Section 016 - Kokoro - Soseki Project
ある 時 私 は 先生 の 宅 で 酒 を 飲ま さ れた 。 その 時 奥さん が 出て 来て 傍 で 酌 を して くれた 。 先生 は いつも より 愉快 そうに 見えた 。 奥さん に 「 お前 も 一 つ お 上がり 」 と いって 、 自分 の 呑 み 干した 盃 を 差した 。 奥さん は 「 私 は ……」 と 辞退 し かけた 後 、 迷惑 そうに それ を 受け取った 。 奥さん は 綺麗な 眉 を 寄せて 、 私 の 半分 ばかり 注いで 上げた 盃 を 、 唇 の 先 へ 持って行った 。 奥さん と 先生 の 間 に 下 の ような 会話 が 始まった 。
「 珍 らしい 事 。 私 に 呑 め と おっしゃった 事 は 滅多に ない のに ね 」
「 お前 は 嫌いだ から さ 。 しかし 稀に は 飲む と いい よ 。 好 い 心 持 に なる よ 」
「 ちっとも なら ない わ 。 苦しい ぎり で 。 でも あなた は 大変 ご 愉快 そう ね 、 少し ご 酒 を 召し上がる と 」
「 時に よる と 大変 愉快に なる 。 しかし いつでも と いう わけに は いか ない 」
「 今夜 は いかがです 」
「 今夜 は 好 い 心 持 だ ね 」
「 これ から 毎晩 少しずつ 召し上がる と 宜 ご ざん す よ 」
「 そう は いか ない 」
「 召し上がって 下さい よ 。 その方 が 淋しく なくって 好 いから 」 先生 の 宅 は 夫婦 と 下 女 だけ であった 。 行く たび に 大抵 は ひそ り と して いた 。 高い 笑い声 など の 聞こえる 試し は まるで なかった 。 或る 時 は 宅 の 中 に いる もの は 先生 と 私 だけ の ような 気 が した 。
「 子供 で も ある と 好 いん です が ね 」 と 奥さん は 私 の 方 を 向いて いった 。 私 は 「 そう です な 」 と 答えた 。 しかし 私 の 心 に は 何の 同情 も 起ら なかった 。 子供 を 持った 事 の ない その 時 の 私 は 、 子供 を ただ 蒼蠅 いもの の ように 考えて いた 。
「 一 人 貰って やろう か 」 と 先生 が いった 。
「 貰 ッ 子 じゃ 、 ねえ あなた 」 と 奥さん は また 私 の 方 を 向いた 。
「 子供 は いつまで 経ったって できっこ ない よ 」 と 先生 が いった 。 奥さん は 黙って いた 。 「 なぜ です 」 と 私 が 代り に 聞いた 時 先生 は 「 天罰 だ から さ 」 と いって 高く 笑った 。