34.2 或る 女
三十 分 ほど たった ころ 一 つ 木 の 兵 営 から 古藤 は 岡 に 伴われて やって 来た 。 葉子 は 六 畳 に いて 、 貞 世 を 取り次ぎ に 出した 。 ・・
「 貞 世 さん だ ね 。 大きく なった ね 」・・
まるで 前 の 古藤 の 声 と は 思わ れ ぬ ような おとなびた 黒ずんだ 声 が して 、 が ちゃ が ちゃ と 佩剣 を 取る らしい 音 も 聞こえた 。 やがて 岡 の 先 に 立って 格好 の 悪い きたない 黒 の 軍服 を 着た 古藤 が 、 皮 類 の 腐った ような 香 い を ぷんぷん さ せ ながら 葉子 の いる 所 に は いって 来た 。 ・・
葉子 は 他意 なく 好意 を こめた 目つき で 、 少女 の ように 晴れやかに 驚き ながら 古藤 を 見た 。 ・・
「 まあ これ が 古藤 さん ? なんて こわい 方 に なって おしまい な すった んでしょう 。 元 の 古藤 さん は お 額 の お 白い 所 だけ に しか 残っちゃ いません わ 。 がみがみ と しかったり な すっちゃ いやです 事 よ 。 ほんとうに しばらく 。 もう 金輪際 来て は くださら ない もの と あきらめて いました のに 、 よく …… よく い らしって くださ いました 。 岡 さん の お 手柄 です わ …… ありがとう ございました 」・・
と いって 葉子 は そこ に ならんで すわった 二 人 の 青年 を かたみ が わりに 見 やり ながら 軽く 挨拶 した 。 ・・
「 さぞ お つらい でしょう ねえ 。 お 湯 は ? お召し に なら ない ? ちょうど 沸いて います わ 」・・ 「 だいぶ 臭くって お 気の毒です が 、 一 度 や 二 度 湯 に つかったって なおり は しません から …… まあ はいりません 」・・ 古藤 は は いって 来た 時 の しかつめらしい 様子 に 引きかえて 顔色 を 軟 ら が せられて いた 。 葉子 は 心 の 中 で 相変わらず の simpleton だ と 思った 。 ・・
「 そう ねえ 何時まで 門限 は ? …… え 、 六 時 ? それ じゃ もう いくらも ありません わ ね 。 じゃ お 湯 は よして いただいて お 話 の ほう を たん と しましょう ねえ 。 いかが 軍隊 生活 は 、 お 気 に 入って ? 」・・
「 はいら なかった 前 以上 に きらいに なりました 」・・ 「 岡 さん は どう なさった の 」・・ 「 わたし まだ 猶予 中 です が 検査 を 受けたって きっと だめです 。 不 合格 の ような 健康 を 持つ と 、 わたし 軍隊 生活 の できる ような 人 が うらやましくって なりません 。 …… から だ でも 強く なったら わたし 、 もう 少し 心 も 強く なる んでしょう けれども ……」・・
「 そんな 事 は ありません ねえ 」・・ 古藤 は 自分 の 経験 から 岡 を 説 伏する ように そういった 。 ・・
「 僕 も その 一 人 だ が 、 鬼 の ような 体格 を 持って いて 、 女 の ような 弱虫 が 隊 に いて 見る と たくさん います よ 。 僕 は こんな 心 で こんな 体格 を 持って いる の が 先天 的 の 二 重 生活 を しいられる ようで 苦しい んです 。 これ から も 僕 は この 矛盾 の ため に きっと 苦しむ に 違いない 」・・
「 なんで すね お 二 人 と も 、 妙な 所 で 謙遜 のしっこ を なさる の ね 。 岡 さん だって そう お 弱く は ない し 、 古藤 さん と きたら それ は 意志 堅固 ……」・・
「 そう なら 僕 は きょう も ここ なんか に は 来 や しません 。 木村 君 に も とうに 決心 を さ せて いる はずな んです 」・・
葉子 の 言葉 を 中途 から 奪って 、 古藤 は したたか 自分 自身 を むちうつ ように 激しく こういった 。 葉子 は 何もかも わかって いる くせ にし ら を 切って 不思議 そうな 目つき を して 見せた 。 ・・
「 そう だ 、 思いきって いう だけ の 事 は いって しまいましょう 。 …… 岡 君 立た ないで ください 。 君 が いて くださる と かえって いい んです 」・・
そう いって 古藤 は 葉子 を しばらく 熟 視 して から いい出す 事 を まとめよう と する ように 下 を 向いた 。 岡 も ちょっと 形 を 改めて 葉子 の ほう を ぬすみ 見る ように した 。 葉子 は 眉 一 つ 動かさ なかった 。 そして そば に いる 貞 世に 耳 うち して 、 愛子 を 手伝って 五 時 に 夕食 の 食べられる 用意 を する ように 、 そして 三 縁 亭 から 三 皿 ほど の 料理 を 取り寄せる ように いいつけて 座 を はずさ した 。 古藤 は おどる ように して 部屋 を 出て 行く 貞 世 を そっと 目 の はずれ で 見送って いた が 、 やがて おもむろに 顔 を あげた 。 日 に 焼けた 顔 が さらに 赤く なって いた 。 ・・
「 僕 は ね ……( そう いって おいて 古藤 は また 考えた )…… あなた が 、 そんな 事 は ない と あなた は いう でしょう が 、 あなた が 倉地 と いう その 事務 長 の 人 の 奥さん に なら れる と いう の なら 、 それ が 悪いって 思って る わけじゃ ない んです 。 そんな 事 が ある と すりゃ そりゃ しかた の ない 事 な んだ 。 …… そして です ね 、 僕 に も そりゃ わかる ようです 。 …… わかるって いう の は 、 あなた が そう なれば なり そうな 事 だ と 、 それ が わかるって いう んです 。 しかし それ なら それ で いい から 、 それ を 木村 に はっきり と いって やって ください 。 そこ なんだ 僕 の いわ ん と する の は 。 あなた は 怒る かも しれません が 、 僕 は 木村 に 幾 度 も 葉子 さん と は もう 縁 を 切れって 勧告 しました 。 これ まで 僕 が あなた に 黙って そんな 事 を して いた の は わるかった から お 断わり を します ( そう いって 古藤 は ちょっと 誠実に 頭 を 下げた 。 葉子 も 黙った まま まじめに うなずいて 見せた )。 けれども 木村 から の 返事 は 、 それ に 対する 返事 は いつでも 同一な んです 。 葉子 から 破 約 の 事 を 申し出て 来る か 、 倉地 と いう 人 と の 結婚 を 申し出て 来る まで は 、 自分 は だれ の 言葉 より も 葉子 の 言葉 と 心 と に 信用 を おく 。 親友 であって も この 問題 に ついて は 、 君 の 勧告 だけ で は 心 は 動か ない 。 こう な んです 。 木村って の は そんな 男 な んです よ ( 古藤 の 言葉 は ちょっと 曇った が すぐ 元 の ように なった )。 それ を あなた は 黙って おく の は 少し 変だ と 思います 」・・ 「 それ で ……」・・ 葉子 は 少し 座 を 乗り出して 古藤 を 励ます ように 言葉 を 続け させた 。 ・・
「 木村 から は 前 から あなた の 所 に 行って よく 事情 を 見て やって くれ 、 病気 の 事 も 心配で なら ない から と いって 来て は いる んです が 、 僕 は 自分 ながら どう しよう も ない 妙な 潔癖 が ある もん だ から つい 伺い おくれて しまった のです 。 なるほど あなた は 先 より は やせました ね 。 そうして 顔 の 色 も よく ありません ね 」・・ そう いい ながら 古藤 は じっと 葉子 の 顔 を 見 やった 。 葉子 は 姉 の ように 一 段 の 高み から 古藤 の 目 を 迎えて 鷹 揚 に ほほえんで いた 。 いう だけ いわ せて みよう 、 そう 思って 今度 は 岡 の ほう に 目 を やった 。 ・・
「 岡 さん 。 あなた 今 古藤 さん の おっしゃる 事 を すっかり お 聞き に なって いて くださいました わ ね 。 あなた は このごろ 失礼 ながら 家族 の 一 人 の ように こちら に 遊び におい で くださる んです が 、 わたし を どう お 思い に なって いらっしゃる か 、 御 遠慮 なく 古藤 さん に お 話し な すって ください ましな 。 決して 御 遠慮 なく …… わたし どんな 事 を 伺って も 決して 決して なんとも 思い は いたしません から 」・・ それ を 聞く と 岡 は ひどく 当惑 して 顔 を まっ赤 に して 処女 の ように 羞恥 かんだ 。 古藤 の そば に 岡 を 置いて 見る の は 、 青銅 の 花びん の そば に 咲き かけ の 桜 を 置いて 見る ようだった 。 葉子 は ふと 心 に 浮かんだ その 対比 を 自分 ながら おもしろい と 思った 。 そんな 余裕 を 葉子 は 失わ ないで いた 。 ・・
「 わたし こういう 事柄 に は 物 を いう 力 は ない ように 思います から ……」・・ 「 そう いわ ないで ほんとうに 思った 事 を いって みて ください 。 僕 は 一徹 です から ひどい 思い 間違い を して いない と も 限りません から 。 どうか 聞か して ください 」・・
そう いって 古藤 も 肩 章 越し に 岡 を 顧みた 。 ・・
「 ほんとうに 何も いう 事 は ない んです けれども …… 木村 さん に は わたし 口 に いえ ない ほど 御 同情 して います 。 木村 さん の ような いい 方 が 今ごろ どんなに ひと り で さびしく 思って いられる か と 思いやった だけ で わたし さびしく なって しまいます 。 けれども 世の中 に は いろいろな 運命 が ある ので は ない でしょう か 。 そうして 銘々 は 黙って それ を 耐えて 行く より しかたがない ように わたし 思います 。 そこ で 無理 を しよう と する と すべて の 事 が 悪く なる ばかり …… それ は わたし だけ の 考え です けれども 。 わたし そう 考え ない と 一刻 も 生きて いられ ない ような 気 が して なりません 。 葉子 さん と 木村 さん と 倉地 さん と の 関係 は わたし 少し は 知って る ように も 思います けれども 、 よく 考えて みる と かえって ちっとも 知ら ない の かも しれません ねえ 。 わたし は 自分 自身 が 少しも わから ない んです から お 三 人 の 事 など も 、 わから ない 自分 の 、 わから ない 想像 だけ の 事 だ と 思いたい んです 。 …… 古藤 さん に は そこ まで は お 話し しません でした けれども 、 わたし 自分 の 家 の 事情 がたいへん 苦しい ので 心 を 打ちあける ような 人 を 持って いません でした が ……、 ことに 母 と か 姉妹 と か いう 女 の 人 に …… 葉子 さん に お目にかかったら 、 なんでもなく それ が できた んです 。 それ で わたし は うれしかった んです 。 そうして 葉子 さん が 木村 さん と どうしても 気 が お 合い に なら ない 、 その 事 も 失礼です けれども 今 の 所 で は わたし 想像 が 違って いない ように も 思います 。 けれども そのほか の 事 は わたし なんとも 自信 を もって いう 事 が できません 。 そんな 所 まで 他人 が 想像 を したり 口 を 出したり して いい もの か どう かも わたし わかりません 。 たいへん 独善 的に 聞こえる かも しれません が 、 そんな 気 は なく 、 運命 に できる だけ 従順に して いたい と 思う と 、 わたし 進んで 物 を いったり したり する の が 恐ろしい と 思います 。 …… なんだか 少しも 役 に 立た ない 事 を いって しまい まして …… わたし やはり 力 が ありません から 、 何も いわ なかった ほう が よかった んです けれども ……」・・ そう 絶え 入る ように 声 を 細めて 岡 は 言葉 を 結ば ぬ うち に 口 を つぐんで しまった 。 その あと に は 沈黙 だけ が ふさわしい ように 口 を つぐんで しまった 。 ・・
実際 その あと に は 不思議な ほど しめやかな 沈黙 が 続いた 。 たき 込めた 香 の に おい が かすかに 動く だけ だった 。 ・・
「 あんなに 謙遜 な 岡 君 も ( 岡 は あわてて その 賛辞 らしい 古藤 の 言葉 を 打ち消そう と し そうに した が 、 古藤 が どんどん 言葉 を 続ける ので そのまま 顔 を 赤く して 黙って しまった ) あなた と 木村 と が どうしても 折り合わ ない 事 だけ は 少なくとも 認めて いる んです 。 そう でしょう 」・・
葉子 は 美しい 沈黙 を が さつ な 手 で かき乱さ れた 不快 を かすかに 物 足ら なく 思う らしい 表情 を して 、・・
「 それ は 洋行 する 前 、 いつぞや 横浜 に 一緒に 行って いただいた 時 くわしく お 話し した じゃ ありません か 。 それ は わたし どなた に でも 申し上げて いた 事 です わ 」・・
「 そん なら なぜ …… その 時 は 木村 の ほか に は 保護 者 は い なかった から 、 あなた と して は お 妹 さん たち を 育てて 行く 上 に も 自分 を 犠牲 に して 木村 に 行く 気 で おいで だった かも しれません が なぜ …… なぜ 今に なって も 木村 と の 関係 を そのまま に して おく 必要 が ある んです 」・・ 岡 は 激しい 言葉 で 自分 が 責められる か の よう に はらはら し ながら 首 を 下げたり 、 葉子 と 古藤 の 顔 と を かたみ が わりに 見 やったり して いた が 、 とうとう 居 たたま れ なく なった と 見えて 、 静かに 座 を 立って 人 の いない 二 階 の ほう に 行って しまった 。 葉子 は 岡 の 心持ち を 思いやって 引き止め なかった し 、 古藤 は 、 いて もらった 所 が なんの 役 に も 立た ない と 思った らしく これ も 引き止め は し なかった 。 さす 花 も ない 青銅 の 花びん 一 つ …… 葉子 は 心 の 中 で 皮肉に ほほえんだ 。 ・・
「 それ より 先 に 伺わ して ちょうだいな 、 倉地 さん は どの くらい の 程度 で わたし たち を 保護 して いらっしゃる か 御存じ ? 」・・
古藤 は すぐ ぐっと 詰まって しまった 。 しかし すぐ 盛り返して 来た 。 ・・
「 僕 は 岡 君 と 違って ブルジョア の 家 に 生まれ なかった もの です から デリカシー と いう ような 美徳 を あまり たくさん 持って いない ようだ から 、 失礼な 事 を いったら 許して ください 。 倉地って 人 は 妻子 まで 離縁 した …… しかも 非常に 貞 節 らしい 奥さん まで 離縁 した と 新聞 に 出て いました 」・・ 「 そう ね 新聞 に は 出て いました わ ね 。 …… よう ございます わ 、 仮に そう だ と したら それ が 何 か わたし と 関係 の ある 事 だ と でも おっしゃる の 」・・
そう いい ながら 葉子 は 少し 気 に 障 えた らしく 、 炭 取り を 引き寄せて 火鉢 に 火 を つぎ足した 。 桜 炭 の 火花 が 激しく 飛んで 二 人 の 間 に はじけた 。 ・・
「 まあ ひどい この 炭 は 、 水 を かけ ず に 持って 来た と 見える の ね 。 女 ばかり の 世帯 だ と 思って 出入り の 御 用聞き まで 人 を ばかに する んです の よ 」・・
葉子 は そう 言い 言い 眉 を ひそめた 。 古藤 は 胸 を つかれた ようだった 。 ・・
「 僕 は 乱暴な もん だ から …… いい 過ぎ が あったら ほんとうに 許して ください 。 僕 は 実際 いかに 親友 だ から と いって 木村 ばかり を いい ように と 思って る わけじゃ ない んです けれども 、 全く あの 境遇 に は 同情 して しまう もん だ から …… 僕 は あなた も 自分 の 立場 さえ はっきり いって くだされば あなた の 立場 も 理解 が できる と 思う んだ けれども なあ 。 …… 僕 は あまり 直線 的 すぎる んでしょう か 。 僕 は 世の中 を sun - clear に 見たい と 思います よ 。 でき ない もん でしょう か 」・・
葉子 は なでる ような 好意 の ほほえみ を 見せた 。 ・・
「 あなた が わたし ほんとうに うらやましゅう ご ざん す わ 。 平和な 家庭 に お 育ち に なって 素直に なんでも 御覧 に なれる の は ありがたい 事 な んです わ 。 そんな 方 ばかり が 世の中 に いらっしゃる と めんどう が なくなって それ は いい んです けれども 、 岡 さん なんか は それ から 見る と ほんとうに お 気の毒な んです の 。 わたし みたいな もの を さえ ああして たより に して いらっしゃる の を 見る と いじらしくって きょう は 倉地 さん の 見て いる 前 で キス して 上げっち まった の 。 …… 他人事 じゃ ありません わ ね ( 葉子 の 顔 は すぐ 曇った )。 あなた と 同様 はきはき した 事 の 好きな わたし が こんなに 意地 を こじら したり 、 人 の 気 を かねたり 、 好んで 誤解 を 買って出たり する ように なって しまった 、 それ を 考えて ごらん に なって ちょうだい 。 あなた に は 今 は お わかり に なら ない かも しれません けれども …… それにしても もう 五 時 。 愛子 に 手 料理 を 作ら せて おきました から 久しぶりで 妹 たち に も 会って やって ください まし 、 ね 、 いい でしょう 」・・ 古藤 は 急に 固く なった 。 ・・
「 僕 は 帰ります 。 僕 は 木村 に はっきり した 報告 も でき ない うち に 、 こちら で 御飯 を いただいたり する の は なんだか 気 が とがめます 。 葉子 さん 頼みます 、 木村 を 救って ください 。 そして あなた 自身 を 救って ください 。 僕 は ほんとう を いう と 遠く に 離れて あなた を 見て いる と どうしても きらいに なっち まう んです が 、 こう やって お 話し して いる と 失礼な 事 を いったり 自分 で 怒ったり し ながら も 、 あなた は 自分 でも あざむけ ない ような もの を 持って おら れる の を 感ずる ように 思う んです 。 境遇 が 悪い んだ きっと 。 僕 は 一生 が 大事だ と 思います よ 。 来世 が あろう が 過去 世 が あろう が この 一生 が 大事だ と 思います よ 。 生きがい が あった と 思う ように 生きて 行きたい と 思います よ 。 ころんだって 倒れたって そんな 事 を 世間 の ように かれこれ くよくよ せ ず に 、 ころんだら 立って 、 倒れたら 起き上がって 行きたい と 思います 。 僕 は 少し 人並み は ずれて ばか の ようだ けれども 、 ばか 者 で さえ が そうして 行きたい と 思って る んです 」・・ 古藤 は 目 に 涙 を ためて 痛まし げ に 葉子 を 見 やった 。 その 時 電灯 が 急に 部屋 を 明るく した 。 ・・
「 あなた は ほんとうに どこ か 悪い ようです ね 。 早く な おって ください 。 それ じゃ 僕 は これ で きょう は 御免 を こうむります 。 さようなら 」・・
牝鹿 の ように 敏感な 岡 さえ が いっこう 注意 し ない 葉子 の 健康 状態 を 、 鈍重 らしい 古藤 が いち早く 見て取って 案じて くれる の を 見る と 、 葉子 は この 素朴な 青年 に なつかし 味 を 感ずる のだった 。 葉子 は 立って 行く 古藤 の 後ろ から 、・・
「 愛さ ん 貞 ちゃん 古藤 さん が お 帰り に なる と いけない から 早く 来て おとめ 申し ておくれ 」・・
と 叫んだ 。 玄関 に 出た 古藤 の 所 に 台所 口 から 貞 世 が 飛んで 来た 。 飛んで 来 は した が 、 倉地 に 対して の ように すぐ おどりかかる 事 は 得し ないで 、 口 も きか ず に 、 少し 恥ずかし げ に そこ に 立ちすくんだ 。 その あと から 愛子 が 手ぬぐい を 頭から 取り ながら 急ぎ足 で 現われた 。 玄関 のな げし の 所 に 照り返し を つけて 置いて ある ランプ の 光 を まともに 受けた 愛子 の 顔 を 見る と 、 古藤 は 魅 いられた ように その 美 に 打た れた らしく 、 目礼 も せ ず に その 立ち 姿 に ながめ 入った 。 愛子 は に こり と 左 の 口 じ り に 笑くぼ の 出る 微笑 を 見せて 、 右手 の 指先 が 廊下 の 板 に やっと さわる ほど 膝 を 折って 軽く 頭 を 下げた 。 愛子 の 顔 に は 羞恥 らしい もの は 少しも 現われ なかった 。 ・・
「 いけません 、 古藤 さん 。 妹 たち が 御 恩返し の つもり で 一生懸命に した んです から 、 おいしく は ありません が 、 ぜひ 、 ね 。 貞 ちゃん お前 さん その 帽子 と 剣 と を 持って お 逃げ 」・・
葉子 に そう いわれて 貞 世 は すばしこく 帽子 だけ 取り上げて しまった 。 古藤 は おめおめ と 居残る 事 に なった 。 ・・
葉子 は 倉地 を も 呼び 迎え させた 。 ・・
十二 畳 の 座敷 に は この 家 に 珍しく にぎやかな 食卓 が しつらえられた 。 五 人 が おのおの 座 に ついて 箸 を 取ろう と する 所 に 倉地 が はいって 来た 。 ・・
「 さあ いらっしゃい まし 、 今夜 は にぎやかです の よ 。 ここ へ どうぞ ( そう 云って 古藤 の 隣 の 座 を 目 で 示した )。 倉地 さん 、 この 方 が いつも お うわさ を する 木村 の 親友 の 古藤 義一 さん です 。 きょう 珍しく い らしって くださ いました の 。 これ が 事務 長 を して い らしった 倉地 三吉 さん です 」・・ 紹介 さ れた 倉地 は 心 置き ない 態度 で 古藤 の そば に すわり ながら 、・・ 「 わたし は たしか 双 鶴 館 で ちょっと お目にかかった ように 思う が 御挨拶 も せ ず 失敬 しました 。 こちら に は 始終 お 世話に なっと ります 。 以後 よろしく 」・・
と いった 。 古藤 は 正面 から 倉地 を じっと 見 やり ながら ちょっと 頭 を 下げた きり 物 も いわ なかった 。 倉地 は 軽々しく 出した 自分 の 今 の 言葉 を 不快に 思った らしく 、 苦りきって 顔 を 正面 に 直した が 、 しいて 努力 する ように 笑顔 を 作って もう 一 度 古藤 を 顧みた 。 ・・
「 あの 時 から する と 見違える ように 変わら れました な 。 わたし も 日 清 戦争 の 時 は 半分 軍人 の ような 生活 を した が 、 なかなか おもしろかった です よ 。 しかし 苦しい 事 も たまに は お あり だろう な 」・・
古藤 は 食卓 を 見 やった まま 、・・
「 え ゝ 」・・
と だけ 答えた 。 倉地 の 我慢 は それ まで だった 。 一座 は その 気分 を 感じて なんとなく 白け 渡った 。 葉子 の 手慣れた tact でも それ は なかなか 一掃 さ れ なかった 。 岡 は その 気まず さ を 強烈な 電気 の ように 感じて いる らしかった 。 ひと り 貞 世 だけ はしゃぎ 返った 。 ・・
「 この サラダ は 愛 ねえさん が お 醋 と オリーブ 油 を 間違って 油 を たくさん かけた から きっと 油っこ くって よ 」・・ 愛子 は おだやかに 貞 世 を にらむ ように して 、・・ 「 貞 ちゃん は ひどい 」・・
と いった 。 貞 世 は 平気だった 。 ・・
「 その代わり わたし が また お 醋 を あと から 入れた から すっぱ すぎる 所 が ある かも しれ なくって よ 。 も 少し ついでに お 葉 も 入れれば よ かって ねえ 、 愛 ねえさん 」・・
みんな は 思わず 笑った 。 古藤 も 笑う に は 笑った 。 しかし その 笑い声 は すぐ しずまって しまった 。 ・・
やがて 古藤 が 突然 箸 を おいた 。 ・・
「 僕 が 悪い ため に せっかく の 食卓 をたいへん 不愉快に した ようです 。 すみません でした 。 僕 は これ で 失礼 します 」・・ 葉子 は あわてて 、・・ 「 まあ そんな 事 は ちっとも ありません 事 よ 。 古藤 さん そんな 事 を おっしゃら ず に しまい まで いら しって ちょうだい どうぞ 。 みんな で 途中 まで お 送り します から 」・・ と とめた が 古藤 は どうしても きか なかった 。 人々 は 食事 なかば で 立ち上がら ねば なら なかった 。 古藤 は 靴 を はいて から 、 帯 皮 を 取り上げて 剣 を つる と 、 洋服 の しわ を 延ばし ながら 、 ちらっと 愛子 に 鋭く 目 を やった 。 始 め から ほとんど 物 を いわ なかった 愛子 は 、 この 時 も 黙った まま 、 多 恨 な 柔和な 目 を 大きく 見開いて 、 中座 を して 行く 古藤 を 美しく たしなめる ように じっと 見返して いた 、 それ を 葉子 の 鋭い 視覚 は 見のがさ なかった 。 ・・
「 古藤 さん 、 あなた これ から きっと たびたび いら しって ください まし よ 。 まだまだ 申し上げる 事 が たくさん 残って います し 、 妹 たち も お 待ち 申して います から 、 きっと です こと よ 」・・ そう いって 葉子 も 親しみ を 込めた ひとみ を 送った 。 古藤 は しゃち こ 張った 軍隊 式 の 立 礼 を して 、 さ くさく と 砂利 の 上 に 靴 の 音 を 立て ながら 、 夕闇 の 催した 杉森 の 下 道 の ほう へ と 消えて 行った 。 ・・
見送り に 立た なかった 倉地 が 座敷 の ほう で ひとり言 の ように だれ に 向かって と も なく 「 ばか ! 」 と いう の が 聞こえた 。