Section 032 - Kokoro - Soseki Project
私 は 奥さん の 後 に 尾 いて 書斎 を 出た 。 茶の間 に は 綺麗な 長火鉢 に 鉄瓶 が 鳴って いた 。 私 は そこ で 茶 と 菓子 の ご馳走 に なった 。 奥さん は 寝られ ない と いけない と いって 、 茶碗 に 手 を 触れ なかった 。 「 先生 は やっぱり 時々 こんな 会 へ お 出掛け に なる んです か 」
「 いいえ 滅多に 出た 事 は ありません 。 近頃 は 段々 人 の 顔 を 見る の が 嫌いに なる ようです 」
こういった 奥さん の 様子 に 、 別段 困った もの だ と いう 風 も 見え なかった ので 、 私 は つい 大胆に なった 。
「 それ じゃ 奥さん だけ が 例外 な んです か 」
「 いいえ 私 も 嫌われて いる 一 人 な んです 」 「 そりゃ 嘘 です 」 と 私 が いった 。 「 奥さん 自身 嘘 と 知り ながら そう おっしゃる んでしょう 」
「 なぜ 」
「 私 に いわ せる と 、 奥さん が 好きに なった から 世間 が 嫌いに なる んです もの 」
「 あなた は 学問 を する 方 だけ あって 、 なかなか お 上手 ね 。 空っぽな 理屈 を 使いこなす 事 が 。 世の中 が 嫌いに なった から 、 私 まで も 嫌いに なった んだ と も いわ れる じゃ ありません か 。 それ と 同 なじ 理屈 で 」
「 両方 と も いわ れる 事 は いわ れます が 、 この 場合 は 私 の 方 が 正しい のです 」 「 議論 は いや よ 。 よく 男 の 方 は 議論 だけ なさる の ね 、 面白 そうに 。 空 の 盃 で よく ああ 飽き ず に 献 酬 が できる と 思います わ 」 奥さん の 言葉 は 少し 手痛かった 。 しかし その 言葉 の 耳 障 から いう と 、 決して 猛烈な もの で は なかった 。 自分 に 頭脳 の ある 事 を 相手 に 認め させて 、 そこ に 一種 の 誇り を 見出す ほど に 奥さん は 現代 的で なかった 。 奥さん は それ より もっと 底 の 方 に 沈んだ 心 を 大事に して いる らしく 見えた 。