は 最初 から 口 を 開く 権能 の ない もの と 覚悟 を して 絶対 的に 学者 の 前 に 服従 しなければ なら ん 。
岩崎 は 別荘 を 立て 連 ら ねる 事 に おいて 天下 の 学者 を 圧倒 して いる かも 知れ ん が 、 社会 、 人生 の 問題 に 関して は 小児 と 一般 である 。
十万 坪 の 別荘 を 市 の 東西 南北 に 建てた から 天下 の 学者 を 凹ま した と 思う の は 凌 雲 閣 を 作った から 仙人 が 恐れ入ったろう と 考える ような もの だ ……」 聴衆 は 道也 の 勢 と 最後 の 一 句 の 奇 警 な のに 気 を 奪われて 黙って いる 。
独り 高柳 君 が たまらなかった と 見えて 大きな 声 を 出して 喝采 した 。
「 商人 が 金 を 儲ける ため に 金 を 使う の は 専門 上 の 事 で 誰 も 容喙 が 出来 ぬ 。
しかし 商 買 上 に 使わ ないで 人事 上 に その 力 を 利用 する とき は 、 訳 の わかった 人 に 聞か ねば なら ぬ 。
そう しなければ 社会 の 悪 を 自ら 醸造 して 平気で いる 事 が ある 。
今 の 金持 の 金 の ある 一部分 は 常に この 目的 に 向って 使用 されて いる 。
それ と 云 うの も 彼ら 自身 が 金 の 主である だけ で 、 他の 徳 、 芸 の 主で ない から である 。
学者 を 尊敬 する 事 を 知ら ん から である 。
いくら 教えて も 人 の 云 う 事 が 理解 出来 ん から である 。
災 は 必ず 己 れ に 帰る 。
彼ら は 是非 共学 者 文学 者 の 云 う 事 に 耳 を 傾け ねば なら ぬ 時期 が くる 。
耳 を 傾け ねば 社会 上 の 地位 が 保て ぬ 時期 が くる 」 聴衆 は 一度に どっと 鬨 を 揚げた 。
高柳 君 は 肺病 に も かかわら ず もっとも 大 なる 鬨 を 揚げた 。
生れて から 始めて こんな 痛快な 感じ を 得た 。
襟巻 に 半分 顔 を 包んで から 風 の なか を ここ まで 来た 甲斐 は ある と 思う 。
道也 先生 は 予言 者 の ごとく 凛と して 壇上 に 立って いる 。
吹き まくる 木 枯 は 屋 を 撼 かして 去る 。
「十一 」 野 分 夏目 漱石
じゅういち|の|ぶん|なつめ|そうせき
Nobe Natsume Soseki
Once". Nobe Natsume Soseki
Eleven" Nobe, Natsume Soseki.
《十一》野分夏目漱石
十一
じゅういち
今日 も また 風 が 吹く 。
きょう|||かぜ||ふく
汁 気 の ある もの を ことごとく 乾 鮭 に する つもりで 吹く 。
しる|き||||||いぬい|さけ||||ふく
「 御 兄さん の 所 から 御 使 です 」 と 細 君 が 封書 を 出す 。
ご|にいさん||しょ||ご|つか|||ほそ|きみ||ふうしょ||だす
道也 は 坐った まま 、 体 を そらして 受け取った 。
みちや||すわった||からだ|||うけとった
「 待って る かい 」 「 ええ 」 道也 は 封 を 切って 手紙 を 読み 下す 。
まって||||みちや||ふう||きって|てがみ||よみ|くだす
やがて 、 終り から 巻き返して 、 再び 状 袋 の なか へ 収めた 。
|おわり||まきかえして|ふたたび|じょう|ふくろ||||おさめた
|||rolled back|||||||
何にも 云 わ ない 。
なんにも|うん||
「 何 か 急用 で でも ご ざん す か 」 道也 は 「 うん 」 と 云 いながら 、 墨 を 磨って 、 何 か さらさら と 返事 を 認めて いる 。
なん||きゅうよう|||||||みちや||||うん||すみ||みがく って|なん||||へんじ||みとめて|
|||||||||||||||||grinding ink||||||||
「 何の 御用 です か 」 「 ええ ?
なんの|ごよう|||
ちょっと 待った 。
|まった
書いて しまう から 」 返事 は わずか 五六 行 である 。
かいて|||へんじ|||ごろく|ぎょう|
宛名 を かいて 、「 これ を 」 と 出す 。
あてな||||||だす
細 君 は 下 女 を 呼んで 渡して やる 。
ほそ|きみ||した|おんな||よんで|わたして|
自分 は 動か ない 。
じぶん||うごか|
「 何の 御用 な んです か 」 「 何の 用 か わから ない 。
なんの|ごよう||||なんの|よう|||
ただ 、 用 が ある から 、 すぐ 来て くれ と かいて ある 」 「 いらっしゃる でしょう 」 「 おれ は 行か れ ない 。
|よう|||||きて|||||||||いか||
なんなら お前 行って 見てくれ 」 「 私 が ?
|おまえ|おこなって|みてくれ|わたくし|
私 は 駄目です わ 」 「 なぜ 」 「 だって 女 です もの 」 「 女 でも 行か ない より いい だろう 」 「 だって 。
わたくし||だめです||||おんな|||おんな||いか|||||
あなた に 来い と 書いて ある んでしょう 」 「 おれ は 行か れ ない もの 」 「 どうして ?
||こい||かいて|||||いか||||
」 「 これ から 出掛け なくっちゃ なら ん 」 「 雑誌 の 方 なら 、 一 日 ぐらい 御 休み に なって も いい でしょう 」 「 編 輯 なら いい が 、 今日 は 演説 を やら なくっちゃ なら ん 」 「 演説 を ?
||でがけ||||ざっし||かた||ひと|ひ||ご|やすみ||||||へん|しゅう||||きょう||えんぜつ||||||えんぜつ|
あなた が です か ?
」 「 そう よ 、 おれ が やる の さ 。
そんなに 驚 ろく 事 は なかろう 」 「 こんなに 風 が 吹く のに 、 よし に なされば いい のに 」 「 ハハハハ 風 が 吹いて やめる ような 演説 なら 始め から やりゃ し ない 」 「 ですけれども 滅多な 事 は なさら ない 方 が よ ご ざん す よ 」 「 滅多な 事 と は 。
|おどろ||こと||||かぜ||ふく||||||||かぜ||ふいて|||えんぜつ||はじめ||||||めったな|こと||||かた|||||||めったな|こと||
何 が さ 」 「 いいえ ね 。
なん||||
あんまり 演説 なんか なさら ない 方 が 、 あなた の 得だ と 云 うん です 」 「 な に 得な 事 が ある もの か 」 「 あと が 困る かも 知れ ない と 申す のです 」 「 妙な 事 を 云 うね 御前 は 。
|えんぜつ||||かた||||とくだ||うん|||||とくな|こと|||||||こまる||しれ|||もうす||みょうな|こと||うん||おまえ|
―― 演説 を しちゃ いけない と 誰 か 云った の か ね 」 「 誰 が そんな 事 を 云 う もの です か 。
えんぜつ|||||だれ||うん った||||だれ|||こと||うん||||
―― 云 いやしま せ ん が 、 御 兄さん から こう やって 、 急用 だって 、 御 使 が 来て いる んです から 行って 上げ なくって は 義理 が わるい じゃ ありません か 」 「 それ じゃ 演説 を やめ なくっちゃ なら ない 」 「 急に 差 支 が 出来たって 断わったら いい でしょう 」 「 今さら そんな 不 義理 が 出来る もの か 」 「 では 御 兄さん の 方 へ は 不 義理 を な すって も 、 いい と おっしゃる んです か 」 「 いい と は 云 わ ない 。
うん|||||ご|にいさん||||きゅうよう||ご|つか||きて||||おこなって|あげ|なく って||ぎり||||あり ませ ん||||えんぜつ||||||きゅうに|さ|し||できた って|ことわったら|||いまさら||ふ|ぎり||できる||||ご|にいさん||かた|||ふ|ぎり|||||||||||||うん||
|well|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
しかし 演説 会 の 方 は 前 から の 約束 で ―― それ に 今日 の 演説 は ただ の 演説 で は ない 。
|えんぜつ|かい||かた||ぜん|||やくそく||||きょう||えんぜつ||||えんぜつ|||
人 を 救う ため の 演説 だ よ 」 「 人 を 救うって 、 誰 を 救う のです 」 「 社 の もの で 、 この 間 の 電車 事件 を 煽 動 した と 云 う 嫌疑 で 引っ張ら れた もの が ある 。
じん||すくう|||えんぜつ|||じん||すくう って|だれ||すくう||しゃ|||||あいだ||でんしゃ|じけん||あお|どう|||うん||けんぎ||ひっぱら||||
||||||||||to save|||||||||||||||||||||||||||
―― ところが その 家族 が 非常な 惨状 に 陥って 見る に 忍びない から 、 演説 会 を して その 収入 を そちら へ 廻して やる 計画 な んだ よ 」 「 そんな 人 の 家族 を 救う の は 結構な 事 に 相違 ない でしょう が 、 社会 主義 だ なんて 間違えられる と あと が 困ります から ……」 「 間違えたって 構わ ない さ 。
||かぞく||ひじょうな|さんじょう||おちいって|みる||しのびない||えんぜつ|かい||||しゅうにゅう||||まわして||けいかく|||||じん||かぞく||すくう|||けっこうな|こと||そうい||||しゃかい|しゅぎ|||まちがえ られる||||こまり ます||まちがえた って|かまわ||
|||||tragic situation||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国家 主義 も 社会 主義 も ある もの か 、 ただ 正しい 道 が いい の さ 」 「 だって 、 もし あなた が 、 その 人 の ように なった と して 御覧 なさい 。
こっか|しゅぎ||しゃかい|しゅぎ||||||ただしい|どう||||||||||じん||||||ごらん|
私 は やっぱり 、 その 人 の 奥さん 同様な 、 ひどい 目 に 逢わ なけりゃ なら ない でしょう 。
わたくし||||じん||おくさん|どうような||め||あわ||||
人 を 御 救い なさる の も 結構です が 、 ちっと は 私 の 事 も 考えて 、 やって 下さら なくっちゃ 、 あんまりです わ 」 道也 先生 は しばらく 沈 吟 して いた が 、 やがて 、 机 の 前 を 立ち ながら 「 そんな 事 は ない よ 。
じん||ご|すくい||||けっこうです||ち っと||わたくし||こと||かんがえて||くださら||||みちや|せんせい|||しず|ぎん|||||つくえ||ぜん||たち|||こと|||
|||||||||||||||||||not fair|||||||pondering|||||||||||||||
そんな 馬鹿な 事 は ない よ 。
|ばかな|こと|||
徳川 政府 の 時代 じゃ ある ま いし 」 と 云った 。
とくがわ|せいふ||じだい||||||うん った
例の 袴 を 突っかける と 支度 は 一 分 たた ぬ うち に 出来上った 。
れいの|はかま||つっかける||したく||ひと|ぶん|||||できあがった
|hakama||put on||||||||||
玄関 へ 出る 。
げんかん||でる
外 は いまだに 強く 吹いて いる 。
がい|||つよく|ふいて|
道也 先生 の 姿 は 風 の 中 に 消えた 。
みちや|せんせい||すがた||かぜ||なか||きえた
清 輝 館 の 演説 会 は この 風 の 中 に 開か れる 。
きよし|あきら|かん||えんぜつ|かい|||かぜ||なか||あか|
講演 者 は 四 名 、 聴衆 は 三百 名 足らず である 。
こうえん|もの||よっ|な|ちょうしゅう||さんびゃく|な|たら ず|
lecture||||||||||
書生 が 多い 。
しょせい||おおい
その 中 に 文学 士 高柳 周作 が いる 。
|なか||ぶんがく|し|たかやなぎ|しゅうさく||
彼 は この 風 の 中 を 襟巻 に 顔 を 包んで 咳 を し ながら やって 来た 。
かれ|||かぜ||なか||えりまき||かお||つつんで|せき|||||きた
|||||||scarf||||||||||
十 銭 の 入場 料 を 払って 、 二 階 に 上った 時 は 、 広い 会場 は まばらに 席 を あまして むしろ 寂 寞 の 感 が あった 。
じゅう|せん||にゅうじょう|りょう||はらって|ふた|かい||のぼった|じ||ひろい|かいじょう|||せき||||じゃく|ばく||かん||
||||||||||||||||sparsely|||vacant|||||||
彼 は 南側 の なるべく 暖か そうな 所 に 席 を とった 。
かれ||みなみがわ|||あたたか|そう な|しょ||せき||
演説 は すでに 始まって いる 。
えんぜつ|||はじまって|
「…… 文士 保護 は 独立 し がたき 文士 の 言う 事 である 。
ぶんし|ほご||どくりつ|||ぶんし||いう|こと|
保護 と は 貴族 的 時代 に 云 う べき 言葉 で 、 個人 平等 の 世に これ を 云々 する の は 恥 辱 の 極 である 。
ほご|||きぞく|てき|じだい||うん|||ことば||こじん|びょうどう||よに|||うんぬん||||はじ|じょく||ごく|
退いて 保護 を 受 くる より 進んで 自己 に 適当なる 租税 を 天下 から 払わ しむ べきである 」 と 云った と 思ったら 、 引き込んだ 。
しりぞいて|ほご||じゅ|||すすんで|じこ||てきとうなる|そぜい||てんか||はらわ||||うん った||おもったら|ひきこんだ
withdrew|||||||||appropriate||||||||||||pulled back
聴衆 は 喝采 する 。
ちょうしゅう||かっさい|
||applause|
隣り に 薩摩 絣 の 羽織 を 着た 書生 が いて 話して いる 。
となり||さつま|かすり||はおり||きた|しょせい|||はなして|
||Satsuma||||||||||
「 今 の が 、 黒田 東陽 か 」 「 うん 」 「 妙な 顔 だ な 。
いま|||くろた|とうよう|||みょうな|かお||
||||Toyo Kuroda||||||
もっと 話せる 顔 か と 思った 」 「 保護 を 受けたら 、 もう 少し 顔 らしく なる だろう 」 高柳 君 は 二 人 を 見た 。
|はなせる|かお|||おもった|ほご||うけたら||すこし|かお||||たかやなぎ|きみ||ふた|じん||みた
二 人 も 高柳 君 を 見た 。
ふた|じん||たかやなぎ|きみ||みた
「 おい 」 「 何 だ 」 「 いやに 睨め る じゃ ねえ か 」 「 おっか ねえ 」 「 こんだ 誰 の 番 だ 。
|なん|||にらめ|||||お っか|||だれ||ばん|
―― 見ろ 見ろ 出て 来た 」 「 いやに 、 ひ ょろ 長い な 。
みろ|みろ|でて|きた||||ながい|
この 風 に どうして 出て 来たろう 」 ひ ょろ ながい 道也 先生 は 綿 服 の まま 壇上 に あらわれた 。
|かぜ|||でて|きたろう||||みちや|せんせい||めん|ふく|||だんじょう||
かれ は この 風 の 中 を 金 釘 の ごとく 直立 して 来た のである 。
|||かぜ||なか||きむ|くぎ|||ちょくりつ||きた|
から風 に 吹き 曝さ れ たる 彼 は 、 からからの 古 瓢箪 の ごとく に 見える 。
からかぜ||ふき|さらさ|||かれ|||ふる|ひょうたん||||みえる
dry wind||||||||dry||||||
聴衆 は 一度に 手 を たたく 。
ちょうしゅう||いちどに|て||
audience|||||
手 を たたく の は 必ずしも 喝采 の 意 と 解す べ から ざる 場合 が ある 。
て|||||かならずしも|かっさい||い||かいす||||ばあい||
||||||||||to interpret||||||
独り 高柳 君 のみ は 粛然 と して 襟 を 正した 。
ひとり|たかやなぎ|きみ|||しゅくぜん|||えり||ただした
|||||solemnly|||||
「 自己 は 過去 と 未来 の 連鎖 である 」 道也 先生 の 冒頭 は 突如と して 来た 。
じこ||かこ||みらい||れんさ||みちや|せんせい||ぼうとう||とつじょと||きた
聴衆 は ちょっと 不意 撃 を 食った 。
ちょうしゅう|||ふい|う||くった
|||suddenly|||
こんな 演説 の 始め 方 は ない 。
|えんぜつ||はじめ|かた||
「 過去 を 未来 に 送り込む もの を 旧派 と 云 い 、 未来 を 過去 より 救う もの を 新派 と 云 う のであります 」 聴衆 は いよいよ 惑った 。
かこ||みらい||おくりこむ|||きゅうは||うん||みらい||かこ||すくう|||しんぱ||うん||のであり ます|ちょうしゅう|||まどった
|||||||old school|||||||||||new school||||||||perplexed
三百 の 聴衆 の うち に は 、 道也 先生 を ひやかす 目的 を もって 入場 して いる もの が ある 。
さんびゃく||ちょうしゅう|||||みちや|せんせい|||もくてき|||にゅうじょう|||||
three hundred|||||||||||||||||||
彼ら に 一 寸 の 隙 でも 与えれば 道也 先生 は 壇上 に 嘲 殺さ れ ねば なら ぬ 。
かれら||ひと|すん||すき||あたえれば|みちや|せんせい||だんじょう||あざけ|ころさ||||
角 力 は 呼吸 である 。
かど|ちから||こきゅう|
呼吸 を 計ら ん で ひやかせば かえって 自分 が 放り出さ れる ばかりである 。
こきゅう||はから|||||じぶん||ほうりださ||
||measure|||if teased||||||
彼ら は 蛇 の ごとく 鎌 首 を 持ち上げて 待構えて いる 。
かれら||へび|||かま|くび||もちあげて|まちかまえて|
|||||||||waiting poised|
道也 先生 の 眼中 に は 道 の 一 字 が ある 。
みちや|せんせい||がんちゅう|||どう||ひと|あざ||
「 自己 の うち に 過去 なし と 云 う もの は 、 われ に 父母 なし と 云 う が ごとく 、 自己 の うち に 未来 なし と 云 う もの は 、 われ に 子 を 生む 能力 なし と いう と 一般 である 。
じこ||||かこ|||うん||||||ふぼ|||うん||||じこ||||みらい|||うん||||||こ||うむ|のうりょく|||||いっぱん|
わが 立脚 地 は ここ に おいて 明瞭である 。
|りっきゃく|ち|||||めいりょうである
|||||||clear
われ は 父母 の ため に 存在 する か 、 われ は 子 の ため に 存在 する か 、 あるいは われ そのもの を 樹立 せ ん が ため に 存在 する か 、 吾人 生存 の 意義 は この 三 者 の 一 を 離 る る 事 が 出来 ん のである 」 聴衆 は 依然と して 、 だまって いる 。
||ふぼ||||そんざい|||||こ||||そんざい|||||その もの||じゅりつ||||||そんざい|||ごじん|せいぞん||いぎ|||みっ|もの||ひと||はな|||こと||でき|||ちょうしゅう||いぜん と|||
あるいは 煙 に 捲 かれた の かも 知れ ない 。
|けむり||まく||||しれ|
高柳 君 は なるほど と 聴いて いる 。
たかやなぎ|きみ||||きいて|
「 文芸 復興 は 大 なる 意味 に おいて 父母 の ため に 存在 し たる 大 時期 である 。
ぶんげい|ふっこう||だい||いみ|||ふぼ||||そんざい|||だい|じき|
十八 世紀 末 の ゴシック 復活 も また 大 なる 意味 に おいて 父母 の ため に 存在 し たる 小 時期 である 。
じゅうはち|せいき|すえ||ごしっく|ふっかつ|||だい||いみ|||ふぼ||||そんざい|||しょう|じき|
同時に スコット 一派 の 浪漫 派 を 生ま ん が ため に 存在 した 時期 である 。
どうじに|すこっと|いっぱ||ろうまん|は||うま|||||そんざい||じき|
すなわち 子孫 の ため に 存在 し たる 時期 である 。
|しそん||||そんざい|||じき|
自己 を 樹立 せ ん が ため に 存在 し たる 時期 の 好例 は エリザベス 朝 の 文学 である 。
じこ||じゅりつ||||||そんざい|||じき||こうれい|||あさ||ぶんがく|
個人 に ついて 云 えば イブセン である 。
こじん|||うん|||
|||||Ibsen|
メレジス である 。
Meresis|
ニイチェ である 。
ブラウニング である 。
耶蘇 教徒 ( ヤソ きょうと ) は 基督 ( キリスト ) の ため に 存在 して いる 。
やそ|きょうと||きょう と||きりすと|きりすと||||そんざい||
Jesus|||Christian||Christ|||||||
基督 は 古 え の 人 である 。
きりすと||ふる|||じん|
だから 耶蘇 教徒 は 父 の ため に 存在 して いる 。
|やそ|きょうと||ちち||||そんざい||
儒者 は 孔子 の ため に 生きて いる 。
じゅしゃ||こうし||||いきて|
Confucian scholar|||||||
孔子 も 昔 え の 人 である 。
こうし||むかし|||じん|
Confucius||||||
だから 儒者 は 父 の ため に 生きて いる 。
|じゅしゃ||ちち||||いきて|
……」 「 もう わかった 」 と 叫ぶ もの が ある 。
|||さけぶ|||
「 なかなか わかりません 」 と 道也 先生 が 云 う 。
|わかり ませ ん||みちや|せんせい||うん|
聴衆 は どっと 笑った 。
ちょうしゅう|||わらった
「 袷 は 単 衣 の ため に 存在 する です か 、 綿 入 の ため に 存在 する です か 。
あわせ||ひとえ|ころも||||そんざい||||めん|はい||||そんざい|||
または 袷 自身 の ため に 存在 する です か 」 と 云って 、 一応 聴衆 を 見 廻した 。
|あわせ|じしん||||そんざい|||||うん って|いちおう|ちょうしゅう||み|まわした
笑う に は あまり 、 奇 警 である 。
わらう||||き|けい|
慎 しむ に は あまり 飄 きん である 。
まこと|||||ひょう||
|||||drift||
聴衆 は 迷う た 。
ちょうしゅう||まよう|
「 六 ず か しい 問題 じゃ 、 わたし に も わから ん 」 と 済ました 顔 で 云って しまう 。
むっ||||もんだい||||||||すました|かお||うん って|
||||||||||||finished||||
聴衆 は また 笑った 。
ちょうしゅう|||わらった
「 それ は わから ん でも 差 支 ない 。
|||||さ|し|
しかし 吾々 は 何の ため に 存在 して いる か ?
|われ々||なんの|||そんざい|||
これ は 知ら なくて は なら ん 。
||しら||||
明治 は 四十 年 立った 。
めいじ||しじゅう|とし|たった
四十 年 は 短 かく は ない 。
しじゅう|とし||みじか|||
明治 の 事業 は これ で 一 段落 を 告げた ……」 「 ノー 、 ノー 」 と 云 う もの が ある 。
めいじ||じぎょう||||ひと|だんらく||つげた|のー|のー||うん||||
「 どこ か で ノー 、 ノー と 云 う 声 が する 。
|||のー|のー||うん||こえ||
わたし は その 人 に 賛成 である 。
|||じん||さんせい|
そう 云 う 人 が ある だろう と 思う て 待って いた のである 」 聴衆 は また 笑った 。
|うん||じん|||||おもう||まって|||ちょうしゅう|||わらった
「 いや 本当に 待って いた のである 」 聴衆 は 三 たび 鬨 を 揚げた 。
|ほんとうに|まって|||ちょうしゅう||みっ||こう||あげた
|||||||||cheer||
「 私 は 四十 年 の 歳月 を 短 かく は ない と 申した 。
わたくし||しじゅう|とし||さいげつ||みじか|||||もうした
なるほど 住んで 見れば 長い 。
|すんで|みれば|ながい
しかし 明治 以外 の 人 から 見たら やはり 長い だろう か 。
|めいじ|いがい||じん||みたら||ながい||
望遠 鏡 の 眼鏡 は 一 寸 の 直径 である 。
ぼうえん|きよう||めがね||ひと|すん||ちょっけい|
しかし 愛宕 山 から 見る と 品川 の 沖 が この 一 寸 の なか に 這 入って しまう 。
|あたご|やま||みる||しなかわ||おき|||ひと|すん||||は|はいって|
明治 の 四十 年 を 長い と 云 う もの は 明治 の なか に 齷齪 して いる もの の 云 う 事 である 。
めいじ||しじゅう|とし||ながい||うん||||めいじ||||あくさく|||||うん||こと|
|||||||||||||||squabbling||||||||
後世 から 見れば ずっと 縮まって しまう 。
こうせい||みれば||ちぢまって|
ずっと 遠く から 見る と 一 弾 指 の 間 に 過ぎ ん 。
|とおく||みる||ひと|たま|ゆび||あいだ||すぎ|
―― 一 弾 指 の 間 に 何 が 出来る 」 と 道也 は テーブル の 上 を とんと 敲いた 。
ひと|たま|ゆび||あいだ||なん||できる||みちや||てーぶる||うえ|||たたいた
|||||||||||||||||tapped
聴衆 は ちょっと 驚 ろ いた 。
ちょうしゅう|||おどろ||
「 政治 家 は 一大事 業 を した つもりで いる 。
せいじ|いえ||いちだいじ|ぎょう||||
学者 も 一大事 業 を した つもりで いる 。
がくしゃ||いちだいじ|ぎょう||||
実業 家 も 軍人 も みんな 一大事 業 を した つもりで いる 。
じつぎょう|いえ||ぐんじん|||いちだいじ|ぎょう||||
した つもりで いる が それ は 自分 の つもりである 。
||||||じぶん||
明治 四十 年 の 天地 に 首 を 突き 込んで いる から 、 した つもり に なる のである 。
めいじ|しじゅう|とし||てんち||くび||つき|こんで|||||||
―― 一 弾 指 の 間 に 何 が 出来る 」 今度 は 誰 も 笑わ なかった 。
ひと|たま|ゆび||あいだ||なん||できる|こんど||だれ||わらわ|
「 世の中 の 人 は 云 うて いる 。
よのなか||じん||うん||
明治 も 四十 年 に なる 、 まだ 沙 翁 が 出 ない 、 まだ ゲーテ が 出 ない 。
めいじ||しじゅう|とし||||いさご|おきな||だ|||||だ|
四十 年 を 長い と 思えば こそ 、 そんな 愚痴 が 出る 。
しじゅう|とし||ながい||おもえば|||ぐち||でる
一 弾 指 の 間 に 何 が 出る 」 「 もうでる ぞ 」 と 叫んだ もの が ある 。
ひと|たま|ゆび||あいだ||なん||でる||||さけんだ|||
|||||||||will come out||||||
「 もうでる かも 知れ ん 。
||しれ|
しかし 今 まで に 出て おら ん 事 は 確かである 。
|いま|||でて|||こと||たしかである
―― 一言 に して 云 えば 」 と 句 を 切った 。
いちげん|||うん|||く||きった
満場 は しんと して いる 。
まんじょう||||
「 明治 四十 年 の 日月 は 、 明治 開化 の 初期 である 。
めいじ|しじゅう|とし||じつげつ||めいじ|かいか||しょき|
さらに 語 を 換えて これ を 説明 すれば 今日 の 吾人 は 過去 を 有 た ぬ 開化 の うち に 生息 して いる 。
|ご||かえて|||せつめい||きょう||ごじん||かこ||ゆう|||かいか||||せいそく||
したがって 吾人 は 過去 を 伝う べき ため に 生れた ので は ない 。
|ごじん||かこ||つたう||||うまれた|||
―― 時 は 昼夜 を 舎 て ず 流れる 。
じ||ちゅうや||しゃ|||ながれる
過去 の ない 時代 は ない 。
かこ|||じだい||
―― 諸君 誤解 して は なりません 。
しょくん|ごかい|||なり ませ ん
吾人 は 無論 過去 を 有して いる 。
ごじん||むろん|かこ||ゆうして|
しかし その 過去 は 老 耄 した 過去 か 、 幼稚な 過去 である 。
||かこ||ろう|もう||かこ||ようちな|かこ|
|||||old age||||||
則 とる に 足る べき 過去 は 何にも ない 。
そく|||たる||かこ||なんにも|
明治 の 四十 年 は 先例 の ない 四十 年 である 」 聴衆 の うち に そう か なあ と 云 う 顔 を して いる 者 が ある 。
めいじ||しじゅう|とし||せんれい|||しじゅう|とし||ちょうしゅう||||||||うん||かお||||もの||
「 先例 の ない 社会 に 生れた もの ほど 自由な もの は ない 。
せんれい|||しゃかい||うまれた|||じゆうな|||
余 は 諸君 が この 先例 の ない 社会 に 生れた の を 深く 賀 する もの である 」 「 ひや 、 ひや 」 と 云 う 声 が 所々 に 起る 。
よ||しょくん|||せんれい|||しゃかい||うまれた|||ふかく|が|||||||うん||こえ||ところどころ||おこる
「 そう 早合点 に 賛成 されて は 困る 。
|はやがてん||さんせい|さ れて||こまる
先例 の ない 社会 に 生れた もの は 、 自から 先例 を 作ら ねば なら ぬ 。
せんれい|||しゃかい||うまれた|||おのずから|せんれい||つくら|||
束縛 の ない 自由 を 享 ける もの は 、 すでに 自由 の ため に 束縛 されて いる 。
そくばく|||じゆう||あきら|||||じゆう||||そくばく|さ れて|
この 自由 を いかに 使いこなす か は 諸君 の 権利 である と 同時に 大 なる 責任 である 。
|じゆう|||つかいこなす|||しょくん||けんり|||どうじに|だい||せきにん|
諸君 。
しょくん
偉大なる 理想 を 有せ ざる 人 の 自由 は 堕落 で あります 」 言い切った 道也 先生 は 、 両手 を 机 の 上 に 置いて 満場 を 見 廻した 。
いだいなる|りそう||ゆうせ||じん||じゆう||だらく||あり ます|いいきった|みちや|せんせい||りょうて||つくえ||うえ||おいて|まんじょう||み|まわした
|||possess|||||||||||||||||||||||
雷 が 落ちた ような 気合 である 。
かみなり||おちた||きあい|
「 個人 に ついて 論じて も わかる 。
こじん|||ろんじて||
過去 を 顧みる 人 は 半 白 の 老人 である 。
かこ||かえりみる|じん||はん|しろ||ろうじん|
少 壮 の 人 に 顧みる べき 過去 は ない はずである 。
しょう|そう||じん||かえりみる||かこ|||
前途 に 大 なる 希望 を 抱く もの は 過去 を 顧みて 恋 々 たる 必要 が ない のである 。
ぜんと||だい||きぼう||いだく|||かこ||かえりみて|こい|||ひつよう|||
―― 吾人 が 今日 生きて いる 時代 は 少 壮 の 時代 である 。
ごじん||きょう|いきて||じだい||しょう|そう||じだい|
過去 を 顧みる ほど に 老い 込んだ 時代 で は ない 。
かこ||かえりみる|||おい|こんだ|じだい|||
政治 に 伊藤 侯 や 山県 侯 を 顧みる 時代 で は ない 。
せいじ||いとう|こう||やまがた|こう||かえりみる|じだい|||
|||||Yamagata|||||||
実業 に 渋沢 男 や 岩崎 男 を 顧みる 時代 で は ない 。
じつぎょう||しぶさわ|おとこ||いわさき|おとこ||かえりみる|じだい|||
……」 「 大気 」 と 評した の は 高柳 君 の 隣り に いた 薩摩 絣 である 。
たいき||ひょうした|||たかやなぎ|きみ||となり|||さつま|かすり|
高柳 君 は むっと した 。
たかやなぎ|きみ|||
「 文学 に 紅葉 氏 一 葉 氏 を 顧みる 時代 で は ない 。
ぶんがく||こうよう|うじ|ひと|は|うじ||かえりみる|じだい|||
これら の 人々 は 諸君 の 先例 に なる が ため に 生きた ので は ない 。
これ ら||ひとびと||しょくん||せんれい||||||いきた|||
諸君 を 生む ため に 生きた のである 。
しょくん||うむ|||いきた|
最 前 の 言葉 を 用いれば これら の 人々 は 未来 の ため に 生きた のである 。
さい|ぜん||ことば||もちいれば|これ ら||ひとびと||みらい||||いきた|
子 の ため に 存在 した のである 。
こ||||そんざい||
しか して 諸君 は 自己 の ため に 存在 する のである 。
||しょくん||じこ||||そんざい||
―― およそ 一 時代 に あって 初期 の 人 は 子 の ため に 生きる 覚悟 を せ ねば なら ぬ 。
|ひと|じだい|||しょき||じん||こ||||いきる|かくご|||||
中期 の 人 は 自己 の ため に 生きる 決心 が 出来 ねば なら ぬ 。
ちゅうき||じん||じこ||||いきる|けっしん||でき|||
後期 の 人 は 父 の ため に 生きる あきらめ を つけ なければ なら ぬ 。
こうき||じん||ちち||||いきる||||||
明治 は 四十 年 立った 。
めいじ||しじゅう|とし|たった
まず 初期 と 見て 差 支 なかろう 。
|しょき||みて|さ|し|
すると 現代 の 青年 たる 諸君 は 大 に 自己 を 発展 して 中期 を かたちづくら ねば なら ぬ 。
|げんだい||せいねん||しょくん||だい||じこ||はってん||ちゅうき|||||
|||||||||||||||must shape|||
後ろ を 顧みる 必要 なく 、 前 を 気遣う 必要 も なく 、 ただ 自我 を 思 の まま に 発展 し 得る 地位 に 立つ 諸君 は 、 人生 の 最大 愉快 を 極 む る もの である 」 満場 は 何となく どよめき 渡った 。
うしろ||かえりみる|ひつよう||ぜん||きづかう|ひつよう||||じが||おも||||はってん||える|ちい||たつ|しょくん||じんせい||さいだい|ゆかい||ごく|||||まんじょう||なんとなく||わたった
「 なぜ 初期 の もの が 先例 に なら ん ?
|しょき||||せんれい|||
初期 は もっとも 不 秩序 の 時代 である 。
しょき|||ふ|ちつじょ||じだい|
偶然 の 跋扈 する 時代 である 。
ぐうぜん||ばっこ||じだい|
||rampant behavior|||
僥倖 の 勢 を 得る 時代 である 。
ぎょうこう||ぜい||える|じだい|
unexpected luck||||||
初期 の 時代 に おいて 名 を 揚げ たる もの 、 家 を 起し たる もの 、 財 を 積み たる もの 、 事業 を なし たる もの は 必ずしも 自己 の 力量 に 由って 成功 した と は 云 われ ぬ 。
しょき||じだい|||な||あげ|||いえ||おこし|||ざい||つみ|||じぎょう||||||かならずしも|じこ||りきりょう||よし って|せいこう||||うん||
|||||||||||||||||||||||||||||||by|||||||
自己 の 力量 に よら ず して 成功 する は 士 の もっとも 恥 辱 と する ところ である 。
じこ||りきりょう|||||せいこう|||し|||はじ|じょく||||
中期 の もの は この 点 に おいて 遥かに 初期 の 人々 より も 幸福である 。
ちゅうき|||||てん|||はるかに|しょき||ひとびと|||こうふくである
事 を 成す の が 困難である から 幸福である 。
こと||なす|||こんなんである||こうふくである
困難に も かかわら ず 僥倖 が 少ない から 幸福である 。
こんなんに||||ぎょうこう||すくない||こうふくである
困難に も かかわら ず 力量 しだい で 思う ところ へ 行ける ほど の 余裕 が あり 、 発展 の 道 が ある から 幸福である 。
こんなんに||||りきりょう|||おもう|||いける|||よゆう|||はってん||どう||||こうふくである
後期 に 至る と かたまって しまう 。
こうき||いたる|||
ただ 前代 を 祖 述 する より ほか に 身動き が とれ ぬ 。
|ぜんだい||そ|じゅつ|||||みうごき|||
|previous generation|||||||||||
身動き が とれ なく なって 、 人間 が 腐った 時 、 また 波 瀾 が 起る 。
みうごき|||||にんげん||くさった|じ||なみ|らん||おこる
|||||||||||||will occur
起ら ねば 化石 する より ほか に しようがない 。
おこら||かせき|||||
化石 する の が いやだ から 、 自から 波 瀾 を 起す のである 。
かせき||||||おのずから|なみ|らん||おこす|
これ を 革命 と 云 う のである 。
||かくめい||うん||
「 以上 は 明治 の 天下 に あって 諸君 の 地位 を 説明 した のである 。
いじょう||めいじ||てんか|||しょくん||ちい||せつめい||
かかる 愉快な 地位 に 立つ 諸君 は この 愉快に 相当 する 理想 を 養わ ねば なら ん 」 道也 先生 は ここ に おいて 一転 語 を 下した 。
|ゆかいな|ちい||たつ|しょくん|||ゆかいに|そうとう||りそう||やしなわ||||みちや|せんせい|||||いってん|ご||くだした
聴衆 は 別に ひやかす 気 も なくなった と 見える 。
ちょうしゅう||べつに||き||||みえる
黙って いる 。
だまって|
「 理想 は 魂 である 。
りそう||たましい|
魂 は 形 が ない から わから ない 。
たましい||かた|||||
ただ 人 の 魂 の 、 行為 に 発現 する ところ を 見て 髣髴 する に 過ぎ ん 。
|じん||たましい||こうい||はつげん||||みて|ほうふつ|||すぎ|
||||||||||||faintly reminiscent||||
惜しい かな 現代 の 青年 は これ を 髣髴 する こと が 出来 ん 。
おしい||げんだい||せいねん||||ほうふつ||||でき|
これ を 過去 に 求めて も ない 、 これ を 現代 に 求めて は なおさら ない 。
||かこ||もとめて|||||げんだい||もとめて|||
諸君 は 家庭 に 在って 父母 を 理想 と する 事 が 出来ます か 」 ある もの は 不平 な 顔 を した 。
しょくん||かてい||あって|ふぼ||りそう|||こと||でき ます|||||ふへい||かお||
||||at|||||||||||||||||
しかし だまって いる 。
「 学校 に 在って 教師 を 理想 と する 事 が 出来ます か 」 「 ノー 、 ノー 」 「 社会 に 在って 紳士 を 理想 と する 事 が 出来ます か 」 「 ノー 、 ノー 」 「 事実 上 諸君 は 理想 を もって おら ん 。
がっこう||あって|きょうし||りそう|||こと||でき ます||のー|のー|しゃかい||あって|しんし||りそう|||こと||でき ます||のー|のー|じじつ|うえ|しょくん||りそう||||
家 に 在って は 父母 を 軽蔑 し 、 学校 に 在って は 教師 を 軽蔑 し 、 社会 に 出 でて は 紳士 を 軽蔑 して いる 。
いえ||あって||ふぼ||けいべつ||がっこう||あって||きょうし||けいべつ||しゃかい||だ|||しんし||けいべつ||
これら を 軽蔑 し 得る の は 見識 である 。
これ ら||けいべつ||える|||けんしき|
しかし これら を 軽蔑 し 得る ため に は 自己 に より 大 なる 理想 が なくて は なら ん 。
|これ ら||けいべつ||える||||じこ|||だい||りそう|||||
自己 に 何ら の 理想 なく して 他 を 軽蔑 する の は 堕落 である 。
じこ||なんら||りそう|||た||けいべつ||||だらく|
現代 の 青年 は 滔々と して 日 に 堕落 し つつ ある 」 聴衆 は 少し く 色めいた 。
げんだい||せいねん||とうとうと||ひ||だらく||||ちょうしゅう||すこし||いろめいた
||||flowing abundantly||||||||||||slightly excited
「 失敬な 」 と つぶやく もの が ある 。
しっけいな|||||
道也 先生 は 昂 然 と して 壇 下 を 睥睨 して いる 。
みちや|せんせい||たかし|ぜん|||だん|した||へいげい||
「 英国 風 を 鼓 吹 して 憚 から ぬ もの が ある 。
えいこく|かぜ||つづみ|ふ||はばか|||||
|||drum|||hesitate|||||
気の毒な 事 である 。
きのどくな|こと|
己 れ に 理想 の ない の を 明か に 暴露 して いる 。
おのれ|||りそう|||||あか||ばくろ||
||||||||||expose||
日本 の 青年 は 滔々と して 堕落 する に も かかわら ず 、 いまだ ここ まで は 堕落 せ ん と 思う 。
にっぽん||せいねん||とうとうと||だらく||||||||||だらく||||おもう
すべて の 理想 は 自己 の 魂 である 。
||りそう||じこ||たましい|
うち より 出 ねば なら ぬ 。
||だ|||
奴隷 の 頭脳 に 雄大な 理想 の 宿り よう が ない 。
どれい||ずのう||ゆうだいな|りそう||やどり|||
西洋 の 理想 に 圧倒 せられて 眼 が くらむ 日本 人 は ある 程度 に おいて 皆 奴隷 である 。
せいよう||りそう||あっとう|せら れて|がん|||にっぽん|じん|||ていど|||みな|どれい|
奴隷 を もって 甘んずる のみ なら ず 、 争って 奴隷 たら ん と する もの に 何ら の 理想 が 脳裏 に 醗酵 し 得る 道理 が あろう 。
どれい|||あまんずる||||あらそって|どれい|||||||なんら||りそう||のうり||はっこう||える|どうり||
|||||||||||||||||||||ferment|||||
「 諸君 。
しょくん
理想 は 諸君 の 内部 から 湧き出 なければ なら ぬ 。
りそう||しょくん||ないぶ||わきで|||
||||||must emerge|||
諸君 の 学問 見識 が 諸君 の 血 と なり 肉 と なり ついに 諸君 の 魂 と なった 時 に 諸君 の 理想 は 出来上る のである 。
しょくん||がくもん|けんしき||しょくん||ち|||にく||||しょくん||たましい|||じ||しょくん||りそう||できあがる|
付 焼 刃 は 何にも なら ない 」 道也 先生 は ひやかさ れる なら 、 ひやかして 見ろ と 云 わ ぬ ばかりに 片手 の 拳骨 を テーブル の 上 に 乗せて 、 立って いる 。
つき|や|は||なんにも|||みちや|せんせい||||||みろ||うん||||かたて||げんこつ||てーぶる||うえ||のせて|たって|
||||||||||mocked|||to tease|||||||||fist||||||||
汚 ない 黒 木綿 の 羽織 に 、 べん べら の 袴 は 最 前 ほど に 目立た ぬ 。
きたな||くろ|もめん||はおり|||||はかま||さい|ぜん|||めだた|
風 の 音 が ごう と 鳴る 。
かぜ||おと||||なる
「 理想 の ある もの は 歩く べき 道 を 知っている 。
りそう|||||あるく||どう||しっている
大 なる 理想 の ある もの は 大 なる 道 を あるく 。
だい||りそう|||||だい||どう||
迷子 と は 違う 。
まいご|||ちがう
どう あって も この 道 を あるか ねば やま ぬ 。
||||どう|||||
迷い たくて も 迷え ん のである 。
まよい|||まよえ||
魂 が こちら こちら と 教える から である 。
たましい|||||おしえる||
「 諸君 の うち に は 、 どこ まで 歩く つもりだ と 聞く もの が ある かも 知れ ぬ 。
しょくん|||||||あるく|||きく|||||しれ|
知れた 事 である 。
しれた|こと|
行ける 所 まで 行く の が 人生 である 。
いける|しょ||いく|||じんせい|
誰しも 自分 の 寿命 を 知って る もの は ない 。
だれしも|じぶん||じゅみょう||しって||||
自分 に 知れ ない 寿命 は 他人 に は なおさら わから ない 。
じぶん||しれ||じゅみょう||たにん|||||
|||||||||even more||
医者 を 家業 に する 専門 家 でも 人間 の 寿命 を 勘定 する 訳 に は 行か ぬ 。
いしゃ||かぎょう|||せんもん|いえ||にんげん||じゅみょう||かんじょう||やく|||いか|
自分 が 何 歳 まで 生きる か は 、 生 きた あと で 始めて 言う べき 事 である 。
じぶん||なん|さい||いきる|||せい||||はじめて|いう||こと|
八十 歳 まで 生きた と 云 う 事 は 八十 歳 まで 生きた 事実 が 証拠 立てて くれ ねば なら ん 。
はちじゅう|さい||いきた||うん||こと||はちじゅう|さい||いきた|じじつ||しょうこ|たてて||||
た とい 八十 歳 まで 生きる 自信 が あって 、 その 自信 通り に なる 事 が 明瞭である に して も 、 現に 生きた と 云 う 事実 が ない 以上 は 誰 も 信ずる もの は ない 。
||はちじゅう|さい||いきる|じしん||||じしん|とおり|||こと||めいりょうである||||げんに|いきた||うん||じじつ|||いじょう||だれ||しんずる|||
したがって 言う べき もの で ない 。
|いう||||
理想 の 黙 示 を 受けて 行く べき 道 を 行く の も その 通り である 。
りそう||もく|しめ||うけて|いく||どう||いく||||とおり|
自己 が どれほど に 自己 の 理想 を 現実 に し 得る か は 自己 自身 に さえ 計ら れ ん 。
じこ||||じこ||りそう||げんじつ|||える|||じこ|じしん|||はから||
過去 が こう である から 、 未来 も こう であろう ぞ と 臆 測 する の は 、 今 まで 生きて いた から 、 これ から も 生きる だろう と 速 断 する ような もの である 。
かこ|||||みらい||||||おく|そく||||いま||いきて||||||いきる|||はや|だん||||
一種 の 山 である 。
いっしゅ||やま|
成功 を 目的 に して 人生 の 街頭 に 立つ もの は すべて 山師 である 」 高柳 君 の 隣り に いた 薩摩 絣 は 妙な 顔 を した 。
せいこう||もくてき|||じんせい||がいとう||たつ||||やまし||たかやなぎ|きみ||となり|||さつま|かすり||みょうな|かお||
|||||||||||||speculator||||||||||||||
「 社会 は 修羅場 である 。
しゃかい||しゅらば|
文明 の 社会 は 血 を 見 ぬ 修羅場 である 。
ぶんめい||しゃかい||ち||み||しゅらば|
||||||||scene of conflict|
四十 年 前 の 志士 は 生死 の 間 に 出入 して 維新 の 大 業 を 成就 した 。
しじゅう|とし|ぜん||しし||せいし||あいだ||しゅつにゅう||いしん||だい|ぎょう||じょうじゅ|
||||||||||||restoration|||||achieved|
諸君 の 冒す べき 危険 は 彼ら の 危険 より 恐ろしい かも 知れ ぬ 。
しょくん||おかす||きけん||かれら||きけん||おそろしい||しれ|
血 を 見 ぬ 修羅場 は 砲声 剣 光 の 修羅場 より も 、 より 深刻に 、 より 悲惨である 。
ち||み||しゅらば||ほうせい|けん|ひかり||しゅらば||||しんこくに||ひさんである
||||||||||||||||tragic
諸君 は 覚悟 を せ ねば なら ぬ 。
しょくん||かくご|||||
勤 王 の 志士 以上 の 覚悟 を せ ねば なら ぬ 。
つとむ|おう||しし|いじょう||かくご|||||
斃 る る 覚悟 を せ ねば なら ぬ 。
へい|||かくご|||||
太平の 天地 だ と 安心 して 、 拱 手 して 成功 を 冀う 輩 は 、 行く べき 道 に 躓いて 非業 に 死 し たる 失敗 の 児 より も 、 人間 の 価値 は 遥かに 乏しい のである 。
たいへいの|てんち|||あんしん||こまぬ|て||せいこう||こいねがう|やから||いく||どう||つまずいて|ひごう||し|||しっぱい||じ|||にんげん||かち||はるかに|とぼしい|
|||||||||||hope for|||||||stumbled|||||||||||||||||
「 諸君 は 道 を 行か ん が ため に 、 道 を 遮 ぎ る もの を 追わ ねば なら ん 。
しょくん||どう||いか|||||どう||さえぎ|||||おわ|||
彼ら と 戦う とき に 始めて 、 わが 生涯 の 内 生命 に 、 勤 王 の 諸 士 が あえて し たる 以上 の 煩 悶 と 辛 惨 と を 見出し 得る のである 。
かれら||たたかう|||はじめて||しょうがい||うち|せいめい||つとむ|おう||しょ|し|||||いじょう||わずら|もん||しん|さん|||みだし|える|
―― 今日 は 風 が 吹く 。
きょう||かぜ||ふく
昨日 も 風 が 吹いた 。
きのう||かぜ||ふいた
この頃 の 天候 は 不穏である 。
このごろ||てんこう||ふおんである
||||unsettled
しかし 胸 裏 の 不穏 は こんな もの で は ない 」 道也 先生 は 、 が たつ く 硝子 窓 ( ガラス まど ) を 通して 、 往来 の 方 を 見た 。
|むね|うら||ふおん|||||||みちや|せんせい|||||がらす|まど|がらす|||とおして|おうらい||かた||みた
|||||||||||||||||glass||||||||||
折から 一陣 の 風 が 、 会釈 なく 往来 の 砂 を 捲 き 上げて 、 屋 の 棟 に 突き当って 、 虚 空 を 高く 逃れて 行った 。
おりから|いちじん||かぜ||えしゃく||おうらい||すな||まく||あげて|や||むね||つきあたって|きょ|から||たかく|のがれて|おこなった
「 諸君 。
しょくん
諸君 の どれ ほど に 剛 健 なる か は 、 わたし に は 分 らん 。
しょくん|||||かたし|けん|||||||ぶん|
諸君 自身 に も 知れ ぬ 。
しょくん|じしん|||しれ|
ただ 天下 後世 が 証拠 だ てる のみ である 。
|てんか|こうせい||しょうこ||||
||later generations||||||
理想 の 大道 を 行き 尽して 、 途上 に 斃 る る 刹那 に 、 わが 過去 を 一 瞥 の うち に 縮め 得て 始めて 合点 が 行く のである 。
りそう||おおみち||いき|つくして|とじょう||へい|||せつな|||かこ||ひと|べつ||||ちぢめ|えて|はじめて|がてん||いく|
|||||||||||||||||glance||||||||||
諸君 は 諸君 の 事業 そのもの に 由って 伝えられ ねば なら ぬ 。
しょくん||しょくん||じぎょう|その もの||よし って|つたえ られ|||
単に 諸君 の 名 に 由って 伝えられ ん と する は 軽薄である 」 高柳 君 は 何となく きまり が わるかった 。
たんに|しょくん||な||よし って|つたえ られ|||||けいはくである|たかやなぎ|きみ||なんとなく|||
|||||||||||superficial|||||||
道也 の 輝 やく 眼 が 自分 の 方 に 注いで いる ように 思 れる 。
みちや||あきら||がん||じぶん||かた||そそいで|||おも|
「 理想 は 人 に よって 違う 。
りそう||じん|||ちがう
吾々 は 学問 を する 。
われ々||がくもん||
学問 を する もの の 理想 は 何 であろう 」 聴衆 は 黙 然 と して 応ずる もの が ない 。
がくもん|||||りそう||なん||ちょうしゅう||もく|ぜん|||おうずる|||
「 学問 を する もの の 理想 は 何で あろう と も ―― 金 で ない 事 だけ は たしかである 」 五六 ヵ 所 に 笑 声 が 起る 。
がくもん|||||りそう||なんで||||きむ|||こと||||ごろく||しょ||わら|こえ||おこる
|||||||||||||||||certainly not||||||||
道也 先生 の 裕福 なら ぬ 事 は その 服装 を 見た もの の 心 から 取り除けられ ぬ 事実 である 。
みちや|せんせい||ゆうふく|||こと|||ふくそう||みた|||こころ||とりのけ られ||じじつ|
||||||||||||||||could not be removed|||
道也 先生 は 羽織 の ゆき を 左右 の 手 に 引っ張り ながら 、 まず 徐 ろ にわ が 右 の 袖 を 見た 。
みちや|せんせい||はおり||||さゆう||て||ひっぱり|||じょ||||みぎ||そで||みた
||||||||||||||slowly||||||||
次に 眼 を 転じて また 徐 ろ にわ が 左 の 袖 を 見た 。
つぎに|がん||てんじて||じょ||||ひだり||そで||みた
黒 木綿 の 織 目 の なか に 砂 が いっぱい たまって いる 。
くろ|もめん||お|め||||すな||||
「 随分 きたない 」 と 落ちつき払って 云った 。
ずいぶん|||おちつきはらって|うん った
|||calmly said|
笑 声 が 満場 に 起る 。
わら|こえ||まんじょう||おこる
これ は ひやかし の 笑 声 で は ない 。
||||わら|こえ|||
道也 先生 は ひやかし の 笑 声 を 好意 の 笑 声 で 揉み 潰した のである 。
みちや|せんせい||||わら|こえ||こうい||わら|こえ||もみ|つぶした|
「 せんだって 学問 を 専門 に する 人 が 来て 、 私 も 妻 を もろう て 子 が 出来た 。
|がくもん||せんもん|||じん||きて|わたくし||つま||||こ||できた
|||||||||||||to marry||||
これ から 金 を 溜 め ねば なら ぬ 。
||きむ||たま||||
是非 共子 供 に 立派な 教育 を さ せる だけ は 今 の うち に 貯蓄 して 置か ねば なら ん 。
ぜひ|きようこ|とも||りっぱな|きょういく||||||いま||||ちょちく||おか|||
|together with|||||||||||||||||||
しかし どう したら 貯蓄 が 出来る でしょう か と 聞いた 。
|||ちょちく||できる||||きいた
「 どう したら 学問 で 金 が とれる だろう と 云 う 質問 ほど 馬鹿 気 た 事 は ない 。
||がくもん||きむ|||||うん||しつもん||ばか|き||こと||
学問 は 学者 に なる もの である 。
がくもん||がくしゃ||||
金 に なる もの で は ない 。
きむ||||||
学問 を して 金 を とる 工夫 を 考える の は 北極 へ 行って 虎 狩 を する ような もの である 」 満場 は また ちょっと どよめいた 。
がくもん|||きむ|||くふう||かんがえる|||ほっきょく||おこなって|とら|か||||||まんじょう||||
「 一般 の 世 人 は 労力 と 金 の 関係 に ついて 大 なる 誤 謬 を 有して いる 。
いっぱん||よ|じん||ろうりょく||きむ||かんけい|||だい||ご|びゅう||ゆうして|
彼ら は 相応の 学問 を すれば 相応の 金 が とれる 見込 の ある もの だ と 思う 。
かれら||そうおうの|がくもん|||そうおうの|きむ|||みこ||||||おもう
そんな 条 理 は 成立 する 訳 が ない 。
|じょう|り||せいりつ||やく||
学問 は 金 に 遠ざかる 器械 である 。
がくもん||きむ||とおざかる|きかい|
金 が ほし ければ 金 を 目的 に する 実業 家 と か 商 買 人 に なる が いい 。
きむ||||きむ||もくてき|||じつぎょう|いえ|||しょう|か|じん||||
学者 と 町人 と は まるで 別途 の 人間 であって 、 学者 が 金 を 予期 して 学問 を する の は 、 町人 が 学問 を 目的 に し て 丁 稚 に 住み込む ような もの である 」 「 そう か なあ 」 と 突飛な 声 を 出す 奴 が いる 。
がくしゃ||ちょうにん||||べっと||にんげん||がくしゃ||きむ||よき||がくもん|||||ちょうにん||がくもん||もくてき||||ちょう|ち||すみこむ||||||||とっぴな|こえ||だす|やつ||
||||||||||||||||||||||||||||||apprentice||live in||||||||||||||
聴衆 は どっと 笑った 。
ちょうしゅう|||わらった
道也 先生 は 平然と して 笑 の しずまる の を 待って いる 。
みちや|せんせい||へいぜんと||わら|||||まって|
「 だから 学問 の こと は 学者 に 聞か なければ なら ん 。
|がくもん||||がくしゃ||きか|||
金 が 欲しければ 町人 の 所 へ 持って行く より ほか に 致し方 は ない 」 「 金 が 欲しい 」 と まぜかえす 奴 が 出る 。
きむ||ほしければ|ちょうにん||しょ||もっていく||||いたしかた|||きむ||ほしい|||やつ||でる
||||||||||||||||||mixes in|||
誰 だ か わから ない 。
だれ||||
道也 先生 は 「 欲しい でしょう 」 と 云った ぎり 進行 する 。
みちや|せんせい||ほしい|||うん った||しんこう|
「 学問 すなわち 物 の 理 が わかる と 云 う 事 と 生活 の 自由 すなわち 金 が ある と 云 う 事 と は 独立 して 関係 の ない のみ なら ず 、 かえって 反対 の もの である 。
がくもん||ぶつ||り||||うん||こと||せいかつ||じゆう||きむ||||うん||こと|||どくりつ||かんけい|||||||はんたい|||
学者 であれば こそ 金 が ない のである 。
がくしゃ|||きむ|||
金 を 取る から 学者 に は なれ ない のである 。
きむ||とる||がくしゃ|||||
学者 は 金 が ない 代り に 物 の 理 が わかる ので 、 町人 は 理 窟 が わから ない から 、 その 代り に 金 を 儲ける 」 何 か 云 うだろう と 思って 道也 先生 は 二十 秒 ほど 絶句 して 待って いる 。
がくしゃ||きむ|||かわり||ぶつ||り||||ちょうにん||り|いわや||||||かわり||きむ||もうける|なん||うん|||おもって|みちや|せんせい||にじゅう|びょう||ぜっく||まって|
||||||||||||||||||||||||||||||might say||||||||||||
誰 も 何も 云 わ ない 。
だれ||なにも|うん||
「 それ を 心得 ん で 金 の ある 所 に は 理 窟 も ある と 考えて いる の は 愚 の 極 で ある 。
||こころえ|||きむ|||しょ|||り|いわや||||かんがえて||||ぐ||ごく||
しかも 世間 一般 は そう 誤認 して いる 。
|せけん|いっぱん|||ごにん||
あの 人 は 金持ち で 世間 が 尊敬 して いる から して 理 窟 も わかって いる に 違 ない 、 カルチュアー も ある に きまって いる と ―― こう 考える 。
|じん||かねもち||せけん||そんけい|||||り|いわや|||||ちが||||||||||かんがえる
|||||||||||||reason|||||||culture||||||||
ところが その実 は カルチュアー を 受ける 暇 が なければ こそ 金 を もうける 時間 が 出来た のである 。
|そのじつ||||うける|いとま||||きむ|||じかん||できた|
自然 は 公平な もの で 一 人 の 男 に 金 も もうけ させ る 、 同時に カルチュアー も 授ける と 云 う ほど 贔屓 に は せ ん のである 。
しぜん||こうへいな|||ひと|じん||おとこ||きむ|||さ せ||どうじに|||さずける||うん|||ひいき|||||
この 見やすき 道理 も 弁 ぜ ず して 、 か の 金持ち 共 は 己 惚れて ……」 「 ひや 、 ひや 」「 焼く な 」「 しっ、 しっ」 だいぶ 賑やかに なる 。
|みやすき|どうり||べん||||||かねもち|とも||おのれ|ほれて|||やく|||||にぎやかに|
|easy to see|||||||||||||fallen in love|||||||||
「 自分 達 は 社会 の 上流 に 位 して 一般 から 尊敬 されて いる から して 、 世の中 に 自分 ほど 理 窟 に 通じた もの は ない 。
じぶん|さとる||しゃかい||じょうりゅう||くらい||いっぱん||そんけい|さ れて||||よのなか||じぶん||り|いわや||つうじた|||
学者 だろう が 、 何 だろう が おれ に 頭 を さげ ねば なら ん と 思う の は 憫然 の しだい で 、 彼ら が こんな 考 を 起す 事 自身 が カルチュアー の ない と 云 う 事実 を 証明 して いる 」 高柳 君 の 眼 は 輝 やいた 。
がくしゃ|||なん|||||あたま|||||||おもう|||びんぜん||||かれら|||こう||おこす|こと|じしん||||||うん||じじつ||しょうめい|||たかやなぎ|きみ||がん||あきら|
血 が 双 頬 に 上って くる 。
ち||そう|ほお||のぼって|
「 訳 の わから ぬ 彼ら が 己 惚 は とうてい 済 度 すべ から ざる 事 と する も 、 天下 社会 から 、 彼ら の 己 惚 を もっともだ と 是認 する に 至って は 愛想 の 尽きた 不 見識 と 云 わ ねば なら ぬ 。
やく||||かれら||おのれ|ぼけ|||す|たび||||こと||||てんか|しゃかい||かれら||おのれ|ぼけ||||ぜにん|||いたって||あいそ||つきた|ふ|けんしき||うん||||
|||||||||||||||||||||||||||reasonable|||||||||||||||||
よく 云 う 事 だ が 、 あの 男 も あの くらい な 社会 上 の 地位 に あって 相応の 財産 も 所有 して いる 事 だ から 万 更 そんな 訳 の わから ない 事 も なかろう 。
|うん||こと||||おとこ|||||しゃかい|うえ||ちい|||そうおうの|ざいさん||しょゆう|||こと|||よろず|こう||やく||||こと||
豈計 らん や ある 場合 に は 、 そんな 社会 上 の 地位 を 得て 相当 の 財産 を 有して おれば こそ 訳 が わから ない のである 」 高柳 君 は 胸 の 苦し み を 忘れて 、 ひやひや と 手 を 打った 。
あにけい||||ばあい||||しゃかい|うえ||ちい||えて|そうとう||ざいさん||ゆうして|||やく|||||たかやなぎ|きみ||むね||にがし|||わすれて|||て||うった
how could|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隣 の 薩摩 絣 はえ へん と 嘲 弄 的な 咳払 を する 。
となり||さつま|かすり||||あざけ|もてあそ|てきな|せきふつ||
||||||||||clearing throat||
「 社会 上 の 地位 は 何で きまる と 云 えば ―― いろいろ ある 。
しゃかい|うえ||ちい||なんで|||うん|||
第 一 カルチュアー で きまる 場合 も ある 。
だい|ひと||||ばあい||
第 二 門 閥 で きまる 場合 も ある 。
だい|ふた|もん|ばつ|||ばあい||
第 三 に は 芸能 で きまる 場合 も ある 。
だい|みっ|||げいのう|||ばあい||
最後に 金 で きまる 場合 も ある 。
さいごに|きむ|||ばあい||
しか して これ は もっとも 多い 。
|||||おおい
かよう に いろいろの 標準 が ある の を 混同 して 、 金 で 相場 が きまった 男 を 学問 で 相場 が きまった 男 と 相互 に 通用 し 得る ように 考えて いる 。
|||ひょうじゅん|||||こんどう||きむ||そうば|||おとこ||がくもん||そうば|||おとこ||そうご||つうよう||える||かんがえて|
ほとんど 盲目 同然である 」 エヘン 、 エヘン と 云 う 声 が 散らばって 五六 ヵ 所 に 起る 。
|もうもく|どうぜんである||||うん||こえ||ちらばって|ごろく||しょ||おこる
||practically blind|||||||||||||
高柳 君 は 口 を 結んで 、 鼻 から 呼吸 を はずま せて いる 。
たかやなぎ|きみ||くち||むすんで|はな||こきゅう||||
「 金 で 相場 の きまった 男 は 金 以外 に 融通 は 利か ぬ はずである 。
きむ||そうば|||おとこ||きむ|いがい||ゆうずう||きか||
金 は ある 意味 に おいて 貴重 かも 知れ ぬ 。
きむ|||いみ|||きちょう||しれ|
彼ら は この 貴重な もの を 擁して いる から 世 の 尊敬 を 受ける 。
かれら|||きちょうな|||ようして|||よ||そんけい||うける
||||||possessing|||||||
よろしい 。
そこ まで は 誰 も 異存 は ない 。
|||だれ||いぞん||
しかし 金 以外 の 領分 に おいて 彼ら は 幅 を 利かし 得る 人間 で は ない 、 金 以外 の 標準 を もって 社会 上 の 地位 を 得る 人 の 仲間 入 は 出来 ない 。
|きむ|いがい||りょうぶん|||かれら||はば||きかし|える|にんげん||||きむ|いがい||ひょうじゅん|||しゃかい|うえ||ちい||える|じん||なかま|はい||でき|
|||||||||||exert influence||||||||||||||||||||||||
もし それ が 出来る と 云 えば 学者 も 金持ち の 領分 へ 乗り込んで 金銭 本位 の 区域 内 で 威張って も 好 い 訳 に なる 。
|||できる||うん||がくしゃ||かねもち||りょうぶん||のりこんで|きんせん|ほんい||くいき|うち||いばって||よしみ||やく||
||||||||||||||||||||to boast||||||
彼ら は そう は させ ぬ 。
かれら||||さ せ|
しかし 自分 だけ は 自分 の 領分 内 に おとなしく して いる 事 を 忘れて 他の 領分 まで のさばり 出よう と する 。
|じぶん|||じぶん||りょうぶん|うち|||||こと||わすれて|たの|りょうぶん|||でよう||
||||||||||||||||||acting freely|||
それ が 物 の わから ない 、 好 い 証拠 である 」 高柳 君 は 腰 を 半分 浮かして 拍手 を した 。
||ぶつ||||よしみ||しょうこ||たかやなぎ|きみ||こし||はんぶん|うかして|はくしゅ||
人間 は 真似 が 好 である 。
にんげん||まね||よしみ|
高柳 君 に 誘い出されて 、 ぱち ぱち の 声 が 四方 に 起る 。
たかやなぎ|きみ||さそいださ れて||||こえ||しほう||おこる
|||invited out||||||||
冷笑 党 は 勢 の 不可 なる を 知って 黙した 。
れいしょう|とう||ぜい||ふか|||しって|もくした
|||||||||fell silent
「 金 は 労力 の 報酬 である 。
きむ||ろうりょく||ほうしゅう|
だから 労力 を 余計に すれば 金 は 余計に とれる 。
|ろうりょく||よけいに||きむ||よけいに|
ここ まで は 世間 も 公平である 。
|||せけん||こうへいである
|||||fair
これ すら も 不公平な 事 が ある 。
|||ふこうへいな|こと||
相場 師 など は 労力 なし に 金 を 攫んで いる ) しかし 一 歩 進めて 考えて 見る が 好 い 。
そうば|し|||ろうりょく|||きむ||つかんで|||ひと|ふ|すすめて|かんがえて|みる||よしみ|
|||||||||snatch||||||||||
高等な 労力 に 高等な 報酬 が 伴う であろう か ―― 諸君 どう 思います ―― 返事 が なければ 説明 しなければ なら ん 。
こうとうな|ろうりょく||こうとうな|ほうしゅう||ともなう|||しょくん||おもい ます|へんじ|||せつめい|し なければ||
報酬 なる もの は 眼前 の 利害 に もっとも 影響 の 多い 事情 だけ で きめられる のである 。
ほうしゅう||||がんぜん||りがい|||えいきょう||おおい|じじょう|||きめ られる|
|||||||||||||||can be decided|
だから 今 の 世 でも 教師 の 報酬 は 小 商人 の 報酬 より も 少ない のである 。
|いま||よ||きょうし||ほうしゅう||しょう|しょうにん||ほうしゅう|||すくない|
眼前 以上 の 遠い 所 高い 所 に 労力 を 費やす もの は 、 いかに 将来 の ため に なろう と も 、 国家 の ため に なろう と も 、 人類 の ため に なろう と も 報酬 は いよいよ 減 ずる のである 。
がんぜん|いじょう||とおい|しょ|たかい|しょ||ろうりょく||ついやす||||しょうらい|||||||こっか|||||||じんるい|||||||ほうしゅう|||げん||
だに よって 労力 の 高 下 で は 報酬 の 多寡 は きまら ない 。
||ろうりょく||たか|した|||ほうしゅう||たか|||
||||||||||||cannot be determined|
金銭 の 分配 は 支配 されて おら ん 。
きんせん||ぶんぱい||しはい|さ れて||
したがって 金 の ある もの が 高尚な 労力 を した と は 限ら ない 。
|きむ|||||こうしょうな|ろうりょく|||||かぎら|
換言 すれば 金 が ある から 人間 が 高尚だ と は 云 え ない 。
かんげん||きむ||||にんげん||こうしょうだ|||うん||
in other words||||||||noble|||||
金 を 目安 に して 人物 の 価値 を きめる 訳 に は 行か ない 」 滔々と して 述べて 来た 道也 は ちょっと ここ で 切って 、 満場 の 形勢 を 観 望 した 。
きむ||めやす|||じんぶつ||かち|||やく|||いか||とうとうと||のべて|きた|みちや|||||きって|まんじょう||けいせい||かん|のぞみ|
活版 に 押した 演説 は 生命 が ない 。
かっぱん||おした|えんぜつ||せいめい||
道也 は 相手 しだい で 、 どう と も 変わる つもりである 。
みちや||あいて||||||かわる|
満場 は 思った より 静かである 。
まんじょう||おもった||しずかである
「 それ を 金 が ある から と 云 うて むやみに えら がる の は 間違って いる 。
||きむ|||||うん|||||||まちがって|
学者 と 喧嘩 する 資格 が ある と 思って る の も 間違って いる 。
がくしゃ||けんか||しかく||||おもって||||まちがって|
気品 の ある 人々 に 頭 を 下げ させる つもりで いる の も 間違って いる 。
きひん|||ひとびと||あたま||さげ|さ せる|||||まちがって|
―― 少し は 考えて も 見る が いい 。
すこし||かんがえて||みる||
いくら 金 が あって も 病気 の 時 は 医者 に 降参 しなければ なる まい 。
|きむ||||びょうき||じ||いしゃ||こうさん|し なければ||
金貨 を 煎じて 飲む 訳 に は 行か ない ……」 あまり 熱心な 滑稽な ので 、 思わず 噴き出した もの が 三四 人 ある 。
きんか||せんじて|のむ|やく|||いか|||ねっしんな|こっけいな||おもわず|ふきだした|||さんし|じん|
道也 先生 は 気 が ついた 。
みちや|せんせい||き||
「 そう でしょう ―― 金貨 を 煎じたって 下痢 は とまら ない でしょう 。
||きんか||せんじた って|げり||||
||||boiled down|||||
―― だ から 御 医者 に 頭 を 下げる 。
||ご|いしゃ||あたま||さげる
その代り 御 医者 は ―― 金 に 頭 を 下げる 」 道也 先生 は に やに や と 笑った 。
そのかわり|ご|いしゃ||きむ||あたま||さげる|みちや|せんせい||||||わらった
聴衆 も おとなしく 笑う 。
ちょうしゅう|||わらう
「 それ で 好 い のです 。
||よしみ||
金 に 頭 を 下げて 結構です ―― しかし 金持 は いけない 。
きむ||あたま||さげて|けっこうです||かねもち||
医者 に 頭 を 下げる 事 を 知って ながら 、 趣味 と か 、 嗜好 と か 、 気品 と か 人品 と か 云 う 事 に 関して 、 学問 の ある 、 高尚な 理 窟 の わかった 人 に 頭 を 下げる こと を 知ら ん 。
いしゃ||あたま||さげる|こと||しって||しゅみ|||しこう|||きひん|||じんぴん|||うん||こと||かんして|がくもん|||こうしょうな|り|いわや|||じん||あたま||さげる|||しら|
||||||||||||||||||character||||||||||||||||||||||||
のみ なら ず かえって 金 の 力 で 、 それ ら の 頭 を さげ させよう と する 。
||||きむ||ちから|||||あたま|||さ せよう||
―― 盲目 蛇 に 怖 じ ず と は よく 云った もの です ねえ 」 と 急に 会話 調 に なった の は 曲折 が あった 。
もうもく|へび||こわ||||||うん った|||||きゅうに|かいわ|ちょう|||||きょくせつ||
「 学問 の ある 人 、 訳 の わかった 人 は 金持 が 金 の 力 で 世間 に 利益 を 与 うる と 同様の 意味 に おいて 、 学問 を もって 、 わけ の 分った ところ を もって 社会 に 幸福 を 与える のである 。
がくもん|||じん|やく|||じん||かねもち||きむ||ちから||せけん||りえき||あずか|||どうようの|いみ|||がくもん|||||ぶん った||||しゃかい||こうふく||あたえる|
だから して 立場 こそ 違え 、 彼ら は とうてい 冒し 得 べ から ざる 地位 に 確たる 尻 を 据えて いる のである 。
||たちば||ちがえ|かれら|||おかし|とく||||ちい||かくたる|しり||すえて||
「 学者 が もし 金銭 問題 に かかれば 、 自己 の 本領 を 棄 て て 他 の 縄張 内 に 這 入る のだ から 、 金持ち に 頭 を 下げる が 順当であろう 。
がくしゃ|||きんせん|もんだい|||じこ||ほんりょう||き|||た||なわばり|うち||は|はいる|||かねもち||あたま||さげる||じゅんとうであろう
||||||||||||||||territory|||||||||||||
同時に 金 以上 の 趣味 と か 文学 と か 人生 と か 社会 と か 云 う 問題 に 関して は 金持ち の 方 が 学者 に 恐れ入って 来 なければ なら ん 。
どうじに|きむ|いじょう||しゅみ|||ぶんがく|||じんせい|||しゃかい|||うん||もんだい||かんして||かねもち||かた||がくしゃ||おそれいって|らい|||
今 、 学者 と 金持 の 間 に 葛藤 が 起る と する 。
いま|がくしゃ||かねもち||あいだ||かっとう||おこる||
単に 金銭 問題 ならば 学者 は 初手 から 無能力である 。
たんに|きんせん|もんだい||がくしゃ||しょて||むのうりょくである
||||||||incapable
しかし それ が 人生 問題 であり 、 道徳 問題 であり 、 社会 問題 である 以上 は 彼ら 金持 は 最初 から 口 を 開く 権能 の ない もの と 覚悟 を して 絶対 的に 学者 の 前 に 服従 しなければ なら ん 。
|||じんせい|もんだい||どうとく|もんだい||しゃかい|もんだい||いじょう||かれら|かねもち||さいしょ||くち||あく|けんのう|||||かくご|||ぜったい|てきに|がくしゃ||ぜん||ふくじゅう|し なければ||
||||||||||||||||||||||power|||||||||||||||||
岩崎 は 別荘 を 立て 連 ら ねる 事 に おいて 天下 の 学者 を 圧倒 して いる かも 知れ ん が 、 社会 、 人生 の 問題 に 関して は 小児 と 一般 である 。
いわさき||べっそう||たて|れん|||こと|||てんか||がくしゃ||あっとう||||しれ|||しゃかい|じんせい||もんだい||かんして||しょうに||いっぱん|
十万 坪 の 別荘 を 市 の 東西 南北 に 建てた から 天下 の 学者 を 凹ま した と 思う の は 凌 雲 閣 を 作った から 仙人 が 恐れ入ったろう と 考える ような もの だ ……」 聴衆 は 道也 の 勢 と 最後 の 一 句 の 奇 警 な のに 気 を 奪われて 黙って いる 。
じゅうまん|つぼ||べっそう||し||とうざい|なんぼく||たてた||てんか||がくしゃ||くぼま|||おもう|||しの|くも|かく||つくった||せんにん||おそれいったろう||かんがえる||||ちょうしゅう||みちや||ぜい||さいご||ひと|く||き|けい|||き||うばわ れて|だまって|
||||||||||||||||to impress||||||||||||||was impressed|||||||||||||||||||||||||
独り 高柳 君 が たまらなかった と 見えて 大きな 声 を 出して 喝采 した 。
ひとり|たかやなぎ|きみ||||みえて|おおきな|こえ||だして|かっさい|
|||||||||||applause|
「 商人 が 金 を 儲ける ため に 金 を 使う の は 専門 上 の 事 で 誰 も 容喙 が 出来 ぬ 。
しょうにん||きむ||もうける|||きむ||つかう|||せんもん|うえ||こと||だれ||ようかい||でき|
|||||||||||||||||||interfere|||
しかし 商 買 上 に 使わ ないで 人事 上 に その 力 を 利用 する とき は 、 訳 の わかった 人 に 聞か ねば なら ぬ 。
|しょう|か|うえ||つかわ||じんじ|うえ|||ちから||りよう||||やく|||じん||きか|||
そう しなければ 社会 の 悪 を 自ら 醸造 して 平気で いる 事 が ある 。
|し なければ|しゃかい||あく||おのずから|じょうぞう||へいきで||こと||
今 の 金持 の 金 の ある 一部分 は 常に この 目的 に 向って 使用 されて いる 。
いま||かねもち||きむ|||いちぶぶん||とわに||もくてき||むかい って|しよう|さ れて|
それ と 云 うの も 彼ら 自身 が 金 の 主である だけ で 、 他の 徳 、 芸 の 主で ない から である 。
||うん|||かれら|じしん||きむ||おもである|||たの|とく|げい||おもで|||
学者 を 尊敬 する 事 を 知ら ん から である 。
がくしゃ||そんけい||こと||しら|||
いくら 教えて も 人 の 云 う 事 が 理解 出来 ん から である 。
|おしえて||じん||うん||こと||りかい|でき|||
災 は 必ず 己 れ に 帰る 。
わざわい||かならず|おのれ|||かえる
彼ら は 是非 共学 者 文学 者 の 云 う 事 に 耳 を 傾け ねば なら ぬ 時期 が くる 。
かれら||ぜひ|きょうがく|もの|ぶんがく|もの||うん||こと||みみ||かたむけ||||じき||
耳 を 傾け ねば 社会 上 の 地位 が 保て ぬ 時期 が くる 」 聴衆 は 一度に どっと 鬨 を 揚げた 。
みみ||かたむけ||しゃかい|うえ||ちい||たもて||じき|||ちょうしゅう||いちどに||こう||あげた
高柳 君 は 肺病 に も かかわら ず もっとも 大 なる 鬨 を 揚げた 。
たかやなぎ|きみ||はいびょう||||||だい||こう||あげた
生れて から 始めて こんな 痛快な 感じ を 得た 。
うまれて||はじめて||つうかいな|かんじ||えた
襟巻 に 半分 顔 を 包んで から 風 の なか を ここ まで 来た 甲斐 は ある と 思う 。
えりまき||はんぶん|かお||つつんで||かぜ||||||きた|かい||||おもう
道也 先生 は 予言 者 の ごとく 凛と して 壇上 に 立って いる 。
みちや|せんせい||よげん|もの|||りんと||だんじょう||たって|
|||||||||platform|||
吹き まくる 木 枯 は 屋 を 撼 かして 去る 。
ふき||き|こ||や||かん||さる