16.1 或る 女
葉子 は ほんとうに 死 の 間 を さまよい 歩いた ような 不思議な 、 混乱 した 感情 の 狂い に 泥酔 して 、 事務 長 の 部屋 から 足 もと も 定まら ず に 自分 の 船室 に 戻って 来た が 、 精 も 根 も 尽き 果てて そのまま ソファ の 上 にぶっ倒れた 。 目 の まわり に 薄 黒い 暈 の できた その 顔 は 鈍い 鉛 色 を して 、 瞳孔 は 光 に 対して 調節 の 力 を 失って いた 。 軽く 開いた まま の 口 び る から もれる 歯 並み まで が 、 光 なく 、 ただ 白く 見 やられて 、 死 を 連想 さ せる ような 醜い 美し さ が 耳 の 付け根 まで みなぎって いた 。 雪 解 時 の 泉 の ように 、 あらん限り の 感情 が 目まぐるしく わき上がって いた その 胸 に は 、 底 の ほう に 暗い 悲哀 が こ ちん と よどんで いる ばかりだった 。 ・・
葉子 は こんな 不思議な 心 の 状態 から のがれ 出よう と 、 思い出した ように 頭 を 働か して 見た が 、 その 努力 は 心 に も なく かすかな はかない もの だった 。 そして その 不思議に 混乱 した 心 の 状態 も いわば たえ きれ ぬ ほど の 切な さ は 持って い なかった 。 葉子 は そんなに して ぼんやり と 目 を さまし そうに なったり 、 意識 の 仮 睡 に 陥ったり した 。 猛烈な 胃 痙攣 を 起こした 患者 が 、 モルヒネ の 注射 を 受けて 、 間 歇的 に 起こる 痛み の ため に 無意識に 顔 を しかめ ながら 、 麻薬 の 恐ろしい 力 の 下 に 、 ただ 昏々 と 奇怪な 仮 睡 に 陥り 込む ように 、 葉子 の 心 は 無理 無 体 な 努力 で 時々 驚いた ように 乱れ さわぎ ながら 、 たちまち 物 すごい 沈滞 の 淵 深く 落ちて 行く のだった 。 葉子 の 意志 は いかに 手 を 延ばして も 、 もう 心 の 落ち 行く 深み に は 届き かねた 。 頭 の 中 は 熱 を 持って 、 ただ ぼ ー と 黄色く 煙って いた 。 その 黄色い 煙 の 中 を 時々 紅 い 火 や 青い 火 が ちか ちか と 神経 を うずか して 駆け 通った 。 息 気づ まる ような けさ の 光景 や 、 過去 の あらゆる 回想 が 、 入り乱れて 現われて 来て も 、 葉子 は それ に 対して 毛 の 末 ほど も 心 を 動かさ れ は し なかった 。 それ は 遠い 遠い 木魂 の ように うつろに かすかに 響いて は 消えて 行く ばかりだった 。 過去 の 自分 と 今 の 自分 と の これほど な 恐ろしい 距 り を 、 葉子 は 恐れ げ も なく 、 成る が まま に 任せて 置いて 、 重く よどんだ 絶望 的な 悲哀 に ただ わけ も なく どこまでも 引っぱられて 行った 。 その先 に は 暗い 忘却 が 待ち 設けて いた 。 涙 で 重った まぶた は だんだん 打ち 開いた まま の ひとみ を 蔽って 行った 。 少し 開いた 口 び る の 間 から は 、 うめく ような 軽い 鼾 が もれ 始めた 。 それ を 葉子 は かすかに 意識 し ながら 、 ソファ の 上 に うつむき に なった まま 、 いつ と はなし に 夢 も ない 深い 眠り に 陥って いた 。 ・・
どの くらい 眠って いた か わから ない 。 突然 葉子 は 心臓 でも 破裂 し そうな 驚き に 打たれて 、 はっと 目 を 開いて 頭 を もたげた 。 ず き /\/\ と 頭 の 心 が 痛んで 、 部屋 の 中 は 火 の ように 輝いて 面 も 向けられ なかった 。 もう 昼 ごろ だ な と 気 が 付く 中 に も 、 雷 と も 思わ れる 叫 喚 が 船 を 震わして 響き渡って いた 。 葉子 は この 瞬間 の 不思議に 胸 を どき つかせ ながら 聞き 耳 を 立てた 。 船 の おののき と も 自分 の おののき と も 知れ ぬ 震動 が 葉子 の 五 体 を 木 の 葉 の ように もてあそんだ 。 しばらく して その 叫 喚 が やや しずまった ので 、 葉子 は ようやく 、 横浜 を 出て 以来 絶えて 用いられ なかった 汽笛 の 声 である 事 を 悟った 。 検疫 所 が 近づいた のだ な と 思って 、 襟 もと を かき 合わせ ながら 、 静かに ソファ の 上 に 膝 を 立てて 、 眼 窓 から 外面 を のぞいて 見た 。 けさ まで は 雨雲 に 閉じられて いた 空 も 見違える ように からっと 晴れ渡って 、 紺 青 の 色 の 日 の 光 の ため に 奥深く 輝いて いた 。 松 が 自然に 美しく 配置 されて 生え 茂った 岩 が かった 岸 が すぐ 目 の 先 に 見えて 、 海 は いかにも 入り江 らしく 可憐な さざ波 を つらね 、 その 上 を 絵 島 丸 は 機関 の 動 悸 を 打ち ながら 徐 か に 走って いた 。 幾 日 の 荒々しい 海路 から ここ に 来て 見る と 、 さすが に そこ に は 人間 の 隠れ 場 らしい 静か さ が あった 。 ・・
岸 の 奥まった 所 に 白い 壁 の 小さな 家屋 が 見られた 。 その かたわら に は 英国 の 国旗 が 微風 に あおられて 青空 の 中 に 動いて いた 。 「 あれ が 検疫 官 の いる 所 な のだ 」 そう 思った 意識 の 活動 が 始まる や 否 や 、 葉子 の 頭 は 始めて 生まれ 代わった ように はっきり と なって 行った 。 そして 頭 が はっきり して 来る と ともに 、 今 まで 切り 放されて いた すべて の 過去 が あるべき 姿 を 取って 、 明瞭に 現在 の 葉子 と 結び付いた 。 葉子 は 過去 の 回想 が 今 見た ばかりの 景色 から でも 来た ように 驚いて 、 急いで 眼 窓 から 顔 を 引っ込めて 、 強敵 に 襲いかから れた 孤軍 の ように 、 たじろぎ ながら また ソファ の 上 に 臥 倒れた 。 頭 の 中 は 急に 叢 が り 集まる 考え を 整理 する ため に 激しく 働き 出した 。 葉子 は ひとりでに 両手 で 髪 の 毛 の 上 から こめかみ の 所 を 押えた 。 そして 少し 上 目 を つかって 鏡 の ほう を 見 やり ながら 、 今 まで 閉 止して いた 乱 想 の 寄せ 来る まま に 機敏に それ を 送り 迎えよう と 身構えた 。 ・・
葉子 は とにかく 恐ろしい 崕 の きわ まで 来て しまった 事 を 、 そして ほとんど 無 反省 で 、 本能 に 引きずら れる ように して 、 その 中 に 飛び込んだ 事 を 思わ ない わけに は 行か なかった 。 親類 縁者 に 促されて 、 心 に も ない 渡 米 を 余儀なく さ れた 時 に 自分 で 選んだ 道 ―― ともかく 木村 と 一緒に なろう 。 そして 生まれ 代わった つもりで 米国 の 社会 に はいりこんで 、 自分 が 見つけ あぐねて いた 自分 と いう もの を 、 探り 出して みよう 。 女 と いう もの が 日本 と は 違って 考えられて いる らしい 米国 で 、 女 と して の 自分 が どんな 位置 に すわる 事 が できる か 試して みよう 。 自分 は どうしても 生ま る べきで ない 時代 に 、 生ま る べきで ない 所 に 生まれて 来た のだ 。 自分 の 生ま る べき 時代 と 所 と は どこ か 別に ある 。 そこ で は 自分 は 女王 の 座 に なおって も 恥ずかしく ない ほど の 力 を 持つ 事 が できる はずな のだ 。 生きて いる うち に そこ を さがし出したい 。 自分 の 周囲 に まつわって 来 ながら いつのまにか 自分 を 裏切って 、 いつ どんな 所 に でも 平気で 生きて いられる ように なり果てた 女 たち の 鼻 を あかさ して やろう 。 若い 命 を 持った うち に それ だけ の 事 を ぜひ して やろう 。 木村 は 自分 の この 心 の 企み を 助ける 事 の できる 男 で は ない が 、 自分 の あと に ついて 来られ ない ほど の 男 で も ある まい 。 葉子 は そんな 事 も 思って いた 。 日 清 戦争 が 起こった ころ から 葉子 ぐらい の 年配 の 女 が 等しく 感じ 出した 一種 の 不安 、 一種 の 幻滅 ―― それ を 激しく 感じた 葉子 は 、 謀 叛人 の ように 知らず知らず 自分 の まわり の 少女 たち に ある 感情 的な 教 唆 を 与えて いた のだ が 、 自分 自身 で すら が どうして この 大事な 瀬戸ぎわ を 乗り 抜ける の か は 、 少しも わから なかった 。 そのころ の 葉子 は 事 ごと に 自分 の 境遇 が 気 に くわ ないで ただ いらいら して いた 。 その 結果 は ただ 思う まま を 振る舞って 行く より しかたがなかった 。 自分 は どんな 物 から も ほんとうに 訓練 されて は いない んだ 。 そして 自分 に は どうにでも 働く 鋭い 才能 と 、 女 の 強 味 ( 弱 味 と も いわば いえ ) に なる べき 優れた 肉体 と 激しい 情緒 と が ある のだ 。 そう 葉子 は 知らず知らず 自分 を 見て いた 。 そこ から 盲 滅法に 動いて 行った 。 ことに 時代 の 不思議な 目ざめ を 経験 した 葉子 に 取って は 恐ろしい 敵 は 男 だった 。 葉子 は その ため に なんど つまずいた か しれ ない 。 しかし 、 世の中 に は ほんとうに 葉子 を 扶 け 起こして くれる 人 が なかった 。 「 わたし が 悪ければ 直す だけ の 事 を して 見せて ごらん 」 葉子 は 世の中 に 向いて こう いい放って やり たかった 。 女 を 全く 奴隷 の 境界 に 沈め 果てた 男 は もう 昔 の アダム の ように 正直で は ない んだ 。 女 が じっと して いる 間 は 慇懃 に して 見せる が 、 女 が 少し でも 自分 で 立ち上がろう と する と 、 打って変わって 恐ろしい 暴 王 に なり 上がる のだ 。 女 まで が おめおめ と 男 の 手伝い を して いる 。 葉子 は 女学校 時代 に したたか その 苦い 杯 を なめさ せられた 。 そして 十八 の 時 木部 孤 に 対して 、 最初の 恋愛 らしい 恋愛 の 情 を 傾けた 時 、 葉子 の 心 は もう 処女 の 心 で は なく なって いた 。 外界 の 圧迫 に 反抗 する ばかりに 、 一 時 火 の ように 何物 を も 焼き 尽くして 燃え上がった 仮初め の 熱情 は 、 圧迫 の ゆるむ と ともに もろくも 萎えて しまって 、 葉子 は 冷静な 批評 家 らしく 自分 の 恋 と 恋 の 相手 と を 見た 。 どうして 失望 し ないで いられよう 。 自分 の 一生 が この 人 に 縛りつけられて しなびて 行く の か と 思う 時 、 また いろいろな 男 に もてあそば れ かけて 、 かえって 男 の 心 と いう もの を 裏返して とっくり と 見きわめた その 心 が 、 木部 と いう 、 空想 の 上 で こそ 勇気 も 生 彩 も あれ 、 実 生活 に おいて は 見下げ 果てた ほど 貧弱 で 簡単な 一 書生 の 心 と しいて 結びつか ねば なら ぬ と 思った 時 、 葉子 は 身ぶるい する ほど 失望 して 木部 と 別れて しまった のだ 。