羅生門 (1914) (アクセス)
羅 生 門
ある 日 の 暮 方 の 事 である 。 一 人 の 下 人 が 、 羅 生 門 の 下 で 雨 やみ を 待って いた 。 ・・
広い 門 の 下 に は 、 この 男 の ほか に 誰 も いない 。 ただ 、 所々 丹 塗 の 剥げた 、 大きな 円柱 に 、 蟋蟀 が 一 匹 と まって いる 。 羅 生 門 が 、 朱雀 大路 に ある 以上 は 、 この 男 の ほか に も 、 雨 やみ を する 市 女 笠 や 揉 烏帽子 が 、 もう 二三 人 は あり そうな もの である 。 それ が 、 この 男 の ほか に は 誰 も いない 。 ・・
何故 か と 云 う と 、 この 二三 年 、 京都 に は 、 地震 と か 辻 風 と か 火事 と か 饑饉 と か 云 う 災 が つづいて 起った 。 そこ で 洛中 の さびれ 方 は 一 通り で は ない 。 旧 記 に よる と 、 仏像 や 仏具 を 打砕いて 、 その 丹 が ついたり 、 金銀 の 箔 が ついたり した 木 を 、 路 ば た に つみ重ねて 、 薪 の 料 に 売って いた と 云 う 事 である 。 洛中 が その 始末 である から 、 羅 生 門 の 修理 など は 、 元 より 誰 も 捨てて 顧 る 者 が なかった 。 する と その 荒れ果てた の を よい 事 に して 、 狐 狸 が 棲 む 。 盗人 が 棲 む 。 とうとう しまい に は 、 引取り手 の ない 死人 を 、 この 門 へ 持って 来て 、 棄 て て 行く と 云 う 習慣 さえ 出来た 。 そこ で 、 日 の 目 が 見え なく なる と 、 誰 でも 気味 を 悪 る がって 、 この 門 の 近所 へ は 足ぶみ を し ない 事 に なって しまった のである 。 ・・
その 代り また 鴉 が どこ から か 、 たくさん 集って 来た 。 昼間 見る と 、 その 鴉 が 何 羽 と なく 輪 を 描いて 、 高い 鴟尾 の まわり を 啼 き ながら 、 飛びまわって いる 。 ことに 門 の 上の空 が 、 夕焼け で あかく なる 時 に は 、 それ が 胡麻 を まいた ように はっきり 見えた 。 鴉 は 、 勿論 、 門 の 上 に ある 死人 の 肉 を 、 啄み に 来る のである 。 ―― もっとも 今日 は 、 刻限 が 遅い せい か 、 一 羽 も 見え ない 。 ただ 、 所々 、 崩れ かかった 、 そうして その 崩れ 目 に 長い 草 の はえた 石段 の 上 に 、 鴉 の 糞 が 、 点々 と 白く こびりついて いる の が 見える 。 下 人 は 七 段 ある 石段 の 一 番 上 の 段 に 、 洗いざらし た 紺 の 襖 の 尻 を 据えて 、 右 の 頬 に 出来た 、 大きな 面 皰 を 気 に し ながら 、 ぼんやり 、 雨 の ふる の を 眺めて いた 。 ・・
作者 は さっき 、「 下 人 が 雨 やみ を 待って いた 」 と 書いた 。 しかし 、 下 人 は 雨 が やんで も 、 格別 どう しよう と 云 う 当て は ない 。 ふだん なら 、 勿論 、 主人 の 家 へ 帰る 可 き 筈 である 。 所 が その 主人 から は 、 四五 日 前 に 暇 を 出さ れた 。 前 に も 書いた ように 、 当時 京都 の 町 は 一 通り なら ず 衰微 して いた 。 今 この 下 人 が 、 永年 、 使われて いた 主人 から 、 暇 を 出さ れた の も 、 実は この 衰微 の 小さな 余波 に ほかなら ない 。 だ から 「 下 人 が 雨 やみ を 待って いた 」 と 云 う より も 「 雨 に ふりこめられた 下 人 が 、 行き 所 が なくて 、 途方 に くれて いた 」 と 云 う 方 が 、 適当である 。 その 上 、 今日 の 空模様 も 少から ず 、 この 平安朝 の 下 人 の Sentimentalisme に 影響 した 。 申 の 刻 下り から ふり出した 雨 は 、 いまだに 上る けしき が ない 。 そこ で 、 下 人 は 、 何 を おいて も 差 当り 明日 の 暮し を どうにか しよう と して ―― 云 わ ば どうにも なら ない 事 を 、 どうにか しよう と して 、 とりとめ も ない 考え を たどり ながら 、 さっき から 朱雀 大路 に ふる 雨 の 音 を 、 聞く と も なく 聞いて いた のである 。 ・・
雨 は 、 羅 生 門 を つつんで 、 遠く から 、 ざ あっと 云 う 音 を あつめて 来る 。 夕闇 は 次第に 空 を 低く して 、 見上げる と 、 門 の 屋根 が 、 斜 に つき出した 甍 の 先 に 、 重たく うす暗い 雲 を 支えて いる 。 ・・
どうにも なら ない 事 を 、 どうにか する ため に は 、 手段 を 選んで いる 遑 は ない 。 選んで いれば 、 築 土 の 下 か 、 道ばた の 土 の 上 で 、 饑死 を する ばかりである 。 そうして 、 この 門 の 上 へ 持って 来て 、 犬 の ように 棄 てられて しまう ばかりである 。 選ば ない と すれば ―― 下 人 の 考え は 、 何度 も 同じ 道 を 低 徊 した 揚句 に 、 やっと この 局所 へ 逢 着した 。 しかし この 「 すれば 」 は 、 いつまで たって も 、 結局 「 すれば 」 であった 。 下 人 は 、 手段 を 選ば ない と いう 事 を 肯定 し ながら も 、 この 「 すれば 」 の かた を つける ため に 、 当然 、 その後 に 来る 可 き 「 盗人 に なる より ほか に 仕方 が ない 」 と 云 う 事 を 、 積極 的に 肯定 する だけ の 、 勇気 が 出 ず に いた のである 。 ・・
下 人 は 、 大きな 嚔 を して 、 それ から 、 大 儀 そうに 立 上った 。 夕 冷え の する 京都 は 、 もう 火 桶 が 欲しい ほど の 寒 さ である 。 風 は 門 の 柱 と 柱 と の 間 を 、 夕闇 と 共に 遠慮 なく 、 吹きぬける 。 丹 塗 の 柱 に とまって いた 蟋蟀 も 、 もう どこ か へ 行って しまった 。 ・・
下 人 は 、 頸 を ちぢめ ながら 、 山吹 の 汗 袗 に 重ねた 、 紺 の 襖 の 肩 を 高く して 門 の まわり を 見まわした 。 雨 風 の 患 の ない 、 人目 に かかる 惧 の ない 、 一晩 楽に ねられ そうな 所 が あれば 、 そこ で ともかくも 、 夜 を 明かそう と 思った から である 。 する と 、 幸い 門 の 上 の 楼 へ 上る 、 幅 の 広い 、 これ も 丹 を 塗った 梯子 が 眼 に ついた 。 上 なら 、 人 が いた に して も 、 どうせ 死人 ばかり である 。 下 人 は そこ で 、 腰 に さげた 聖 柄 の 太刀 が 鞘 走ら ない ように 気 を つけ ながら 、 藁 草履 を はいた 足 を 、 その 梯子 の 一 番 下 の 段 へ ふみ かけた 。 ・・
それ から 、 何分 か の 後 である 。 羅 生 門 の 楼 の 上 へ 出る 、 幅 の 広い 梯子 の 中段 に 、 一 人 の 男 が 、 猫 の ように 身 を ちぢめて 、 息 を 殺し ながら 、 上 の 容子 を 窺って いた 。 楼 の 上 から さす 火 の 光 が 、 かすかに 、 その 男 の 右 の 頬 を ぬらして いる 。 短い 鬚 の 中 に 、 赤く 膿 を 持った 面 皰 の ある 頬 である 。 下 人 は 、 始め から 、 この上 に いる 者 は 、 死人 ばかり だ と 高 を 括って いた 。 それ が 、 梯子 を 二三 段 上って 見る と 、 上 で は 誰 か 火 を とぼし て 、 しかも その 火 を そこ ここ と 動かして いる らしい 。 これ は 、 その 濁った 、 黄いろい 光 が 、 隅々 に 蜘蛛 の 巣 を かけた 天井 裏 に 、 揺れ ながら 映った ので 、 すぐに それ と 知れた のである 。 この 雨 の 夜 に 、 この 羅 生 門 の 上 で 、 火 を ともして いる から は 、 どうせ ただ の 者 で は ない 。 ・・
下 人 は 、 守宮 の ように 足音 を ぬすんで 、 やっと 急な 梯子 を 、 一 番 上 の 段 まで 這う ように して 上りつめた 。 そうして 体 を 出来る だけ 、 平に し ながら 、 頸 を 出来る だけ 、 前 へ 出して 、 恐る恐る 、 楼 の 内 を 覗いて 見た 。 ・・
見る と 、 楼 の 内 に は 、 噂 に 聞いた 通り 、 幾 つ か の 死骸 が 、 無造作に 棄 て て ある が 、 火 の 光 の 及ぶ 範囲 が 、 思った より 狭い ので 、 数 は 幾 つ と も わから ない 。 ただ 、 おぼろげ ながら 、 知れる の は 、 その 中 に 裸 の 死骸 と 、 着物 を 着た 死骸 と が ある と いう 事 である 。 勿論 、 中 に は 女 も 男 も まじって いる らしい 。 そうして 、 その 死骸 は 皆 、 それ が 、 かつて 、 生きて いた 人間 だ と 云 う 事実 さえ 疑わ れる ほど 、 土 を 捏ねて 造った 人形 の ように 、 口 を 開いたり 手 を 延ばしたり して 、 ごろごろ 床 の 上 に ころがって いた 。 しかも 、 肩 と か 胸 と か の 高く なって いる 部分 に 、 ぼんやり した 火 の 光 を うけて 、 低く なって いる 部分 の 影 を 一層 暗く し ながら 、 永久 に 唖 の 如く 黙って いた 。 ・・
下 人 は 、 それ ら の 死骸 の 腐 爛 した 臭気 に 思わず 、 鼻 を 掩った 。 しかし 、 その 手 は 、 次の 瞬間 に は 、 もう 鼻 を 掩 う 事 を 忘れて いた 。 ある 強い 感情 が 、 ほとんど ことごとく この 男 の 嗅覚 を 奪って しまった から だ 。 ・・
下 人 の 眼 は 、 その 時 、 はじめて その 死骸 の 中 に 蹲って いる 人間 を 見た 。 檜 皮 色 の 着物 を 着た 、 背 の 低い 、 痩せた 、 白髪 頭 の 、 猿 の ような 老婆 である 。 その 老婆 は 、 右 の 手 に 火 を ともした 松 の 木片 を 持って 、 その 死骸 の 一 つ の 顔 を 覗きこむ ように 眺めて いた 。 髪 の 毛 の 長い 所 を 見る と 、 多分 女 の 死骸 であろう 。 ・・
下 人 は 、 六 分 の 恐怖 と 四 分 の 好奇心 と に 動かされて 、 暫時 は 呼吸 を する の さえ 忘れて いた 。 旧 記 の 記者 の 語 を 借りれば 、「 頭 身 の 毛 も 太る 」 よう に 感じた のである 。 する と 老婆 は 、 松 の 木片 を 、 床板 の 間 に 挿して 、 それ から 、 今 まで 眺めて いた 死骸 の 首 に 両手 を かける と 、 丁度 、 猿 の 親 が 猿 の 子 の 虱 を とる ように 、 その 長い 髪 の 毛 を 一 本 ずつ 抜き はじめた 。 髪 は 手 に 従って 抜ける らしい 。 ・・
その 髪 の 毛 が 、 一 本 ずつ 抜ける の に 従って 、 下 人 の 心 から は 、 恐怖 が 少しずつ 消えて 行った 。 そうして 、 それ と 同時に 、 この 老婆 に 対する はげしい 憎悪 が 、 少しずつ 動いて 来た 。 ―― いや 、 この 老婆 に 対する と 云って は 、 語弊 が ある かも 知れ ない 。 むしろ 、 あらゆる 悪 に 対する 反感 が 、 一 分 毎 に 強 さ を 増して 来た のである 。 この 時 、 誰 か が この 下 人 に 、 さっき 門 の 下 で この 男 が 考えて いた 、 饑死 を する か 盗人 に なる か と 云 う 問題 を 、 改めて 持出したら 、 恐らく 下 人 は 、 何の 未練 も なく 、 饑死 を 選んだ 事 であろう 。 それほど 、 この 男 の 悪 を 憎む 心 は 、 老婆 の 床 に 挿した 松 の 木片 の ように 、 勢い よく 燃え上り 出して いた のである 。 ・・
下 人 に は 、 勿論 、 何故 老婆 が 死人 の 髪 の 毛 を 抜く か わから なかった 。 従って 、 合理 的に は 、 それ を 善悪 の いずれ に 片づけて よい か 知ら なかった 。 しかし 下 人 に とって は 、 この 雨 の 夜 に 、 この 羅 生 門 の 上 で 、 死人 の 髪 の 毛 を 抜く と 云 う 事 が 、 それ だけ で 既に 許す べ から ざる 悪 であった 。 勿論 、 下 人 は 、 さっき まで 自分 が 、 盗人 に なる 気 で いた 事 なぞ は 、 とうに 忘れて いた のである 。 ・・
そこ で 、 下 人 は 、 両足 に 力 を 入れて 、 いきなり 、 梯子 から 上 へ 飛び上った 。 そうして 聖 柄 の 太刀 に 手 を かけ ながら 、 大股 に 老婆 の 前 へ 歩みよった 。 老婆 が 驚いた の は 云 うま で も ない 。 ・・
老婆 は 、 一目 下 人 を 見る と 、 まるで 弩 に でも 弾か れた ように 、 飛び上った 。 ・・
「 おのれ 、 どこ へ 行く 。」 ・・
下 人 は 、 老婆 が 死骸 に つまずき ながら 、 慌てふためいて 逃げよう と する 行 手 を 塞いで 、 こう 罵った 。 老婆 は 、 それ でも 下 人 を つき のけて 行こう と する 。 下 人 は また 、 それ を 行か すまい と して 、 押しもどす 。 二 人 は 死骸 の 中 で 、 しばらく 、 無言 の まま 、 つかみ 合った 。 しかし 勝敗 は 、 はじめ から わかって いる 。 下 人 は とうとう 、 老婆 の 腕 を つかんで 、 無理に そこ へ (※(「 てへん + 丑 」、 第 4 水準 2-12-93) 扭 じ 倒した 。 丁度 、 鶏 の 脚 の ような 、 骨 と 皮 ばかり の 腕 である 。 ・・
「 何 を して いた 。 云 え 。 云 わ ぬ と 、 これ だ ぞ よ 。」 ・・
下 人 は 、 老婆 を つき放す と 、 いきなり 、 太刀 の 鞘 を 払って 、 白い 鋼 の 色 を その 眼 の 前 へ つきつけた 。 けれども 、 老婆 は 黙って いる 。 両手 を わなわな ふるわせて 、 肩 で 息 を 切り ながら 、 眼 を 、 眼球 が ※(「 目 + 匡 」、 第 3 水準 1-88-81) 眶 の 外 へ 出 そうに なる ほど 、 見開いて 、 唖 の ように 執拗 く 黙って いる 。 これ を 見る と 、 下 人 は 始めて 明白に この 老婆 の 生死 が 、 全然 、 自分 の 意志 に 支配 されて いる と 云 う 事 を 意識 した 。 そうして この 意識 は 、 今 まで けわしく 燃えて いた 憎悪 の 心 を 、 いつの間にか 冷まして しまった 。 後 に 残った の は 、 ただ 、 ある 仕事 を して 、 それ が 円満に 成就 した 時 の 、 安らかな 得意 と 満足 と が ある ばかりである 。 そこ で 、 下 人 は 、 老婆 を 見下し ながら 、 少し 声 を 柔 ら げ て こう 云った 。 ・・
「 己 は 検非 違 使 の 庁 の 役人 など で は ない 。 今し方 この 門 の 下 を 通りかかった 旅 の 者 だ 。 だ から お前 に 縄 を かけて 、 どう しよう と 云 う ような 事 は ない 。 ただ 、 今 時分 この 門 の 上 で 、 何 を して 居た のだ か 、 それ を 己 に 話し さえ すれば いい のだ 。」 ・・
する と 、 老婆 は 、 見開いて いた 眼 を 、 一層 大きく して 、 じっと その 下 人 の 顔 を 見守った 。 ※(「 目 + 匡 」、 第 3 水準 1-88-81) 眶 の 赤く なった 、 肉食 鳥 の ような 、 鋭い 眼 で 見た のである 。 それ から 、 皺 で 、 ほとんど 、 鼻 と 一 つ に なった 唇 を 、 何 か 物 でも 噛んで いる ように 動かした 。 細い 喉 で 、 尖った 喉 仏 の 動いて いる の が 見える 。 その 時 、 その 喉 から 、 鴉 の 啼 くよう な 声 が 、 喘ぎ喘ぎ 、 下 人 の 耳 へ 伝わって 来た 。 ・・
「 この 髪 を 抜いて な 、 この 髪 を 抜いて な 、 鬘 に しよう と 思う た のじゃ 。」 ・・
下 人 は 、 老婆 の 答 が 存外 、 平凡な の に 失望 した 。 そうして 失望 する と 同時に 、 また 前 の 憎悪 が 、 冷やかな 侮 蔑 と 一しょに 、 心 の 中 へ は いって 来た 。 する と 、 その 気色 が 、 先方 へ も 通じた のであろう 。 老婆 は 、 片手 に 、 まだ 死骸 の 頭 から 奪った 長い 抜け毛 を 持った なり 、 蟇 の つぶやく ような 声 で 、 口ごもり ながら 、 こんな 事 を 云った 。 ・・
「 成 程 な 、 死人 の 髪 の 毛 を 抜く と 云 う 事 は 、 何 ぼう 悪い 事 かも 知れ ぬ 。 じゃ が 、 ここ に いる 死人 ども は 、 皆 、 その くらい な 事 を 、 されて も いい 人間 ばかり だ ぞ よ 。 現在 、 わし が 今 、 髪 を 抜いた 女 など は な 、 蛇 を 四 寸 ばかり ずつ に 切って 干した の を 、 干 魚 だ と 云 うて 、 太刀 帯 の 陣 へ 売り に 往 んだ わ 。 疫病 に かかって 死な なんだら 、 今 で も 売り に 往 んで いた 事 で あ ろ 。 それ も よ 、 この 女 の 売る 干 魚 は 、 味 が よい と 云 うて 、 太刀 帯 ども が 、 欠かさ ず 菜料 に 買って いた そうな 。 わし は 、 この 女 の した 事 が 悪い と は 思う てい ぬ 。 せ ねば 、 饑死 を する のじゃ て 、 仕方 が なくした 事 で あ ろ 。 されば 、 今 また 、 わし の して いた 事 も 悪い 事 と は 思わぬ ぞ よ 。 これ とて もや は りせ ねば 、 饑死 を する じゃ て 、 仕方がなく する 事 じゃ わ い の 。 じゃ て 、 その 仕方 が ない 事 を 、 よく 知っていた この 女 は 、 大方 わし の する 事 も 大 目 に 見て くれる であ ろ 。」 ・・
老婆 は 、 大体 こんな 意味 の 事 を 云った 。 ・・
下 人 は 、 太刀 を 鞘 に おさめて 、 その 太刀 の 柄 を 左 の 手 で おさえ ながら 、 冷 然 と して 、 この 話 を 聞いて いた 。 勿論 、 右 の 手 で は 、 赤く 頬 に 膿 を 持った 大きな 面 皰 を 気 に し ながら 、 聞いて いる のである 。 しかし 、 これ を 聞いて いる 中 に 、 下 人 の 心 に は 、 ある 勇気 が 生まれて 来た 。 それ は 、 さっき 門 の 下 で 、 この 男 に は 欠けて いた 勇気 である 。 そうして 、 また さっき この 門 の 上 へ 上って 、 この 老婆 を 捕えた 時 の 勇気 と は 、 全然 、 反対な 方向 に 動こう と する 勇気 である 。 下 人 は 、 饑死 を する か 盗人 に なる か に 、 迷わ なかった ばかり で は ない 。 その 時 の この 男 の 心もち から 云 えば 、 饑死 など と 云 う 事 は 、 ほとんど 、 考える 事 さえ 出来 ない ほど 、 意識 の 外 に 追い出されて いた 。 ・・
「 きっと 、 そう か 。」 ・・
老婆 の 話 が 完 る と 、 下 人 は 嘲る ような 声 で 念 を 押した 。 そうして 、 一足 前 へ 出る と 、 不意に 右 の 手 を 面 皰 から 離して 、 老婆 の 襟 上 を つかみ ながら 、 噛みつく ように こう 云った 。 ・・
「 では 、 己 が 引 剥 を しよう と 恨む まい な 。 己 も そう しなければ 、 饑死 を する 体 な のだ 。」 ・・
下 人 は 、 すばやく 、 老婆 の 着物 を 剥ぎとった 。 それ から 、 足 に しがみつこう と する 老婆 を 、 手荒く 死骸 の 上 へ 蹴 倒した 。 梯子 の 口 まで は 、 僅に 五 歩 を 数える ばかりである 。 下 人 は 、 剥ぎとった 檜 皮 色 の 着物 を わき に かかえて 、 またたく間に 急な 梯子 を 夜 の 底 へ かけ 下りた 。 ・・
しばらく 、 死んだ ように 倒れて いた 老婆 が 、 死骸 の 中 から 、 その 裸 の 体 を 起した の は 、 それ から 間もなく の 事 である 。 老婆 は つぶやく ような 、 うめく ような 声 を 立て ながら 、 まだ 燃えて いる 火 の 光 を たより に 、 梯子 の 口 まで 、 這って 行った 。 そうして 、 そこ から 、 短い 白髪 を 倒 に して 、 門 の 下 を 覗きこんだ 。 外 に は 、 ただ 、 黒 洞々たる 夜 が ある ばかりである 。 ・・
下 人 の 行方 は 、 誰 も 知ら ない 。 ・・
( 大正 四 年 九 月 )