「五 」 二百十 日 夏目 漱石
「 おい 、 もう 飯 だ 、 起き ない か 」 「 うん 。
起き ない よ 」 「 腹 の 痛い の は 癒った かい 」 「 まあ 大抵 癒った ような もの だ が 、 この 様子 じゃ 、 いつ 痛く なる かも 知れ ない ね 。 ともかくも 饂飩 が 祟った んだ から 、 容易に は 癒 りそう も ない 」 「 その くらい 口 が 利 ければ たしかな もの だ 。 どう だい これ から 出掛け ようじゃ ない か 」 「 どこ へ 」 「 阿蘇 へ さ 」 「 阿蘇 へ まだ 行く 気 かい 」 「 無論 さ 、 阿蘇 へ 行く つもりで 、 出掛けた んだ もの 。
行か ない 訳 に は 行か ない 」 「 そんな もの か な 。
しかし この 豆 じゃ 残念 ながら 致し方 が ない 」 「 豆 は 痛む か ね 」 「 痛む の 何のって 、 こうして 寝て いて も 頭 へ ず うん ず うんと 響く よ 」 「 あんなに 、 吸殻 を つけて やった が 、 毫 も 利 目 が ない か な 」 「 吸殻 で 利 目 が あっちゃ 大変だ よ 」 「 だって 、 付けて やる 時 は 大いに ありがた そうだった ぜ 」 「 癒 る と 思った から さ 」 「 時に 君 は きのう 怒った ね 」 「 いつ 」 「 裸 で 蝙蝠 傘 を 引っ張る とき さ 」 「 だって 、 あんまり 人 を 軽蔑 する から さ 」 「 ハハハ しか し 御蔭 で 谷 から 出られた よ 。 君 が 怒ら なければ 僕 は 今頃 谷底 で 往生 して しまった かも 知れ ない ところ だ 」 「 豆 を 潰す の も 構わ ず に 引っ張った 上 に 、 裸 で 薄 の 中 へ 倒れて さ 。
それ で 君 は ありがたい と も 何とも 云 わ なかった ぜ 。
君 は 人情 の ない 男 だ 」 「 その代り この 宿 まで 担いで 来て やった じゃ ない か 」 「 担いで くる もの か 。
僕 は 独立 して 歩行 いて 来た んだ 」 「 それ じゃ ここ は どこ だ か 知って る かい 」 「 大 に 人 を 愚 弄した もの だ 。
ここ は どこ だって 、 阿蘇 町 さ 。
しかも ともかくも の 饂飩 を 強いられた 三 軒 置いて 隣 の 馬車 宿 だ あね 。 半日 山 の なか を 馳 け あるいて 、 ようやく 下りて 見たら 元 の 所 だ なんて 、 全体 何て え 間 抜 だろう 。
これ から もう 君 の 天 祐 は 信用 し ない よ 」 「 二百十 日 だった から 悪 る かった 」 「 そうして 山 の 中 で 芝居 染みた 事 を 云って さ 」 「 ハハハハ しか し あの 時 は 大いに 感服 して 、 うん 、 うん 、 て 云った ようだ ぜ 」 「 あの 時 は 感心 も した が 、 こう なって 見る と 馬鹿 気 てい ら あ 。 君 ありゃ 真面目 かい 」 「 ふ ふん 」 「 冗談 か 」 「 どっち だ と 思う 」 「 どっち でも 好 いが 、 真面目 なら 忠告 したい ね 」 「 あの 時 僕 の 経歴 談 を 聴か せろって 、 泣いた の は 誰 だい 」 「 泣きゃ し ない や ね 。 足 が 痛くって 心細く なった んだ ね 」 「 だって 、 今日 は 朝 から 非常に 元気じゃ ない か 、 昨日 た 別人 の 観 が ある 」 「 足 の 痛い に かかわら ず か 。 ハハハハ 。
実は あんまり 馬鹿 気 て いる から 、 少し 腹 を 立てて 見た の さ 」 「 僕 に 対して かい 」 「 だって ほか に 対する もの が ない から 仕方 が ない さ 」 「 いい 迷惑だ 。
時に 君 は 粥 を 食う なら 誂 ら えて やろう か 」 「 粥 も だ が だ ね 。
第 一 、 馬車 は 何 時 に 出る か 聞いて 貰いたい 」 「 馬車 で どこ へ 行く 気 だい 」 「 どこって 熊本 さ 」 「 帰る の かい 」 「 帰ら なくって どう する 。 こんな 所 に 馬車 馬 と 同居 して いちゃ 命 が 持た ない 。
ゆうべ 、 あの 枕元 で ぽんぽん 羽目 を 蹴ら れた に は 実に 弱った ぜ 」 「 そう か 、 僕 は ちっとも 知ら なかった 。
そんなに 音 が した か ね 」 「 あの 音 が 耳 に 入ら なければ 全く 剛 健 党 に 相違 ない 。
どうも 君 は 憎く らしい ほど 善く 寝る 男 だ ね 。
僕 に あれほど 堅い 約束 を して 、 経歴 談 を きかせる の 、 医者 の 日記 を 話す のって 、 いざ と なる と 、 まるで 正体 なし に 寝 ち まう んだ 。 ―― そうして 、 非常な いびき を かいて ――」 「 そう か 、 そりゃ 失敬 した 。
あんまり 疲れ 過ぎた んだ よ 」 「 時に 天気 は どう だい 」 「 上 天気 だ 」 「 くだらない 天気 だ 、 昨日 晴れれば いい 事 を 。
―― そうして 顔 は 洗った の かい 」 「 顔 は とうに 洗った 。
ともかくも 起き ない か 」 「 起きるって 、 ただ は 起きられ ない よ 。 裸 で 寝て いる んだ から 」 「 僕 は 裸 で 起きた 」 「 乱暴だ ね 。
いかに 豆腐 屋 育ち だって 、 あんまりだ 」 「 裏 へ 出て 、 冷水 浴 を して いたら 、 かみ さん が 着物 を 持って 来て くれた 。
乾いて る よ 。
ただ 鼠色 に なって る ばかりだ 」 「 乾いて る なら 、 取り寄せて やろう 」 と 碌 さん は 、 勢 よく 、 手 を ぽんぽん 敲く 。
台所 の 方 で 返事 が ある 。
男 の 声 だ 。
「 ありゃ 御者 か ね 」 「 亭主 かも 知れ ない さ 」 「 そう か な 、 寝 ながら 占って やろう 」 「 占って どう する ん だい 」 「 占って 君 と 賭 を する 」 「 僕 は そんな 事 は し ない よ 」 「 まあ 、 御者 か 、 亭主 か 」 「 どっち か なあ 」 「 さあ 、 早く きめた 。
そら 、 来る から さ 」 「 じゃ 、 亭主 に でも して 置こう 」 「 じゃ 君 が 亭主 に 、 僕 が 御者 だ ぜ 。
負けた 方 が 今 日一日 命令 に 服する んだ ぜ 」 「 そんな 事 は きめ やしない 」 「 御 早う …… 御呼び に なりました か 」 「 うん 呼んだ 。 ちょっと 僕 の 着物 を 持って 来て くれ 。
乾いて る だろう ね 」 「 ねえ 」 「 それ から 腹 が わるい んだ から 、 粥 を 焚 いて 貰いたい 」 「 ねえ 。 御 二 人 さん と も ……」 「 おれ は ただ の 飯 で 沢山だ よ 」 「 では 御 一 人 さん だけ 」 「 そうだ 。
それ から 馬車 は 何 時 と 何 時 に 出る か ね 」 「 熊本 通い は 八 時 と 一 時 に 出ますたい 」 「 それ じゃ 、 その 八 時 で 立つ 事 に する から ね 」 「 ねえ 」 「 君 、 いよいよ 熊本 へ 帰る の かい 。 せっかく ここ まで 来て 阿蘇 へ 上ら ない の は つまらない じゃ ない か 」 「 そりゃ 、 いけない よ 」 「 だって せっかく 来た のに 」 「 せっかく は 君 の 命令 に 因って 、 せっかく 来た に 相違 ない んだ が ね 。
この 豆 じゃ 、 どうにも 、 こう に も 、―― 天 祐 を 空しく する より ほか に 道 は ある まいよ 」 「 足 が 痛めば 仕方 が ない が 、―― 惜しい なあ 、 せっかく 思い立って 、―― いい 天気 だ ぜ 、 見た まえ 」 「 だ から 、 君 も いっしょに 帰り たまえ な 。
せっかく いっしょに 来た もの だ から 、 いっしょに 帰ら ない の は おかしい よ 」 「 しかし 阿蘇 へ 登り に 来た んだ から 、 登ら ないで 帰っちゃ あ 済まない 」 「 誰 に 済まない んだ 」 「 僕 の 主義 に 済まない 」 「 また 主義 か 。
窮屈な 主義 だ ね 。
じゃ 一 度 熊本 へ 帰って また 出直して くる さ 」 「 出直して 来ちゃ 気 が 済まない 」 「 いろいろな もの に 済まない んだ ね 。
君 は 元来 強情 過ぎる よ 」 「 そう で も ない さ 」 「 だって 、 今 まで ただ の 一 遍 でも 僕 の 云 う 事 を 聞いた 事 が ない ぜ 」 「 幾 度 も ある よ 」 「 な に 一 度 も ない 」 「 昨日 も 聞いて る じゃ ない か 。
谷 から 上がって から 、 僕 が 登ろう と 主張 した の を 、 君 が 何でも 下りよう と 云 う から 、 ここ まで 引き返した じゃ ない か 」 「 昨日 は 格別 さ 。
二百十 日 だ もの 。
その代り 僕 は 饂飩 を 何遍 も 喰って る じゃ ない か 」 「 ハハハハ 、 ともかくも ……」 「 まあ いい よ 。 談判 は あと に して 、 ここ に 宿 の 人 が 待って る から ……」 「 そう か 」 「 おい 、 君 」 「 ええ 」 「 君 じゃ ない 。
君 さ 、 おい 宿 の 先生 」 「 ねえ 」 「 君 は 御者 かい 」 「 いいえ 」 「 じゃ 御 亭主 かい 」 「 いいえ 」 「 じゃ 何 だい 」 「 雇 人 で ……」 「 お やおや 。
それ じゃ 何にも なら ない 。
君 、 この 男 は 御者 でも 亭主 で も ない んだ と さ 」 「 うん 、 それ が どうした ん だ 」 「 どうした ん だって ―― まあ 好 いや 、 それ じゃ 。
いい よ 、 君 、 彼方 へ 行って も 好 いよ 」 「 ねえ 。
では 御 二 人 さん と も 馬車 で 御 越し に なります か 」 「 そこ が 今 悶着 中 さ 」 「 へ へ へ へ 。 八 時 の 馬車 は もう 直ぐ 、 支度 が 出来ます 」 「 うん 、 だ から 、 八 時 前 に 悶着 を かたづけて 置こう 。 ひとまず 引き取って くれ 」 「 へ へ へ へ 御 緩っく り 」 「 おい 、 行って しまった 」 「 行く の は 当り前 さ 。 君 が 行け 行け と 催促 する から さ 」 「 ハハハ ありゃ 御者 でも 亭主 で も ない んだ と さ 。
弱った な 」 「 何 が 弱った ん だい 」 「 何 がって 。 僕 は こう 思って た の さ 。
あの 男 が 御者 です と 云 うだろう 。
すると 僕 が 賭 に 勝つ 訳 に なる から 、 君 は 何でも 僕 の 命令 に 服さ なければ なら なく なる 」 「 なる もの か 、 そんな 約束 は し やしない 」 「 なに 、 した と 見 傚 すんだ ね 」 「 勝手に かい 」 「 曖昧に さ 。
そこ で 君 は 僕 と いっしょに 熊本 へ 帰ら なくっちゃ あ 、 なら ない と 云 う 訳 さ 」 「 そんな 訳 に なる か ね 」 「 なる と 思って 喜 こんで た が 、 雇 人だって 云 う から しようがない 」 「 そりゃ 当人 が 雇 人 だ と 主張 する んだ から 仕方 が ない だろう 」 「 もし 御者 です と 云ったら 、 僕 は 彼 奴 に 三十 銭 やる つもりだった のに 馬鹿な 奴 だ 」 「 何にも 世話に なら ない のに 、 三十 銭 やる 必要 は ない 」 「 だって 君 は 一 昨夜 、 あの 束 髪 の 下 女 に 二十 銭 やった じゃ ない か 」 「 よく 知って る ね 。 ―― あの 下 女 は 単純で 気 に 入った んだ もの 。
華族 や 金持ち より 尊敬 す べき 資格 が ある 」 「 そら 出た 。
華族 や 金持ち の 出 ない 日 は ない ね 」 「 いや 、 日 に 何遍 云って も 云 い 足りない くらい 、 毒々しくって ずうずうしい 者 だ よ 」 「 君 が かい 」 「 なあ に 、 華族 や 金持ち が さ 」 「 そう か な 」 「 例えば 今日 わるい 事 を する ぜ 。 それ が 成功 し ない 」 「 成功 し ない の は 当り前だ 」 「 する と 、 同じ ような わるい 事 を 明日 やる 。
それ でも 成功 し ない 。
すると 、 明後日 に なって 、 また 同じ 事 を やる 。
成功 する まで は 毎日 毎日 同じ 事 を やる 。
三百六十五 日 でも 七百五十 日 でも 、 わるい 事 を 同じ ように 重ねて 行く 。
重ねて さえ 行けば 、 わるい 事 が 、 ひっくり返って 、 いい 事 に なる と 思って る 。
言語道断だ 」 「 言語道断だ 」 「 そんな もの を 成功 さ せたら 、 社会 は めちゃくちゃだ 。
おい そうだろう 」 「 社会 は めちゃくちゃだ 」 「 我々 が 世の中 に 生活 して いる 第 一 の 目的 は 、 こう 云 う 文明 の 怪獣 を 打ち 殺して 、 金 も 力 も ない 、 平民 に 幾分 でも 安 慰 を 与える のに ある だろう 」 「 ある 。
うん 。
ある よ 」 「 ある と 思う なら 、 僕 と いっしょに やれ 」 「 うん 。
やる 」 「 きっと やる だろう ね 。
いい か 」 「 きっと やる 」 「 そこ で ともかくも 阿蘇 へ 登ろう 」 「 うん 、 ともかくも 阿蘇 へ 登る が よかろう 」 二 人 の 頭 の 上 で は 二百十一 日 の 阿蘇 が 轟 々 と 百 年 の 不平 を 限りなき 碧 空 に 吐き出して いる 。