昭和 10 年 8 月 15 日
昭和 10 年 8 月 15 日
夜 、 黒々 と した 水面 に 月 明かり を 揺ら せて いた 海 は 、 朝 に なる と すっかり 干上がり 、 その 底 を さらして いた 。
朝日 に 照らさ れ 黄金色 に 輝く 海 の 底 は 、 神様 の 遊び場 の ようで 、 今 から ここ を 渡る のだ と 思う と すず は ドキドキ して しまう 。
大潮 の 朝 、 遠浅 の 広島 湾 は すずの 家 の ある 江波 から 叔父 や 祖母 ら が 暮らす 草津 まで 陸 続き と なり 、 徒歩 で 訪ねて いける のだ 。
父 の 十郎 と 母 の キセノ は 町 で 用 を 足して から 向かう ので 、 海 を 渡る の は 子ども たち だけ だ 。
出発 の 前 、 叔父 の 家 まで の 道順 や 挨拶 の 口上 など 父 と 母 から くどい くらい に 注意 を 受けた が 、 すず は もちろん 、 兄 の 要 一 も 妹 の すみ も どこ か 上の空 だった 。
「 子ども だけ で 海 、 渡る の は 初めて じゃ あ 。 楽しい ねえ ! 」 堤防 を 下りる と 、 いきなり すみ が 駆け 出した 。 すそ を 結んだ 着物 から 伸びた は だし の 足 が 泥 を はねる 。
はしゃいで 駆け 回る すみ を 、 すぐに 要一 が 追い抜いた 。
「 ええ か 。 草津 の おじ ちゃん 、 おばちゃん 、 おばあ ちゃん 、 おはよう ございます は わし が 言う 」 スイカ を 包んだ 風呂敷 を さげた 要一 が 妹 たち を 振り返り 、 言った 。 「 お 父さん ら は 町 へ 寄る け え おそう なります 」 「 スイカ どうぞ 」
すず と すみ が 自分 の セリフ を 確認 する ように くり返す 。
しばらく 歩く と 、 要一 の 肩 が 落ちて きた 。 スイカ は 相当 重い ようだ 。
「 すみ が スイカ 持つ う ~!!」
「 うるさい ! 要一 は まとわり つく すみ の 頭 に ゲンコツ を 食らわ せる と 、 なぜ か すず の 頭 も ゴツン 。 「! ……」
そうして 、「 ほれ 」 と すず に スイカ を 押しつける と スタスタ と 先 に 行って しまう 。 思った 以上 に スイカ は 重かった 。
いつの間にか 日 も 高く なり ジリジリ と 子ども たち を や 灼 いて いく 。
歩き 疲れた の か 、 すみ が しゃがみこみ 、 駄々 を こね だした 。
「 すず ちゃん 、 おんぶ ~」 すず は 落ちて いた 木 の 枝 で 、 足元 の 砂 泥 に 絵 を 描き はじめた 。 「 すみ ちゃん 、 こりゃ なん じゃ ? 」 すみ は 立ち上がり 、 すず の ほう に 歩み寄る と 、 泥 に 描か れた 絵 を 覗きこむ 。 「 にわとり ! 「 じゃあ ねえ 」 と すず は 先 に 進み 、 また 絵 を 描き はじめた 。
「 これ は ? 」 あわてて すみ は すず に 追いついた 。 「…… お 母ちゃん 」
「 ご 名答 」 と すず は すみ の 頭 を 撫でた 。
「 じゃあ 、 次 は ね 」 と また 歩き 出す 。
しかし 、 すみ は 絵 を 見た まま 動か ない 。
「…… お 母ちゃん 、 おんぶ ……」 しまった ……。 「 うわ ー 、 こりゃ な んじゃ ろか !?」 すず は 絵 を 描き ながら 楽しげな 声 を 上げた 。 泥 に 描いた の は 鬼 の ような 兄 の 顔 だった 。
目 を 三角 に して 口 から は 火 を 吹いて いる 。
興味 を 引か れた すみ が やって 来た 。 絵 を 見る なり 、「 おに ! 」 と 答える 。
「 惜しい 。 おに は おに でも お に いちゃ ──」
いきなり 目の前 で 火花 が 散った 。
あまり に ふた り が 遅い ので 、 戻って きた 要一 が すず の 頭 に ゲンコツ を お 見舞い した のだ 。
「 ほん ま トロ い のう ! 遊び よる ヒマ なかろう が !!」
やっぱり 、 鬼 い ちゃん じゃ ……。 片手 で さげる に は もう 重 すぎて 、 すず は スイカ を 両手 で 抱え 上げた 。
顔 の 前 まで 持ち上げ 、 うん しょう ん しょ と 歩き 出す 。
視界 が ふさがり 、 前 を 行く 要一 が 立ち止まった の に 気づか なかった 。
ゴツン と いう 衝撃 に 、「 ん ? 」 と スイカ を 下ろした 。
要一 が 泥 の 中 に うつぶせ に 倒れ 、 ぴく ぴく して いる 。
面白がって すみ が その 上 に 駆け上がった 。
「 ぐ えっ」 あり ゃま ……。 ヌッ と 顔 を 上げた 要一 は 泥 だらけ の 鬼 い ちゃん と 化して いた 。
「 す ず 、 すみ 、 お前 ら ……! 「…… おはよう ございます 」
「 父 と 母 は …… えー ……」
「 スイ ……」
泥 だらけ の その 姿 に 笑い 、 叔母 の マリナ が 杓 で 三 人 に 水 を かけて いく 。
三 人 は 頭 から 水 を 浴び ながら 、 たどたどしく それぞれ の 口上 を 述べた 。
「 あり が と ね 。 お 供え しよう ね 」 赤ん坊 を 背 に 微笑む 叔母 の 横 で 、 毎度 毎度 の 「 大きく なった なぁ 」 の 言葉 も 忘れ 、 叔父 が あきれた ように 三 人 を 見つめて いる 。
盆 の 里帰り の たび に 祖母 の イト は 、 孫 たち の ため に 新しい 着物 を 仕立てて 待って いて くれた 。
すず が イト に 着物 を 着付けて もらって いる と 、 父 と 母 も 到着 した 。
みんな で 墓参り を すませ 、 家 に 戻る と 昼 を 過ぎて いた 。
すぐに 叔母 や 母 が 昼食 の 用意 に とりかかる 。
ぶっか け ソーメン 、 ミョウガ と 小 ナス の 浅 漬け 、 小 イワシ の 煮物 、 分 葱 の ぬ た 。
食後 に は 井戸水 で 冷やした スイカ も 出た 。
お腹 いっぱい に なった 子ども たち は 、 ここ まで 徒歩 で 来た 疲れ も あり 、 涼しい 仏 間 で 昼寝 を 始めた 。
ふと 何 か を 感じ 、 すず は 目 を 開けた 。
右 隣 から は すみ の かすかな 寝息 が 、 左隣 から は 要一 の いびき が 聞こえて くる 。
すず は 天井 板 の 木目 を 指 で なぞる よう に 追いかけ 、 視線 を 移動 さ せた 。 角 で すず の 視線 は 止まった 。 天井 板 が 一 枚 外さ れ 、 そこ から 女の子 が こっち を 覗いて いる のだ 。
驚き の あまり すず は 口 を ポカン と 開けた まま 固まって しまう 。
女の子 は 長 押 に 足 を かけ 、 ひらり と 天井 から 床 へ と 降りる と 、 すず たち の 枕元 を スタスタ と 横切って いく 。
すず は ゆっくり と 身 を 起こした 。
女の子 は 自分 と 同い年 くらい だろう か 。
髪 の 毛 は 乱れ 、 着物 も ボロボロ だ 。
( 女の子 は ) 縁側 に あぐら を かく と 、 すず たち が 食べた スイカ の 皮 を 一心不乱 に かじって いる 。
しゃく しゃ くしゃくしゃ く 、 しゃ くしゃくしゃ く しゃく 。
すず は 思い切って 、 女の子 に 声 を かけ た 。
「 こん …… にち は ……」 女の子 は 振り向き 、 すず を まじまじ と 見つめる 。 そして 、 小さく お辞儀 を した 。
すず も コクン と お辞儀 を 返す 。
すず は 立ち上がり 、 スイカ を 指さした 。
「 あの …… それ 、 もっと もろう てきましょう か 」 女の子 は 小さく うなずいた 。 「 おば ちゃ ー ん 」 と すず は 仏 間 を 出て いく 。
しかし 、 新しく 切って もらった スイカ を 持って 戻る と 、 縁側 に 女の子 の 姿 は なかった 。 仏 間 で は 父 の 十郎 が 要一 と すみ を 起こして いる 。
「 ほれ 、 潮 が 引いて きた け え 支度 せ え 」 スイカ の 皿 を 持った まま すず が 立ち尽くして いる と 、 乾いた すず の 着物 を 持った イト が やってきた 。 「 放っときゃ あと で 食べ に きん さって よ 」 と すず に ささやく 。 すず は うなずき 、 イト が 手 に した 着物 に 目 を 落とした 。
「 ほしたら …… 着物 も 置 い とったら 着 に きて か ねえ ? 」 イト は 微笑み 、 すず の 頭 を 撫でた 。 「 すず ちゃん は 優しい ねえ 」 イト の 言葉 に すず は 少し 戸惑う 。 夕 陽 が 沈み はじめ 、 周囲 を 橙色 へ と 染めて いく 頃 、 ふたたび 海 は 底 を 見せた 。
沖 に 広がる 赤い 海 を 横目 に 、 浦野 家 一行 は 家路 を 急ぐ 。
「 そい つ は 学校 の 先生 が 言う とった 座敷 わら し じゃ ない か の ぉ 。
あれ が いる 家 は 縁起 がえ えんじゃ と 」 畳んだ 着物 を 頭 に のせた 要一 が 、 すず の 話 に そう 返す 。 「 ふ ~ ん 」 すみ は 父 の 背中 に お ぶ さり 、 眠って いる 。 その あと を 母 が ゆっくり と ついてくる 。
四 つ の 長い 影法師 が すずの 前 を 進んで いく 。
ひと から 優しい と 言わ れた の は 初めて だった から 、 今 の すず の 目 に は 景色 も 人 も なんだか あたたかく かすんで 見えた 。
目 を つぶる と 、 座敷 わら し の 女の子 が 針 仕事 を する 祖母 を 見つめて いる 光景 が 浮かんだ 。
祖母 は ボロ い 着物 を つくろって おり 、 座敷 わら し は すず の 着物 を 着て 、 うれし そう に 微笑んで いる 。
「 は ぁ !? 草津 に 着物 、 置いて きた ぁ ~? その 夜 、 晩 ごはん を 食べ ながら すず が おずおず と 告白 する と 、 要一 は 目 を 三角 に して すず を にらんだ 。
「 今 から 泳いで とって こい や 、 ボケ ! 」 ゲンコツ を 食らって じん じん する 頭 に 手 を やり 、 すず は ため息 を ついた 。 ばあちゃん が あんな こと 言う から 、 鬼 い ちゃん が 怖い の 忘れて たわ ……。