48.2 或る 女
葉子 は もう 肩 で 息 気 を して いた 。 頭 が 激しい 動 悸 の たび ごと に 震える ので 、 髪 の 毛 は 小刻みに 生き物 の ように おののいた 。 そして 岡 の 手 から 自分 の 手 を 離して 、 袂 から 取り出した ハンケチ で それ を 押し ぬぐった 。 目 に 入る 限り の もの 、 手 に 触れる 限り の もの が また けがらわしく 見え 始めた のだ 。 岡 の 返事 も 待た ず に 葉子 は 畳みかけて 吐き出す ように いった 。 ・・
「 貞 世 は もう 死んで いる んです 。 それ を 知ら ない と でも あなた は 思って いらっしゃる の 。 あなた や 愛子 に 看護 して もらえば だれ でも ありがたい 往生 が できましょう よ 。 ほんとうに 貞 世 は 仕 合わせ な子 でした 。 …… お ゝ お ゝ 貞 世 ! お前 は ほんとに 仕 合わせ な子 だ ねえ 。 …… 岡 さん いって 聞か せて ください 、 貞 世 は どんな 死に かた を した か 。 飲みたい 死 に 水 も 飲 まず に 死にました か 。 あなた と 愛子 が お 庭 を 歩き回って いる うち に 死んで いました か 。 それとも …… それとも 愛子 の 目 が 憎 々 しく 笑って いる その 前 で 眠る ように 息 気 を 引き取りました か 。 どんな お 葬式 が 出た んです 。 早 桶 は どこ で 注文 なさった んです 。 わたし の 早 桶 の より 少し 大きく し ない と はいりません よ 。 …… わたし は なんという ばかだろう 早く 丈夫に なって 思いきり 貞 世 を 介抱 して やりたい と 思った のに …… もう 死んで しまった のです もの ねえ 。 うそ です …… それ から なぜ あなた も 愛子 も もっと しげしげ わたし の 見舞い に は 来て くださら ない の 。 あなた は きょう わたし を 苦し めに …… な ぶり に いら しった の ね ……」・・
「 そんな 飛んで も ない ! 」・・
岡 が せきこんで 葉子 の 言葉 の 切れ目 に いい出そう と する の を 、 葉子 は 激しい 笑い で さえぎった 。 ・・
「 飛んで も ない …… その とおり 。 あ ゝ 頭 が 痛い 。 わたし は 存分に 呪い を 受けました 。 御 安心な さい まし と も 。 決して お邪魔 は しません から 。 わたし は さんざん 踊りました 。 今度 は あなた 方 が 踊って いい 番 です もの ね 。 …… ふむ 、 踊れる もの なら みごとに 踊って ごらん なさい まし 。 …… 踊れる もの なら 、 は ゝ ゝ 」・・
葉子 は 狂 女 の ように 高々 と 笑った 。 岡 は 葉子 の 物 狂 おしく 笑う の を 見る と 、 それ を 恥じる ように まっ紅 に なって 下 を 向いて しまった 。 ・・
「 聞いて ください 」・・
やがて 岡 は こう いって きっと なった 。 ・・
「 伺いましょう 」・・
葉子 も きっと なって 岡 を 見 やった が 、 すぐ 口 じ り に むごたらしい 皮肉な 微笑 を たたえた 。 それ は 岡 の 気先 を さえ 折る に 充分な ほど の 皮肉 さ だった 。 ・・
「 お 疑い なさって も し かた が ありません 。 わたし 、 愛子 さん に は 深い 親し み を 感じて おります ……」・・ 「 そんな 事 なら 伺う まで も ありません わ 。 わたし を どんな 女 だ と 思って いらっしゃる の 。 愛子 さん に 深い 親し み を 感じて いらっしゃれば こそ 、 けさ は わざわざ 何 日 ごろ 死ぬ だろう と 見 に 来て くださった の ね 。 なんと お礼 を 申して いい か 、 そこ は お 察し ください まし 。 きょう は 手術 を 受けます から 、 死骸 に なって 手術 室 から 出て 来る 所 を よっく 御覧 なさって あなた の 愛子 に 知らせて 喜ば して やって ください まし よ 。 死に に 行く 前 に 篤と お礼 を 申します 。 絵 島 丸 で は いろいろ 御 親切 を ありがとう ございました 。 お陰 様 で わたし は さびしい 世の中 から 救い出さ れました 。 あなた を お にいさん と も お 慕い して いました が 、 愛子 に 対して も 気恥ずかしく なりました から 、 もう あなた と は 御 縁 を 断ちます 。 と いう まで も ない 事 です わ ね 。 もう 時間 が 来ます から お 立ち ください まし 」・・
「 わたし 、 ちっとも 知りません でした 。 ほんとうに その お からだ で 手術 を お 受け に なる のです か 」・・
岡 は あきれた ような 顔 を した 。 ・・
「 毎日 大学 に 行く つや は ばかです から 何も 申し上げ なかった んでしょう よ 。 申し上げて も お 聞こえ に なら なかった かも しれません わ ね 」・・
と 葉子 は ほほえんで 、 まっさおに なった 顔 に ふりかかる 髪 の 毛 を 左 の 手 で 器用に かき上げた 。 その 小指 は やせ細って 骨 ばかり の ように なり ながら も 、 美しい 線 を 描いて 折れ曲がって いた 。 ・・
「 それ は ぜひ お 延ばし ください お 願い します から …… お 医者 さん も お 医者 さん だ と 思います 」・・
「 わたし が わたし だ もん です から ね 」・・
葉子 は しげしげ と 岡 を 見 やった 。 その 目 から は 涙 が すっかり かわいて 、 額 の 所 に は 油 汗 が にじみ出て いた 。 触れて みたら 氷 の ようだろう と 思わ れる ような 青白い 冷た さ が 生えぎわ かけて 漂って いた 。 ・・
「 では せめて わたし に 立ち会わ して ください 」・・
「 それほど まで に あなた は わたし が お 憎い の ? …… 麻酔 中 に わたし の いう 囈口 でも 聞いて おいて 笑い話 の 種 に なさろう と いう の ね 。 え ゝ 、 ようご さ います いらっしゃい まし 、 御覧 に 入れます から 。 呪い の ため に やせ細って お 婆さん の ように なって しまった この からだ を 頭から 足 の 爪先 まで 御覧 に 入れます から …… 今さら お あきれ に なる 余地 も あります まい けれど 」・・
そう いって 葉子 は やせ細った 顔 に あらん限り の 媚 び を 集めて 、 流 眄 に 岡 を 見 やった 。 岡 は 思わず 顔 を そむけた 。 ・・
そこ に 若い 医 員 が つや を つれて は いって 来た 。 葉子 は 手術 の したく が できた 事 を 見て取った 。 葉子 は 黙って 医 員 に ちょっと 挨拶 した まま 衣 紋 を つくろって すぐ 座 を 立った 。 それ に 続いて 部屋 を 出て 来た 岡 など は 全く 無視 した 態度 で 、 怪しげな 薄暗い 階子 段 を 降りて 、 これ も 暗い 廊下 を 四五 間 たどって 手術 室 の 前 まで 来た 。 つや が 戸 の ハンドル を 回して それ を あける と 、 手術 室 から は さすが に まぶしい 豊かな 光線 が 廊下 の ほう に 流れて 来た 。 そこ で 葉子 は 岡 の ほう に 始めて 振り返った 。 ・・
「 遠方 を わざわざ 御苦労さま 。 わたし は まだ あなた に 肌 を 御覧 に 入れる ほど の 莫連 者 に は なって いません から ……」・・
そう 小さな 声 で いって 悠々と 手術 室 に は いって 行った 。 岡 は もちろん 押し切って あと に ついて は 来 なかった 。 ・・
着物 を 脱ぐ 間 に 、 世話に 立った つや に 葉子 は こう ようやく に して いった 。 ・・
「 岡 さん が はいりたい と おっしゃって も 入れて は いけない よ 。 それ から …… それ から ( ここ で 葉子 は 何 が なし に 涙ぐましく なった ) もし わたし が 囈言 の ような 事 でも いい かけたら 、 お前 に 一生 の お 願い だ から ね 、 わたし の 口 を …… 口 を 抑えて 殺して しまって おくれ 。 頼む よ 。 きっと ! 」・・
婦人 科 病院 の 事 とて 女 の 裸体 は 毎日 幾 人 と なく 扱い つけて いる くせ に 、 やはり 好 奇 な 目 を 向けて 葉子 を 見守って いる らしい 助手 たち に 、 葉子 はやせ さらば えた 自分 を さらけ出して 見せる の が 死ぬ より つらかった 。 ふとした 出来心 から 岡 に 対して いった 言葉 が 、 葉子 の 頭 に は いつまでも こびり付いて 、 貞 世 は もう ほんとうに 死んで しまった もの の ように 思えて しかたがなかった 。 貞 世 が 死んで しまった のに 何 を 苦しんで 手術 を 受ける 事 が あろう 。 そう 思わ ないで も なかった 。 しかし 場合 が 場合 で こう なる より しかたがなかった 。 ・・
まっ白 な 手術 衣 を 着た 医 員 や 看護 婦 に 囲まれて 、 やはり まっ白 な 手術 台 は 墓場 の ように 葉子 を 待って いた 。 そこ に 近づく と 葉子 は われ に も なく 急に おびえ が 出た 。 思いきり 鋭利な メス で 手ぎわ よく 切り取って しまったら さぞ さっぱり する だろう と 思って いた 腰部 の 鈍痛 も 、 急に 痛み が 止まって しまって 、 からだ 全体 が しびれる ように しゃち こばって 冷や汗 が 額 に も 手 に もし とど に 流れた 。 葉子 は ただ 一 つ の 慰藉 の ように つや を 顧みた 。 その つや の 励ます ような 顔 を ただ 一 つ の たより に して 、 細かく 震え ながら 仰向け に 冷やっと する 手術 台 に 横たわった 。 ・・
医 員 の 一 人 が 白 布 の 口 あて を 口 から 鼻 の 上 に あてがった 。 それ だけ で 葉子 は もう 息 気 が つまる ほど の 思い を した 。 そのくせ 目 は 妙に さえて 目の前 に 見る 天井 板 の 細かい 木 理 まで が 動いて 走る ように ながめられた 。 神経 の 末梢 が 大 風 に あった ように ざ わざ わ と 小気味 わるく 騒ぎ 立った 。 心臓 が 息 気 苦しい ほど 時々 働き を 止めた 。 ・・
やがて 芳 芬 の 激しい 薬 滴 が 布 の 上 に たらさ れた 。 葉子 は 両手 の 脈 所 を 医 員 に 取ら れ ながら 、 その 香 い を 薄気味わるく かいだ 。 ・・
「 ひと ー つ 」・・
執刀 者 が 鈍い 声 で こういった 。 ・・
「 ひと ー つ 」・・
葉子 の それ に 応ずる 声 は 激しく 震えて いた 。 ・・
「 ふた ー つ 」・・
葉子 は 生命 の 尊 さ を しみじみ と 思い知った 。 死 もしくは 死 の 隣 へ まで の 不思議な 冒険 …… そう 思う と 血 は 凍る か と 疑わ れた 。 ・・
「 ふた ー つ 」・・
葉子 の 声 は ますます 震えた 。 こうして 数 を 読んで 行く うち に 、 頭 の 中 が しんしんと 冴える ように なって 行った と 思う と 、 世の中 が ひとりでに 遠のく ように 思えた 。 葉子 は 我慢 が でき なかった 。 いきなり 右手 を 振り ほどいて 力任せに 口 の 所 を 掻 い 払った 。 しかし 医 員 の 力 は すぐ 葉子 の 自由 を 奪って しまった 。 葉子 は 確かに それ に あらがって いる つもりだった 。 ・・
「 倉地 が 生きて いる 間 ―― 死ぬ もの か 、…… どうしても もう 一 度 その 胸 に …… やめて ください 。 狂気 で 死ぬ と も 殺さ れ たく は ない 。 やめて …… 人殺し 」・・
そう 思った の か いった の か 、 自分 ながら どっち と も 定め かね ながら 葉子 は もだえた 。 ・・
「 生きる 生きる …… 死ぬ の は いやだ …… 人殺し ! ……」・・
葉子 は 力 の あらん限り 戦った 、 医者 と も 薬 と も …… 運命 と も …… 葉子 は 永久 に 戦った 。 しかし 葉子 は 二十 も 数 を 読ま ない うち に 、 死んだ 者 同様に 意識 なく 医 員 ら の 目の前 に 横たわって いた のだ 。