44.1 或る 女
たたきつける ように して 倉地 に 返して しまおう と した 金 は 、 やはり 手 に 持って いる うち に 使い 始めて しまった 。 葉子 の 性癖 と して いつでも できる だけ 豊かな 快い 夜 昼 を 送る ように のみ 傾いて いた ので 、 貞 世 の 病院 生活 に も 、 だれ に 見せて も ひけ を 取ら ない だけ の 事 を 上 べ ばかり でも して い たかった 。 夜具 でも 調度 でも 家 に ある もの の 中 で いちばん 優れた もの を 選んで 来て みる と 、 すべて の 事 まで それ に ふさわしい もの を 使わ なければ なら なかった 。 葉子 が 専用 の 看護 婦 を 二 人 も 頼ま なかった の は 不思議な ようだ が 、 どういう もの か 貞 世 の 看護 を どこまでも 自分 一 人 でして のけ たかった のだ 。 その代わり 年 とった 女 を 二 人 傭って 交代 に 病院 に 来 さして 、 洗い 物 から 食事 の 事 まで を 賄わ した 。 葉子 は とても 病院 の 食事 で は 済まして いられ なかった 。 材料 の いい悪い は とにかく 、 味 は とにかく 、 何より も きたな らしい 感じ が して 箸 も つける 気 に なれ なかった ので 、 本郷 通り に ある 或る 料理 屋 から 日々 入れ させる 事 に した 。 こんな あん ばい で 、 費用 は 知れ ない 所 に 思いのほか かかった 。 葉子 が 倉地 が 持って 来て くれた 紙幣 の 束 から 仕払 おうと した 時 は 、 いずれ その うち 木村 から 送金 が ある だろう から 、 あり 次第 それ から 埋め合わせ を して 、 すぐ そのまま 返そう と 思って いた のだった 。 しかし 木村 から は 、 六 月 に なって 以来 一 度 も 送金 の 通知 は 来 なかった 。 葉子 は それ だ から なおさら の 事 もう 来 そうな もの だ と 心待ち を した のだった 。 それ が いくら 待って も 来 ない と なる と やむ を 得 ず 持ち合わせた 分 から 使って 行か なければ なら なかった 。 まだまだ と 思って いる うち に 束 の 厚み は どんどん 減って 行った 。 それ が 半分 ほど 減る と 、 葉子 は 全く 返済 の 事 など は 忘れて しまった ように なって 、 ある に 任せて 惜し げ も なく 仕払 い を した 。 ・・
七 月 に は いって から 気候 は めっきり 暑く なった 。 椎 の 木 の 古 葉 も すっかり 散り 尽くして 、 松 も 新しい 緑 に かわって 、 草 も 木 も 青い 焔 の ように なった 。 長く 寒く 続いた 五月雨 の なごり で 、 水蒸気 が 空気 中 に 気味 わるく 飽和 されて 、 さら ぬ だ に 急に 堪え 難く 暑く なった 気候 を ますます 堪え 難い もの に した 。 葉子 は 自身 の 五 体 が 、 貞 世 の 回復 を も 待た ず に ず ん ず ん くずれて 行く の を 感じ ない わけに は 行か なかった 。 それ と 共に 勃発 的に 起こって 来る ヒステリー は いよいよ 募る ばかりで 、 その 発作 に 襲わ れた が 最後 、 自分 ながら 気 が 違った と 思う ような 事 が たびたび に なった 。 葉子 は 心ひそかに 自分 を 恐れ ながら 、 日々 の 自分 を 見守る 事 を 余儀なく さ れた 。 ・・
葉子 の ヒステリー は だれ かれ の 見さかい なく 破裂 する ように なった が ことに 愛子 に 屈強 の 逃げ場 を 見いだした 。 なんと いわれて も ののしられて も 、 打ち 据えられ さえ して も 、 屠所 の 羊 の ように 柔 順 に 黙った まま 、 葉子 に は まどろ しく 見える くらい ゆっくり 落ち着いて 働く 愛子 を 見せつけられる と 、 葉子 の 疳癪 は 嵩 じ る ばかりだった 。 あんな 素直な 殊勝 げ な ふう を して い ながら しらじらしく も 姉 を 欺いて いる 。 それ が 倉地 と の 関係 に おいて であれ 、 岡 と の 関係 に おいて であれ 、 ひょっとすると 古藤 と の 関係 に おいて であれ 、 愛子 は 葉子 に 打ち明け ない 秘密 を 持ち 始めて いる はずだ 。 そう 思う と 葉子 は 無理に も 平地 に 波 瀾 が 起こして み たかった 。 ほとんど 毎日 ―― それ は 愛子 が 病院 に 寝泊まり する ように なった ため だ と 葉子 は 自分 決め に 決めて いた ―― 幾 時間 か の 間 、 見舞い に 来て くれる 岡 に 対して も 、 葉子 は もう 元 の ような 葉子 で は なかった 。 どうかする と 思い も かけ ない 時 に 明白な 皮肉 が 矢 の ように 葉子 の 口 び る から 岡 に 向かって 飛ばさ れた 。 岡 は 自分 が 恥じる ように 顔 を 紅 ら め ながら も 、 上品な 態度 で それ を こらえた 。 それ が また なおさら 葉子 を いら つかす 種 に なった 。 ・・
もう 来られ そう も ない と いい ながら 倉地 も 三 日 に 一 度 ぐらい は 病院 を 見舞う ように なった 。 葉子 は それ を も 愛子 ゆえ と 考え ず に は いられ なかった 。 そう 激しい 妄想 に 駆り立てられて 来る と 、 どういう 関係 で 倉地 と 自分 と を つないで おけば いい の か 、 どうした 態度 で 倉地 を もち あつかえば いい の か 、 葉子 に は ほとほと 見当 が つか なく なって しまった 。 親身に 持ちかけて みたり 、 よそよそしく 取りなして みたり 、 その 時 の 気分 気分 で 勝手な 無 技巧 な 事 を して い ながら も 、 どうしても のがれ 出る 事 の でき ない の は 倉地 に 対する こ ちん と 固まった 深い 執着 だった 。 それ は 情けなく も 激しく 強く なり 増 さる ばかりだった 。 もう 自分 で 自分 の 心根 を 憫然 に 思って そ ぞ ろ に 涙 を 流して 、 自ら を 慰める と いう 余裕 すら なくなって しまった 。 かわき きった 火 の ような もの が 息 気 苦しい まで に 胸 の 中 に ぎっしり つまって いる だけ だった 。 ・・
ただ 一 人 貞 世 だけ は …… 死ぬ か 生きる か わから ない 貞 世 だけ は 、 この 姉 を 信じ きって くれて いる …… そう 思う と 葉子 は 前 に も 増した 愛着 を この 病 児 に だけ は 感じ ないで いられ なかった 。 「 貞 世 が いる ばかりで 自分 は 人殺し も し ないで こうして いら れる のだ 」 と 葉子 は 心 の 中 で 独 語 ち た 。 ・・
けれども ある 朝 その かすかな 希望 さえ 破れ ねば なら ぬ ような 事件 が まく し上がった 。 ・・
その 朝 は 暁 から 水 が したたり そうに 空 が 晴れて 、 珍しく すがすがしい 涼風 が 木 の 間 から 来て 窓 の 白い カーテン を そっと なでて 通る さわやかな 天気 だった ので 、 夜通し 貞 世 の 寝 台 の わき に 付き添って 、 睡 く なる と そうした まま で うとうと と 居 睡 りし ながら 過ごして 来た 葉子 も 、 思いのほか 頭 の 中 が 軽く なって いた 。 貞 世 も その 晩 は ひどく 熱 に 浮かされ も せ ず に 寝 続けて 、 四 時 ごろ の 体温 は 七 度 八 分 まで 下がって いた 。 緑色 の 風呂敷 を 通して 来る 光 で それ を 発見 した 葉子 は 飛び立つ ような 喜び を 感じた 。 入院 して から 七 度 台 に 熱 の 下がった の は この 朝 が 始めて だった ので 、 もう 熱 の 剥離 期 が 来た の か と 思う と 、 とうとう 貞 世 の 命 は 取り留めた と いう 喜 悦 の 情 で 涙ぐましい まで に 胸 は いっぱいに なった 。 ようやく 一 心 が 届いた 。 自分 の ため に 病気 に なった 貞 世 は 、 自分 の 力 で な おった 。 そこ から 自分 の 運命 は また 新しく 開けて 行く かも しれ ない 。 きっと 開けて 行く 。 もう 一 度 心置きなく この世 に 生きる 時 が 来たら 、 それ は どの くらい いい 事 だろう 。 今度 こそ は 考え 直して 生きて みよう 。 もう 自分 も 二十六 だ 。 今 まで の ような 態度 で 暮らして は いられ ない 。 倉地 に も すまなかった 。 倉地 が あれほど ある 限り の もの を 犠牲 に して 、 しかも その 事業 と いって いる 仕事 は どう 考えて みて も 思わしく 行って いない らしい のに 、 自分 たち の 暮らし向き は まるで そんな 事 も 考え ない ような 寛 濶 な もの だった 。 自分 は 決心 さえ すれば どんな 境遇 に でも 自分 を はめ込む 事 ぐらい できる 女 だ 。 もし 今度 家 を 持つ ように なったら すべて を 妹 たち に いって 聞か して 、 倉地 と 一緒に なろう 。 そして 木村 と は はっきり 縁 を 切ろう 。 木村 と いえば …… そうして 葉子 は 倉地 と 古藤 と が いい合い を した その 晩 の 事 を 考え 出した 。 古藤 に あんな 約束 を し ながら 、 貞 世 の 病気 に 紛れて いた と いう ほか に 、 てんで 真相 を 告白 する 気 が なかった ので 今 まで は なんの 消息 もし ないで いた 自分 が とがめられた 。 ほんとうに 木村 に も すまなかった 。 今に なって ようやく 長い 間 の 木村 の 心 の 苦し さ が 想像 さ れる 。 もし 貞 世 が 退院 する ように なったら ―― そして 退院 する に 決まって いる が ―― 自分 は 何 を おいて も 木村 に 手紙 を 書く 。 そう したら どれほど 心 が 安く そして 軽く なる か しれ ない 。 …… 葉子 は もう そんな 境界 が 来て しまった ように 考えて 、 だれ と でも その 喜び を わかち たく 思った 。 で 、 椅子 に かけた まま 右 後ろ を 向いて 見る と 、 床板 の 上 に 三 畳 畳 を 敷いた 部屋 の 一隅 に 愛子 が たわ い も なく すやすや と 眠って いた 。 うるさがる ので 貞 世に は 蚊帳 を つって なかった が 、 愛子 の 所 に は 小さな 白い 西洋 蚊帳 が つって あった 。 その 細かい 目 を 通して 見る 愛子 の 顔 は 人形 の ように 整って 美しかった 。 その 愛子 を これ まで 憎み 通し に 憎み 、 疑い 通し に 疑って いた の が 、 不思議 を 通り越して 、 奇怪な 事 に さえ 思わ れた 。 葉子 は にこにこ し ながら 立って 行って 蚊帳 の そば に よって 、・・
「 愛さ ん …… 愛 さん 」・・
そう かなり 大きな 声 で 呼びかけた 。 ゆうべ おそく 枕 に ついた 愛子 は やがて ようやく 睡 そうに 大きな 目 を 静かに 開いて 、 姉 が 枕 もと に いる のに 気 が つく と 、 寝すごし で も した と 思った の か 、 あわてる ように 半身 を 起こして 、 そっと 葉子 を ぬすみ 見る ように した 。 日ごろ ならば そんな 挙動 を すぐ 疳癪 の 種 に する 葉子 も 、 その 朝 ばかり は かわいそうな くらい に 思って いた 。 ・・
「 愛さ ん お 喜び 、 貞 ちゃん の 熱 が とうとう 七 度 台 に 下がって よ 。 ちょっと 起きて 来て ごらん 、 それ は いい 顔 を して 寝て いる から …… 静かに ね 」・・
「 静かに ね 」 と いい ながら 葉子 の 声 は 妙に はずんで 高かった 。 愛子 は 柔 順 に 起き上がって そっと 蚊帳 を くぐって 出て 、 前 を 合わせ ながら 寝 台 の そば に 来た 。 ・・
「 ね ? 」・・
葉子 は 笑み かまけて 愛子 に こう 呼びかけた 。 ・・
「 でも なんだか 、 だいぶ に 蒼白 く 見えます わ ね 」・・
と 愛子 が 静かに いう の を 葉子 は せわしく 引った くって 、・・ 「 それ は 電 燈 の 風呂敷 の せい だ わ …… それ に 熱 が 取れれば 病人 は みんな 一 度 は かえって 悪く なった ように 見える もの な の よ 。 ほんとうに よかった 。 あなた も 親身に 世話 して やった から よ 」・・
そう いって 葉子 は 右手 で 愛子 の 肩 を やさしく 抱いた 。 そんな 事 を 愛子 に した の は 葉子 と して は 始めて だった 。 愛子 は 恐れ を なした ように 身 を すぼめた 。 ・・
葉子 は なんとなく じっと して は いられ なかった 。 子供 らしく 、 早く 貞 世 が 目 を さませば いい と 思った 。 そう したら 熱 の 下がった の を 知らせて 喜ば せて やる のに と 思った 。 しかし さすが に その 小さな 眠り を 揺 り さます 事 は し 得 ないで 、 しきりと 部屋 の 中 を 片づけ 始めた 。 愛子 が 注意 の 上 に 注意 を して こそ と の 音 も さ せまい と 気 を つかって いる のに 、 葉子 が わざと する か と も 思わ れる ほど 騒々しく 働く さま は 、 日ごろ と は まるで 反対だった 。 愛子 は 時々 不思議 そうな 目つき を して そっと 葉子 の 挙動 を 注意 した 。 ・・
その うち に 夜 が どんどん 明け 離れて 、 電灯 の 消えた 瞬間 は ちょっと 部屋 の 中 が 暗く なった が 、 夏 の 朝 らしく 見る見る うち に 白い 光 が 窓 から 容赦 なく 流れ込んだ 。 昼 に なって から の 暑 さ を 予想 さ せる ような 涼し さ が 青葉 の 軽い におい と 共に 部屋 の 中 に みち あふれた 。 愛子 の 着か えた 大柄な 白 の 飛 白 も 、 赤い メリンス の 帯 も 、 葉子 の 目 を 清々 しく 刺激 した 。