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「八 」 野 分 夏目 漱石
秋 は 次第に 行く 。
虫 の 音 は ようやく 細る 。
筆 硯 に 命 を 籠 む る 道也 先生 は 、 ただ 人生 の 一大事 因縁 に 着して 、 他 を 顧みる の 暇 なき が 故 に 、 暮 る る 秋 の 寒き を 知ら ず 、 虫 の 音 の 細る を 知ら ず 、 世 の 人 の われ に つれなき を 知ら ず 、 爪 の 先 に 垢 の たまる を 知ら ず 、 蛸 寺 の 柿 の 落ちた 事 は 無論 知ら ぬ 。
動く べき 社会 を わが 力 にて 動かす が 道也 先生 の 天職 である 。
高く 、 偉い なる 、 公 け なる 、 ある もの の 方 に 一 歩 なり と も 動かす が 道也 先生 の 使命 である 。
道也 先生 は その他 を 知ら ぬ 。
高柳 君 は そう は 行か ぬ 。
道也 先生 の 何事 を も 知ら ざる に 反して 、 彼 は 何事 を も 知る 。
往来 の 人 の 眼 つき も 知る 。
肌寒く 吹く 風 の 鋭 どき も 知る 。
かすれて 渡る 雁 の 数 も 知る 。
美 くし き 女 も 知る 。
黄金 の 貴き も 知る 。
木屑 の ごとく 取り扱 わる る 吾身 の はかなくて 、 浮世 の 苦しみ の 骨 に 食い入る 夕 々 を 知る 。
下宿 の 菜 の 憐れ に して 芋 ばかり なる は もとより 知る 。
知り 過ぎ たる が 君 の 癖 に して 、 この 癖 を 増長 せ しめ たる が 君 の 病 である 。
天下 に 、 人間 は 殺して も 殺し 切れ ぬ ほど ある 。
しかし この 病 を 癒して くれる もの は 一 人 も ない 。
この 病 を 癒して くれ ぬ 以上 は 何 千万 人 いる も 、 おら ぬ と 同様である 。
彼 は 一 人 坊っち に なった 。
己 れ に 足りて 人 に 待つ 事 なき 呑気 な 一 人 坊っち で は ない 。
同情 に 餓え 、 人間 に 渇 して やるせなき 一 人 坊っち である 。
中野 君 は 病気 と 云 う 、 われ も 病気 と 思う 。
しかし 自分 を 一 人 坊っち の 病気 に した もの は 世間 である 。
自分 を 一 人 坊っち の 病気 に した 世間 は 危篤 なる 病人 を 眼前 に 控えて 嘯いて いる 。
世間 は 自分 を 病気 に した ばかりで は 満足 せ ぬ 。
半 死 の 病人 を 殺さ ねば やま ぬ 。
高柳 君 は 世間 を 呪わ ざる を 得 ぬ 。
道也 先生 から 見た 天地 は 人 の ため に する 天地 である 。
高柳 君 から 見た 天地 は 己 れ の ため に する 天地 である 。
人 の ため に する 天地 である から 、 世話 を して くれ 手 が なくて も 恨 と は 思わ ぬ 。
己 れ の ため に する 天地 である から 、 己 れ を かまって くれ ぬ 世 を 残酷 と 思う 。
世話 を する ため に 生れた 人 と 、 世話 を さ れ に 生れた 人 と は これほど 違う 。
人 を 指導 する もの と 、 人 に たよる もの と は これほど 違う 。
同じく 一 人 坊っち で あり ながら これほど 違う 。
高柳 君 に は この 違い が わから ぬ 。
垢 染みた 布団 を 冷やかに 敷いて 、 五 分 刈り が 七 分 ほど に 延びた 頭 を 薄ぎたない 枕 の 上 に 横 えて いた 高柳 君 は ふと 眼 を 挙げて 庭 前 の 梧桐 を 見た 。
高柳 君 は 述作 を して 眼 が つかれる と 必ず この 梧桐 を 見る 。
地理 学 教授 法 を 訳して 、 くさく さ する と 必ず この 梧桐 を 見る 。
手紙 を 書いて さえ 行き詰まる と きっと この 梧桐 を 見る 。
見る はずである 。
三 坪 ほど の 荒 庭 に 見る べき もの は 一 本 の 梧桐 を 除いて は ほか に 何にも ない 。
ことに この 間 から 、 気分 が わるくて 、 仕事 を する 元気 が ない ので 、 あやしげな 机 に 頬杖 を 突いて は 朝な夕な に 梧桐 を 眺め くらして 、 うつらうつら と して いた 。
一 葉 落ちて と 云 う 句 は 古い 。
悲しき 秋 は 必ず 梧桐 から 手 を 下す 。
ばっさり と 垣 に かかる 袷 の 頃 は 、 さ まで に 心 を 動かす 縁 と も なら ぬ と 油断 する 翌朝 また ば さ り と 落ちる 。
うそ 寒い から と 早く 繰る 雨戸 の 外 に ま たば さ り と 音 が する 。
葉 は ようやく 黄ばんで 来る 。
青い もの が しだいに 衰える 裏 から 、 浮き上がる の は 薄く 流した 脂 の 色 である 。
脂 は 夜 ごと を 寒く 明けて 、 濃く 変って 行く 。
婆娑 たる 命 は 旦夕 に 逼 る 。
風 が 吹く 。
どこ から 来る か 知ら ぬ 風 が すう と 吹く 。
黄ばんだ 梢 は 動 ぐ と も 見え ぬ 先 に 一 葉 二葉 が はらはら 落ちる 。
あと は ようやく 助かる 。
脂 は 夜 ごと の 秋 の 霜 に だんだん 濃く なる 。
脂 の なか に 黒い 筋 が 立つ 。
箒 で 敲けば 煎餅 を 折る ような 音 が する 。
黒い 筋 は 左右 へ 焼け ひろがる 。
もう 危うい 。
風 が くる 。
垣 の 隙 から 、 椽 の 下 から 吹いて くる 。
危うい もの は 落ちる 。
しきりに 落ちる 。
危うい と 思う 心 さえ なくなる ほど 梢 を 離れる 。
明 ら さま なる 月 が さす と 枝 の 数 が 読ま れる くらい あらわに 骨 が 出る 。
わずか に 残る 葉 を 虫 が 食う 。
渋 色 の 濃い なか に ぽつり と 穴 が あく 。
隣り に も あく 、 その 隣り に も ぽつりぽつり と あく 。
一面 が 穴 だらけ に なる 。
心細い と 枯れた 葉 が 云 う 。
心細かろう と 見て いる 人 が 云 う 。
ところ へ 風 が 吹いて 来る 。
葉 は みんな 飛んで しまう 。
高柳 君 が ふと 眼 を 挙げた 時 、 梧桐 は すべて これら の 径 路 を 通り越して 、 から 坊主 に なって いた 。
窓 に 近く 斜めに 張った 枝 の 先 に ただ 一 枚 の 虫 食 葉 が かぶり ついて いる 。
「 一 人 坊っち だ 」 と 高柳 君 は 口 の なか で 云った 。
高柳 君 は 先月 あたり から 、 妙な 咳 を する 。
始め は 気 に も し なかった 。
だんだん 腹 に 答え の ない 咳 が 出る 。
咳 だけ で は ない 。
熱 も 出る 。
出る か と 思う と やむ 。
やんだ から 仕事 を しよう か と 思う と また 出る 。
高柳 君 は 首 を 傾けた 。
医者 に 行って 見て もらおう か と 思った が 、 見て もらう と 決心 すれば 、 自分 で 自分 を 病気 だ と 認定 した 事 に なる 。
自分 で 自分 の 病気 を 認定 する の は 、 自分 で 自分 の 罪悪 を 認定 する ような もの である 。
自分 の 罪悪 は 判決 を 受ける まで は 腹 の なか で 弁護 する の が 人情 である 。
高柳 君 は 自分 の 身体 を 医師 の 宣告 に かから ぬ 先 に 弁護 した 。
神経 である と 弁護 した 。
神経 と 事実 と は 兄弟 である と 云 う 事 を 高柳 君 は 知ら ない 。
夜 に なる と 時々 寝汗 を かく 。
汗 で 眼 が さめる 事 が ある 。
真 暗 な なか で 眼 が さめる 。
この 真 暗 さ が 永久 続いて くれれば いい と 思う 。
夜 が あけて 、 人 の 声 が して 、 世間 が 存在 して いる と 云 う 事 が わかる と 苦痛 である 。
暗い なか を なお 暗く する ため に 眼 を 眠って 、 夜 着 の なか へ 頭 を つき 込んで 、 もう これ ぎり 世の中 へ 顔 が 出し たく ない 。
このまま 眠り に 入って 、 眠り から 醒 め ぬ 間 に 、 あの世 に 行ったら 結構だろう と 考え ながら 寝る 。
あくる 日 に なる と 太陽 は 無慈悲に も 赫奕 と して 窓 を 照らして いる 。
時計 を 出して は 一 日 に 脈 を 何遍 と なく 験 して 見る 。
何遍 験 して も 平 脈 で は ない 。
早く 打ち 過ぎる 。
不規則に 打ち 過ぎる 。
どうしても 尋常に は 打た ない 。
痰 を 吐く たび に 眼 を 皿 の ように して 眺める 。
赤い もの の 見え ない の が 、 せめても の 慰安 である 。
痰 に 血 の 交 ら ぬ の を 慰安 と する もの は 、 血 の 交 る 時 に は ただ 生きて いる の を 慰安 と せ ねば なら ぬ 。
生きて いる だけ を 慰安 と する 運命 に 近づく かも 知れ ぬ 高柳 君 は 、 生きて いる だけ を 厭う 人 である 。
人 は 多く の 場合 に おいて この 矛盾 を 冒す 。
彼ら は 幸福に 生きる の を 目的 と する 。
幸福に 生き ん が ため に は 、 幸福 を 享受 す べき 生 そのもの の 必要 を 認め ぬ 訳 に は 行か ぬ 。
単なる 生命 は 彼ら の 目的 に あら ず と する も 、 幸福 を 享 け 得る 必須 条件 と して 、 あらゆる 苦痛 の もと に 維持 せ ねば なら ぬ 。
彼ら が この 矛盾 を 冒して 塵 界 に 流転 する とき 死な ん と して 死ぬ 能 わ ず 、 しかも 日ごと に 死に 引き入れ ら る る 事 を 自覚 する 。
負債 を 償う の 目的 を もって 月々 に 負債 を 新たに し つつ ある と 変り は ない 。
これ を 悲酸 なる 煩 悶 と 云 う 。
高柳 君 は 床 の なか から 這い 出した 。
瓦 斯糸 ( ガス いと ) の 蚊 絣 の 綿 入 の 上 から 黒 木綿 の 羽織 を 着る 。
机 に 向 う 。
やっぱり 翻訳 を する 了 簡 である 。
四五 日 そのまま に して 置いた 机 の 上 に は 、 障子 の 破れ から 吹き込んだ 砂 が 一面に 軽く たまって いる 。
硯 の なか は 白く 見える 。
高柳 君 は 面倒だ と 見えて 、 塵 も 吹か ず に 、 上 から 水 を さした 。
水 入 に 在る 水 で は ない 。
五六 輪 の 豆 菊 を 挿した 硝子 ( ガラス ) の 小 瓶 を 花 ながら 傾けて 、 どっと 硯 の 池 に 落した 水 である 。
さ か に 磨り減らした 古 梅園 を しきりに 動かす と 、 じゃり じゃり 云 う 。
高柳 君 は 不愉快 の 眉 を あつめた 。
不愉快 の 起る 前 に 、 不愉快 を 取り除く 面倒 を あえて せ ず して 、 不愉快 の 起った 時 に 唇 を 噛む の は かかる 人 の 例 である 。
彼 は 不愉快 を 忍ぶ べく 余り 鋭敏である 。
しか して あらかじめ これ に 備 う べく あまり 自 棄 である 。
机上 に 原稿 紙 を 展 べ た 彼 は 、 一 時間 ほど 呻吟 して ようやく 二三 枚 黒く した が 、 やがて 打ち やる ように 筆 を 擱 いた 。
窓 の 外 に は 落ち 損なった 一 枚 の 桐 の 葉 が 淋しく 残って いる 。
「 一 人 坊っち だ 」 と 高柳 君 は 口 の うち で また 繰り返した 。
見る うち に 、 葉 は 少し く 上 に 揺れて また 下 に 揺れた 。
いよいよ 落ちる 。
と 思う 間 に 風 は はたと やんだ 。
高柳 君 は 巻紙 を 出して 、 今度 は 故 里 の 御 母さん の 所 へ 手紙 を 書き 始めた 。
「 寒気 相 加わり 候 処 如何 御 暮し 被 遊 候 や 。
不 相 変 御 丈夫 の 事 と 奉 遥 察 候 。
私事 も 無事 」 と まで かいて 、 しばらく 考えて いた が 、 やがて この 五六 行 を 裂いて しまった 。
裂いた 反 古 を 口 へ 入れて くちゃ くちゃ 噛んで いる と 思ったら 、 ぽっと 黒い もの を 庭 へ 吐き出した 。
一 人 坊っち の 葉 が また 揺れる 。
今度 は 右 へ 左 へ 二三 度 首 を 振る 。
その 振り が ようやく 収った と 思う 頃 、 颯 と 音 が して 、 病 葉 は ぽたり と 落ちた 。
「 落ちた 。
落ちた 」 と 高柳 君 は さ も 落ちた らしく 云った 。
やがて 三 尺 の 押入 を 開けて 茶色 の 中 折 を 取り出す 。
門口 へ 出て 空 を 仰ぐ と 、 行く 秋 を 重い もの が 上 から 囲んで いる 。
「 御婆 さん 、 御婆 さん 」 はい と 婆さん が 雑巾 を 刺す 手 を やめて 出て 来る 。
「 傘 を とって 下さい 。
わたし の 室 の 椽側 に ある 」 降れば 傘 を さす まで も 歩く 考 である 。
どこ と 云 う 目的 も ない が ただ 歩く つもりな のである 。
電車 の 走る の は 電車 が 走る のだ が 、 なぜ 走る のだ か は 電車 に も わかる まい 。
高柳 君 は 自分 が あるく だけ は 承知 して いる 。
しかし なぜ あるく のだ か は 電車 の ごとく 無意識である 。
用 も なく 、 あて も なく 、 また ある きたく も ない もの を 無理に あるか せる の は 残酷である 。
残酷 が あるか せる のだ から 敵 は 取れ ない 。
敵 が 取り たければ 、 残酷 を 製造 した 発頭 人 に 向 う より ほか に 仕方 が ない 。
残酷 を 製造 した 発頭 人 は 世間 である 。
高柳 君 は ひと り 敵 の 中 を あるいて いる 。
いくら 、 あるいて も やっぱり 一 人 坊っち である 。
ぽつりぽつり と 折々 降って くる 。
初 時雨 と 云 う のだろう 。
豆腐 屋 の 軒下 に 豆 を 絞った 殻 が 、 山 の ように 桶 に もって ある 。
山 の 頂 が ぽく り と 欠けて 四 面 から 煙 が 出る 。
風 に 連れて 煙 は 往来 へ 靡 く 。
塩 物 屋 に 鮭 の 切身 が 、 渋 び た 赤い 色 を 見せて 、 並んで いる 。
隣り に 、 しらす 干 が かたまって 白く 反り返る 。
鰹節 屋 の 小僧 が 一生懸命に 土佐 節 を ささら で 磨いて いる 。
ぴか り ぴか り と 光る 。
奥 に 婚礼 用 の 松 が 真 青 に 景気 を 添える 。
葉 茶屋 で は 丁 稚 が 抹茶 を ゆっくり ゆっくり 臼 で 挽 いて いる 。
番頭 は 往来 を 睨め ながら 茶 を 飲んで いる 。
――「 えっ、 あぶ ねえ 」 と 高柳 君 は 突き飛ばさ れた 。
黒 紋 付 の 羽織 に 山高 帽 を 被った 立派な 紳士 が 綱 曳 で 飛んで 行く 。
車 へ 乗る もの は 勢 が いい 。
あるく もの は 突き飛ばされて も 仕方 が ない 。
「 えっ、 あぶ ねえ 」 と 拳 突 を 喰 わされて も 黙って おら ねば なら ん 。
高柳 君 は 幽霊 の ように あるいて いる 。
青銅 の 鳥居 を くぐる 。
敷石 の 上 に 鳩 が 五六 羽 、 時雨 の 中 を 遠近 して いる 。
唐人 髷 に 結った 半 玉 が 渋 蛇の目 を さして 鳩 を 見て いる 。
あらい 八丈 の 羽織 を 長く 着て 、 素足 を 爪 皮 の なか へ さし込んで 立った 姿 を 、 下宿 の 二 階 窓 から 書生 が 顔 を 二 つ 出して 評して いる 。
柏手 を 打って 鈴 を 鳴らして 御 賽銭 を なげ込んだ 後 姿 が 、 見て いる 間 に こっち へ 逆 戻 を する 。
黒 縮緬 へ 三 つ 柏 の 紋 を つけた 意気 な 芸者 が すれ違う とき に 、 高柳 君 の 方 に 一 瞥 の 秋 波 を 送った 。
高柳 君 は 鉛 を 背負った ような 重い 心持ち に なる 。
石段 を 三十六 おりる 。
電車 が ごうっごうっと 通る 。
岩崎 の 塀 が 冷酷に 聳 えて いる 。
あの 塀 へ 頭 を ぶつけて 壊して やろう か と 思う 。
時雨 は いつか 休んで 電車 の 停留所 に 五六 人 待って いる 。
背 の 高い 黒 紋 付 が 蝙蝠 傘 を 畳んで 空 を 仰いで いた 。
「 先生 」 と 一 人 坊っち の 高柳 君 は 呼びかけた 。
「 や あ 妙な 所 で 逢いました ね 。
散歩 か ね 」「 ええ 」 と 高柳 君 は 答えた 。
「 天気 の わるい の に よく 散歩 する です ね 。
―― 岩崎 の 塀 を 三 度 周 る と いい 散歩 に なる 。
ハハハハ 」 高柳 君 は ちょっと いい 心持ち に なった 。
「 先生 は ?
」「 僕 です か 、 僕 は なかなか 散歩 する 暇 なんか ないで す 。
不 相 変 多忙で ね 。
今日 は ちょっと 上野 の 図書 館 まで 調べ 物 に 行った です 」 高柳 君 は 道也 先生 に 逢う と 何だか 元気 が 出る 。
一 人 坊っち で あり ながら 、 こう 平気に して いる 先生 が 現在 世 の なか に ある と 思う と 、 多少 は 心 丈夫に なる と 見える 。
「 先生 もう 少し 散歩 を なさ いません か 」「 そう 、 少し なら 、 して も いい 。
どっち の 方 へ 。
上野 は もう よ そう 。
今 通って 来た ばかりだ から 」「 私 は どっち で も いい のです 」「 じゃ 坂 を 上って 、 本郷 の 方 へ 行きましょう 。
僕 は あっち へ 帰る んだ から 」 二 人 は 電車 の 路 を 沿う て あるき 出した 。
高柳 君 は 一 人 坊っち が 急に 二 人 坊っち に なった ような 気 が する 。
そう 思う と 空 も 広く 見える 。
もう 綱 曳 から 突き飛ばさ れる 気遣 は ある まい と まで 思う 。
「 先生 」「 何 です か 」「 さっき 、 車屋 から 突き飛ばさ れました 」「 そりゃ 、 あぶなかった 。
怪我 を しや しません か 」「 いいえ 、 怪我 は しません が 、 腹 は 立ちました 」「 そう 。
しかし 腹 を 立てて も 仕方 が ない でしょう 。
―― しかし 腹 も 立てよう に よる です な 。
昔 し 渡辺 崋山 が 松平 侯 の 供 先 に 粗忽で 突き当って ひどい 目 に 逢った 事 が ある 。
崋山 が その 時 の 事 を 書いて ね 。
―― 松平 侯御 横行 ―― と 云って る です が 。
この 御 横行 の 三 字 が 非常に 面白い じゃ ない です か 。
尊んで 御 の 字 を つけて る が その 裏 に 立派な 反抗 心 が ある 。
気概 が ある 。
君 も 綱 引 御 横行 と 日記 に かくさ 」「 松平 侯って 、 だれ です か 」「 だれ だ か 知れ やしない 。
それ が 知れる くらい なら 御 横行 は しない です よ 。
その 時 発 憤 した 崋山 は いまだに 生きて る が 、 松平 某 なる もの は 誰 も 知りゃ し ない 」「 そう 思う と 愉快です が 、 岩崎 の 塀 など を 見る と 頭 を ぶつけて 、 壊して やり たく なります 」「 頭 を ぶつけて 、 壊 せりゃ 、 君 より 先 に 壊して る もの が ある かも 知れ ない 。
そんな 愚 な 事 を 云 わ ず に 正々堂々と 創作 なら 、 創作 を なされば 、 それ で 君 の 寿命 は 岩崎 など より も 長く 伝わる のです 」「 その 創作 を さ せて くれ ない のです 」「 誰 が 」「 誰 がって 訳 じゃ ない です が 、 出来 ない のです 」「 から だ でも 悪い です か 」 と 道也 先生 横 から 覗き込む 。
高柳 君 の 頬 は 熱 を 帯びて 、 蒼 い 中 から 、 ほてって いる 。
道也 は 首 を 傾けた 。
「 君 坂 を 上がる と 呼吸 が 切れる ようだ が 、 どこ か 悪い じゃ ない です か 」 強いて 自分 に さえ 隠そう と する 事 を 言いあてられる と 、 言いあてられる ほど 、 明白な 事実 であった か と 落胆 する 。
言いあてられた 高柳 君 は 暗い 穴 の 中 へ 落ちた 。
人 は 知ら ず 、 かかる 冷酷なる 同情 を 加えて 憚 から ぬが 多い 。
「 先生 」 と 高柳 君 は 往来 に 立ち 留まった 。
「 何 です か 」「 私 は 病人 に 見える でしょう か 」「 ええ 、 まあ 、―― 少し 顔色 は 悪い です 」「 どうしても 肺病 でしょう か 」「 肺病 ?
そんな 事 は ないで す 」「 いいえ 、 遠慮 なく 云って 下さい 」「 肺 の 気 で も ある んです か 」「 遺伝 です 。
おやじ は 肺病 で 死にました 」「 それ は ……」 と 云った が 先生 返答 に 窮した 。
膀胱 に はち 切れる ばかり 水 を 詰めた の を 針 ほど の 穴 に 洩らせば 、 針 ほど の 穴 は すぐ 白銅 ほど に なる 。
高柳 君 は 道也 の 返答 を きか ぬ が ご とくに 、 しゃべって しまう 。
「 先生 、 私 の 歴史 を 聞いて 下さいます か 」「 ええ 、 聞きます と も 」「 おやじ は 町 で 郵便 局 の 役人 でした 。
私 が 七 つ の 年 に 拘 引されて しまいました 」 道也 先生 は 、 だまった まま 、 話し手 と いっしょに ゆるく 歩 を 運ば して 行く 。
「 あと で 聞く と 官 金 を 消費 した んだ そうで ―― その 時 は なんにも 知りません でした 。
母 に きく と 、 おとっさん は 今に 帰る 、 今に 帰る と 云ってました 。
―― しかし とうとう 帰って 来ません 。
帰ら ない はずです 。
肺病 に なって 、 牢屋 の なか で 死んで しまった んです 。
それ も ずっと あと で 聞きました 。
母 は 家 を 畳んで 村 へ 引き込みました 。
……」 向 から 威勢 の いい 車 が 二 梃 束 髪 の 女 を 乗せて くる 。
二 人 は ちょっと よける 。
話 は とぎれる 。
「 先生 」「 何 です か 」「 だから 私 に は 肺病 の 遺伝 が ある んです 。
駄目です 」「 医者 に 見せた です か 」「 医者 に は ―― 見せません 。
見せたって 見せ なくったって 同じ 事 です 」「 そりゃ 、 いけない 。
肺病 だって 癒 らん と は 限ら ない 」 高柳 君 は 気味 の 悪い 笑い を 洩らした 。
時雨 が はらはら と 降って 来る 。
から たち 寺 の 門 の 扉 に 碧 巌 録 提唱 と 貼り つけた 紙 が 際立って 白く 見える 。
女学校 から 生徒 が ぞろぞろ 出て くる 。
赤 や 、 紫 や 、 海老 茶 の 色 が 往来 へ ちらばる 。
「 先生 、 罪悪 も 遺伝 する もの でしょう か 」 と 女 学生 の 間 を 縫い ながら 歩 を 移し つつ 高柳 君 が 聞く 。
「 そんな 事 が ある もの です か 」「 遺伝 は し ない でも 、 私 は 罪人 の 子 です 。
切ない です 」「 それ は 切ない に 違いない 。
しかし 忘れ なくっちゃ いけない 」 警察 署 から 手錠 を はめた 囚人 が 二 人 、 巡査 に 護送 されて 出て くる 。
時雨 が 囚人 の 髪 に かかる 。
「 忘れて も 、 すぐ 思い出します 」 道也 先生 は 少し 大きな 声 を 出した 。
「 しかし あなた の 生涯 は 過去 に ある んです か 未来 に ある んです か 。
君 は これ から 花 が 咲く 身 です よ 」「 花 が 咲く 前 に 枯れる んです 」「 枯れる 前 に 仕事 を する んです 」 高柳 君 は だまって いる 。
過去 を 顧みれば 罪 である 。
未来 を 望めば 病気 である 。
現在 は 麺 麭 ( パン ) の ため に する 写 字 である 。
道也 先生 は 高柳 君 の 耳 の 傍 へ 口 を 持って 来て 云った 。
「 君 は 自分 だけ が 一 人 坊っち だ と 思う かも 知れ ない が 、 僕 も 一 人 坊っち です よ 。
一 人 坊っち は 崇高な もの です 」 高柳 君 に は この 言葉 の 意味 が わから なかった 。
「 わかった です か 」 と 道也 先生 が きく 。
「 崇高 ―― なぜ ……」「 それ が 、 わから なければ 、 とうてい 一 人 坊っち で は 生きて いられません 。
―― 君 は 人 より 高い 平面 に いる と 自信 し ながら 、 人 が その 平面 を 認めて くれ ない ため に 一 人 坊っち な のでしょう 。
しかし 人 が 認めて くれる ような 平面 ならば 人 も 上って くる 平面 です 。
芸者 や 車 引 に 理 会さ れる ような 人格 なら 低い に きまってます 。
それ を 芸者 や 車 引 も 自分 と 同等な もの と 思い込んで しまう から 、 先方 から 見くびら れた 時 腹 が 立ったり 、 煩 悶 する のです 。
もし あんな もの と 同等 なら 創作 を したって 、 やっぱり 同等の 創作 しか 出来 ない 訳 だ 。
同等で なければ こそ 、 立派な 人格 を 発揮 する 作物 も 出来る 。
立派な 人格 を 発揮 する 作物 が 出来 なければ 、 彼ら から は 見くびら れる の は もっともでしょう 」「 芸者 や 車 引 は どうでも いい です が ……」「 例 は だれ だって 同じ 事 です 。
同じ 学校 を 同じに 卒業 した 者 だって 変り は ありません 。
同じ 卒業 生 だ から 似た もの だろう と 思う の は 教育 の 形式 が 似て いる の を 教育 の 実体 が 似て いる もの と 考え 違 した 議論 です 。
同じ 大学 の 卒業 生 が 同じ 程度 の もの であったら 、 大学 の 卒業 生 は ことごとく 後世 に 名 を 残す か 、 または ことごとく 消えて しまわ なくって は なら ない 。
自分 こそ 後世 に 名 を 残そう と 力む ならば 、 た とい 同じ 学校 の 卒業 生 に も せよ 、 ほか の もの は 残ら ない のだ と 云 う 事 を 仮定 して か から なければ なります まい 。
すでに その 仮定 が ある なら 自分 と 、 ほか の 人 と は 同様の 学士 である に も かかわら ず すでに 大 差別 が ある と 自認 した 訳 じゃ ありません か 。
大 差別 が ある と 自任 し ながら 他 が 自分 を 解して くれ ん と 云って 煩 悶 する の は 矛盾 です 」「 それ で 先生 は 後世 に 名 を 残す お つもり で やって いらっしゃる んです か 」「 わたし の は 少し 、 違います 。
今 の 議論 は あなた を 本位 に して 立てた 議論 です 。
立派な 作物 を 出して 後世 に 伝えたい と 云 うの が 、 あなた の 御 希望 の ようだ から 御 話し を した のです 」「 先生 の が 承る 事 が 出来る なら 、 教えて 頂けます まい か 」「 わたし は 名前 なんて あて に なら ない もの は どう で も いい 。
ただ 自分 の 満足 を 得る ため に 世 の ため に 働く のです 。
結果 は 悪 名 に なろう と 、 臭 名 に なろう と 気 狂 に なろう と 仕方 が ない 。
ただ こう 働か なくって は 満足 が 出来 ない から 働く まで の 事 です 。
こう 働か なくって 満足 が 出来 ない ところ を もって 見る と 、 これ が 、 わたし の 道 に 相違 ない 。
人間 は 道 に 従う より ほか に やり よう の ない もの だ 。
人間 は 道 の 動物 である から 、 道 に 従う の が 一 番 貴い のだろう と 思って います 。
道 に 従う 人 は 神 も 避け ねば なら ん のです 。
岩崎 の 塀 なんか 何でもない 。
ハハハハ 」 剥げ かかった 山高 帽 を 阿弥陀 に 被って 毛 繻子 張り の 蝙蝠 傘 を さした 、 一 人 坊っち の 腰 弁当 の 細長い 顔 から 後光 が さした 。
高柳 君 は はっと 思う 。
往来 の もの は 右 へ 左 へ 行く 。
往来 の 店 は 客 を 迎え 客 を 送る 。
電車 は 出来る だけ 人 を 載せて 東西 に 走る 。
織る が ごとき 街 の 中 に 喪 家 の 犬 の ごとく 歩む 二 人 は 、 免職 に なり たて の 属 官 と 、 堕落 した 青 書生 と 見える だろう 。
見えて も 仕方 が ない 。
道也 は それ で たくさんだ と 思う 。
周作 は それ で は なら ぬ と 思う 。
二 人 は 四 丁目 の 角 で わかれた 。
「八 」 野 分 夏目 漱石
やっ|の|ぶん|なつめ|そうせき
8" Nobe Natsume Soseki
8" Nobe, Natsume Soseki.
秋 は 次第に 行く 。
あき||しだいに|いく
虫 の 音 は ようやく 細る 。
ちゅう||おと|||ほそる
筆 硯 に 命 を 籠 む る 道也 先生 は 、 ただ 人生 の 一大事 因縁 に 着して 、 他 を 顧みる の 暇 なき が 故 に 、 暮 る る 秋 の 寒き を 知ら ず 、 虫 の 音 の 細る を 知ら ず 、 世 の 人 の われ に つれなき を 知ら ず 、 爪 の 先 に 垢 の たまる を 知ら ず 、 蛸 寺 の 柿 の 落ちた 事 は 無論 知ら ぬ 。
ふで|すずり||いのち||かご|||みちや|せんせい|||じんせい||いちだいじ|いんねん||ちゃくして|た||かえりみる||いとま|||こ||くら|||あき||さむき||しら||ちゅう||おと||ほそる||しら||よ||じん||||||しら||つめ||さき||あか||||しら||たこ|てら||かき||おちた|こと||むろん|しら|
|inkstone|||||||||||||||||||||||||||||||cold||||||||fading away||||||||||unconcerned||||||||||||||||||||||||
動く べき 社会 を わが 力 にて 動かす が 道也 先生 の 天職 である 。
うごく||しゃかい|||ちから||うごかす||みちや|せんせい||てんしょく|
高く 、 偉い なる 、 公 け なる 、 ある もの の 方 に 一 歩 なり と も 動かす が 道也 先生 の 使命 である 。
たかく|えらい||おおやけ||||||かた||ひと|ふ||||うごかす||みちや|せんせい||しめい|
道也 先生 は その他 を 知ら ぬ 。
みちや|せんせい||そのほか||しら|
高柳 君 は そう は 行か ぬ 。
たかやなぎ|きみ||||いか|
道也 先生 の 何事 を も 知ら ざる に 反して 、 彼 は 何事 を も 知る 。
みちや|せんせい||なにごと|||しら|||はんして|かれ||なにごと|||しる
往来 の 人 の 眼 つき も 知る 。
おうらい||じん||がん|||しる
肌寒く 吹く 風 の 鋭 どき も 知る 。
はださむく|ふく|かぜ||するど|||しる
かすれて 渡る 雁 の 数 も 知る 。
|わたる|がん||すう||しる
faintly||||||
美 くし き 女 も 知る 。
び|||おんな||しる
|comb||||
黄金 の 貴き も 知る 。
おうごん||とうとき||しる
||precious||
木屑 の ごとく 取り扱 わる る 吾身 の はかなくて 、 浮世 の 苦しみ の 骨 に 食い入る 夕 々 を 知る 。
きくず|||とりあつか|||われみ|||うきよ||くるしみ||こつ||くいいる|ゆう|||しる
wood chips||||||myself||futile|||||||||||
下宿 の 菜 の 憐れ に して 芋 ばかり なる は もとより 知る 。
げしゅく||な||あわれ|||いも|||||しる
知り 過ぎ たる が 君 の 癖 に して 、 この 癖 を 増長 せ しめ たる が 君 の 病 である 。
しり|すぎ|||きみ||くせ||||くせ||ぞうちょう|||||きみ||びょう|
天下 に 、 人間 は 殺して も 殺し 切れ ぬ ほど ある 。
てんか||にんげん||ころして||ころし|きれ|||
the world||||||||||
しかし この 病 を 癒して くれる もの は 一 人 も ない 。
||びょう||いやして||||ひと|じん||
この 病 を 癒して くれ ぬ 以上 は 何 千万 人 いる も 、 おら ぬ と 同様である 。
|びょう||いやして|||いじょう||なん|せんまん|じん||||||どうようである
彼 は 一 人 坊っち に なった 。
かれ||ひと|じん|ぼう っち||
己 れ に 足りて 人 に 待つ 事 なき 呑気 な 一 人 坊っち で は ない 。
おのれ|||たりて|じん||まつ|こと||のんき||ひと|じん|ぼう っち|||
同情 に 餓え 、 人間 に 渇 して やるせなき 一 人 坊っち である 。
どうじょう||うえ|にんげん||かわ|||ひと|じん|ぼう っち|
||hunger|||||helpless||||
中野 君 は 病気 と 云 う 、 われ も 病気 と 思う 。
なかの|きみ||びょうき||うん||||びょうき||おもう
しかし 自分 を 一 人 坊っち の 病気 に した もの は 世間 である 。
|じぶん||ひと|じん|ぼう っち||びょうき|||||せけん|
自分 を 一 人 坊っち の 病気 に した 世間 は 危篤 なる 病人 を 眼前 に 控えて 嘯いて いる 。
じぶん||ひと|じん|ぼう っち||びょうき|||せけん||きとく||びょうにん||がんぜん||ひかえて|うそぶいて|
||||||||||||||||||boasting|
世間 は 自分 を 病気 に した ばかりで は 満足 せ ぬ 。
せけん||じぶん||びょうき|||||まんぞく||
半 死 の 病人 を 殺さ ねば やま ぬ 。
はん|し||びょうにん||ころさ|||
高柳 君 は 世間 を 呪わ ざる を 得 ぬ 。
たかやなぎ|きみ||せけん||のろわ|||とく|
道也 先生 から 見た 天地 は 人 の ため に する 天地 である 。
みちや|せんせい||みた|てんち||じん|||||てんち|
高柳 君 から 見た 天地 は 己 れ の ため に する 天地 である 。
たかやなぎ|きみ||みた|てんち||おのれ||||||てんち|
人 の ため に する 天地 である から 、 世話 を して くれ 手 が なくて も 恨 と は 思わ ぬ 。
じん|||||てんち|||せわ||||て||||うら|||おもわ|
己 れ の ため に する 天地 である から 、 己 れ を かまって くれ ぬ 世 を 残酷 と 思う 。
おのれ||||||てんち|||おのれ||||||よ||ざんこく||おもう
世話 を する ため に 生れた 人 と 、 世話 を さ れ に 生れた 人 と は これほど 違う 。
せわ|||||うまれた|じん||せわ|||||うまれた|じん||||ちがう
人 を 指導 する もの と 、 人 に たよる もの と は これほど 違う 。
じん||しどう||||じん|||||||ちがう
同じく 一 人 坊っち で あり ながら これほど 違う 。
おなじく|ひと|じん|ぼう っち|||||ちがう
高柳 君 に は この 違い が わから ぬ 。
たかやなぎ|きみ||||ちがい|||
垢 染みた 布団 を 冷やかに 敷いて 、 五 分 刈り が 七 分 ほど に 延びた 頭 を 薄ぎたない 枕 の 上 に 横 えて いた 高柳 君 は ふと 眼 を 挙げて 庭 前 の 梧桐 を 見た 。
あか|しみた|ふとん||ひややかに|しいて|いつ|ぶん|かり||なな|ぶん|||のびた|あたま||うすぎたない|まくら||うえ||よこ|||たかやなぎ|きみ|||がん||あげて|にわ|ぜん||ごきり||みた
dirt|stained|||coldly|||||||||||||||||||||||||||||||||
高柳 君 は 述作 を して 眼 が つかれる と 必ず この 梧桐 を 見る 。
たかやなぎ|きみ||じゅつさく|||がん||||かならず||ごきり||みる
地理 学 教授 法 を 訳して 、 くさく さ する と 必ず この 梧桐 を 見る 。
ちり|まな|きょうじゅ|ほう||やくして|||||かならず||ごきり||みる
手紙 を 書いて さえ 行き詰まる と きっと この 梧桐 を 見る 。
てがみ||かいて||ゆきづまる||||ごきり||みる
見る はずである 。
みる|
三 坪 ほど の 荒 庭 に 見る べき もの は 一 本 の 梧桐 を 除いて は ほか に 何にも ない 。
みっ|つぼ|||あら|にわ||みる||||ひと|ほん||ごきり||のぞいて||||なんにも|
ことに この 間 から 、 気分 が わるくて 、 仕事 を する 元気 が ない ので 、 あやしげな 机 に 頬杖 を 突いて は 朝な夕な に 梧桐 を 眺め くらして 、 うつらうつら と して いた 。
||あいだ||きぶん|||しごと|||げんき|||||つくえ||ほおづえ||ついて||あさなゆうな||ごきり||ながめ|||||
|||||||||||||||||||||morning and evening|||||||||
一 葉 落ちて と 云 う 句 は 古い 。
ひと|は|おちて||うん||く||ふるい
悲しき 秋 は 必ず 梧桐 から 手 を 下す 。
かなしき|あき||かならず|ごきり||て||くだす
ばっさり と 垣 に かかる 袷 の 頃 は 、 さ まで に 心 を 動かす 縁 と も なら ぬ と 油断 する 翌朝 また ば さ り と 落ちる 。
||かき|||あわせ||ころ|||||こころ||うごかす|えん||||||ゆだん||よくあさ||||||おちる
うそ 寒い から と 早く 繰る 雨戸 の 外 に ま たば さ り と 音 が する 。
|さむい|||はやく|くる|あまど||がい|||||||おと||
葉 は ようやく 黄ばんで 来る 。
は|||きばんで|くる
青い もの が しだいに 衰える 裏 から 、 浮き上がる の は 薄く 流した 脂 の 色 である 。
あおい||||おとろえる|うら||うきあがる|||うすく|ながした|あぶら||いろ|
脂 は 夜 ごと を 寒く 明けて 、 濃く 変って 行く 。
あぶら||よ|||さむく|あけて|こく|かわって|いく
婆娑 たる 命 は 旦夕 に 逼 る 。
ばあしゃ||いのち||たんゆう||ひつ|
swaying||||soon|||
風 が 吹く 。
かぜ||ふく
どこ から 来る か 知ら ぬ 風 が すう と 吹く 。
||くる||しら||かぜ||||ふく
黄ばんだ 梢 は 動 ぐ と も 見え ぬ 先 に 一 葉 二葉 が はらはら 落ちる 。
きばんだ|こずえ||どう||||みえ||さき||ひと|は|ふたば|||おちる
yellowed|branch|||||||||||||||
あと は ようやく 助かる 。
|||たすかる
脂 は 夜 ごと の 秋 の 霜 に だんだん 濃く なる 。
あぶら||よ|||あき||しも|||こく|
脂 の なか に 黒い 筋 が 立つ 。
あぶら||||くろい|すじ||たつ
箒 で 敲けば 煎餅 を 折る ような 音 が する 。
そう||たたけば|せんべい||おる||おと||
||if struck|||||||
黒い 筋 は 左右 へ 焼け ひろがる 。
くろい|すじ||さゆう||やけ|
もう 危うい 。
|あやうい
風 が くる 。
かぜ||
垣 の 隙 から 、 椽 の 下 から 吹いて くる 。
かき||すき||たるき||した||ふいて|
危うい もの は 落ちる 。
あやうい|||おちる
しきりに 落ちる 。
|おちる
危うい と 思う 心 さえ なくなる ほど 梢 を 離れる 。
あやうい||おもう|こころ||||こずえ||はなれる
明 ら さま なる 月 が さす と 枝 の 数 が 読ま れる くらい あらわに 骨 が 出る 。
あき||||つき||||えだ||すう||よま||||こつ||でる
わずか に 残る 葉 を 虫 が 食う 。
||のこる|は||ちゅう||くう
渋 色 の 濃い なか に ぽつり と 穴 が あく 。
しぶ|いろ||こい|||||あな||
隣り に も あく 、 その 隣り に も ぽつりぽつり と あく 。
となり|||||となり|||||
一面 が 穴 だらけ に なる 。
いちめん||あな|||
心細い と 枯れた 葉 が 云 う 。
こころぼそい||かれた|は||うん|
心細かろう と 見て いる 人 が 云 う 。
こころぼそかろう||みて||じん||うん|
lonely|||||||
ところ へ 風 が 吹いて 来る 。
||かぜ||ふいて|くる
葉 は みんな 飛んで しまう 。
は|||とんで|
高柳 君 が ふと 眼 を 挙げた 時 、 梧桐 は すべて これら の 径 路 を 通り越して 、 から 坊主 に なって いた 。
たかやなぎ|きみ|||がん||あげた|じ|ごきり|||これ ら||けい|じ||とおりこして||ぼうず|||
窓 に 近く 斜めに 張った 枝 の 先 に ただ 一 枚 の 虫 食 葉 が かぶり ついて いる 。
まど||ちかく|ななめに|はった|えだ||さき|||ひと|まい||ちゅう|しょく|は||||
「 一 人 坊っち だ 」 と 高柳 君 は 口 の なか で 云った 。
ひと|じん|ぼう っち|||たかやなぎ|きみ||くち||||うん った
高柳 君 は 先月 あたり から 、 妙な 咳 を する 。
たかやなぎ|きみ||せんげつ|||みょうな|せき||
始め は 気 に も し なかった 。
はじめ||き||||
だんだん 腹 に 答え の ない 咳 が 出る 。
|はら||こたえ|||せき||でる
咳 だけ で は ない 。
せき||||
熱 も 出る 。
ねつ||でる
出る か と 思う と やむ 。
でる|||おもう||
やんだ から 仕事 を しよう か と 思う と また 出る 。
||しごと|||||おもう|||でる
高柳 君 は 首 を 傾けた 。
たかやなぎ|きみ||くび||かたむけた
医者 に 行って 見て もらおう か と 思った が 、 見て もらう と 決心 すれば 、 自分 で 自分 を 病気 だ と 認定 した 事 に なる 。
いしゃ||おこなって|みて||||おもった||みて|||けっしん||じぶん||じぶん||びょうき|||にんてい||こと||
自分 で 自分 の 病気 を 認定 する の は 、 自分 で 自分 の 罪悪 を 認定 する ような もの である 。
じぶん||じぶん||びょうき||にんてい||||じぶん||じぶん||ざいあく||にんてい||||
自分 の 罪悪 は 判決 を 受ける まで は 腹 の なか で 弁護 する の が 人情 である 。
じぶん||ざいあく||はんけつ||うける|||はら||||べんご||||にんじょう|
高柳 君 は 自分 の 身体 を 医師 の 宣告 に かから ぬ 先 に 弁護 した 。
たかやなぎ|きみ||じぶん||からだ||いし||せんこく||||さき||べんご|
神経 である と 弁護 した 。
しんけい|||べんご|
神経 と 事実 と は 兄弟 である と 云 う 事 を 高柳 君 は 知ら ない 。
しんけい||じじつ|||きょうだい|||うん||こと||たかやなぎ|きみ||しら|
夜 に なる と 時々 寝汗 を かく 。
よ||||ときどき|ねあせ||
|||||night sweats||
汗 で 眼 が さめる 事 が ある 。
あせ||がん|||こと||
真 暗 な なか で 眼 が さめる 。
まこと|あん||||がん||
この 真 暗 さ が 永久 続いて くれれば いい と 思う 。
|まこと|あん|||えいきゅう|つづいて||||おもう
夜 が あけて 、 人 の 声 が して 、 世間 が 存在 して いる と 云 う 事 が わかる と 苦痛 である 。
よ|||じん||こえ|||せけん||そんざい||||うん||こと||||くつう|
暗い なか を なお 暗く する ため に 眼 を 眠って 、 夜 着 の なか へ 頭 を つき 込んで 、 もう これ ぎり 世の中 へ 顔 が 出し たく ない 。
くらい||||くらく||||がん||ねむって|よ|ちゃく||||あたま|||こんで||||よのなか||かお||だし||
このまま 眠り に 入って 、 眠り から 醒 め ぬ 間 に 、 あの世 に 行ったら 結構だろう と 考え ながら 寝る 。
|ねむり||はいって|ねむり||せい|||あいだ||あのよ||おこなったら|けっこうだろう||かんがえ||ねる
||||||||||||||that would be fine||||
あくる 日 に なる と 太陽 は 無慈悲に も 赫奕 と して 窓 を 照らして いる 。
|ひ||||たいよう||むじひに||せきえき|||まど||てらして|
|||||||||brightly||||||
時計 を 出して は 一 日 に 脈 を 何遍 と なく 験 して 見る 。
とけい||だして||ひと|ひ||みゃく||なんべん|||げん||みる
何遍 験 して も 平 脈 で は ない 。
なんべん|げん|||ひら|みゃく|||
早く 打ち 過ぎる 。
はやく|うち|すぎる
不規則に 打ち 過ぎる 。
ふきそくに|うち|すぎる
どうしても 尋常に は 打た ない 。
|じんじょうに||うた|
痰 を 吐く たび に 眼 を 皿 の ように して 眺める 。
たん||はく|||がん||さら||||ながめる
赤い もの の 見え ない の が 、 せめても の 慰安 である 。
あかい|||みえ||||||いあん|
痰 に 血 の 交 ら ぬ の を 慰安 と する もの は 、 血 の 交 る 時 に は ただ 生きて いる の を 慰安 と せ ねば なら ぬ 。
たん||ち||こう|||||いあん|||||ち||こう||じ||||いきて||||いあん|||||
生きて いる だけ を 慰安 と する 運命 に 近づく かも 知れ ぬ 高柳 君 は 、 生きて いる だけ を 厭う 人 である 。
いきて||||いあん|||うんめい||ちかづく||しれ||たかやなぎ|きみ||いきて||||いとう|じん|
||||||||||||||||||||dislike||
人 は 多く の 場合 に おいて この 矛盾 を 冒す 。
じん||おおく||ばあい||||むじゅん||おかす
彼ら は 幸福に 生きる の を 目的 と する 。
かれら||こうふくに|いきる|||もくてき||
幸福に 生き ん が ため に は 、 幸福 を 享受 す べき 生 そのもの の 必要 を 認め ぬ 訳 に は 行か ぬ 。
こうふくに|いき||||||こうふく||きょうじゅ|||せい|その もの||ひつよう||みとめ||やく|||いか|
単なる 生命 は 彼ら の 目的 に あら ず と する も 、 幸福 を 享 け 得る 必須 条件 と して 、 あらゆる 苦痛 の もと に 維持 せ ねば なら ぬ 。
たんなる|せいめい||かれら||もくてき|||||||こうふく||あきら||える|ひっす|じょうけん||||くつう||||いじ||||
彼ら が この 矛盾 を 冒して 塵 界 に 流転 する とき 死な ん と して 死ぬ 能 わ ず 、 しかも 日ごと に 死に 引き入れ ら る る 事 を 自覚 する 。
かれら|||むじゅん||おかして|ちり|かい||るてん|||しな||||しぬ|のう||||ひごと||しに|ひきいれ||||こと||じかく|
負債 を 償う の 目的 を もって 月々 に 負債 を 新たに し つつ ある と 変り は ない 。
ふさい||つぐなう||もくてき|||つきづき||ふさい||あらたに|||||かわり||
これ を 悲酸 なる 煩 悶 と 云 う 。
||ひさん||わずら|もん||うん|
高柳 君 は 床 の なか から 這い 出した 。
たかやなぎ|きみ||とこ||||はい|だした
瓦 斯糸 ( ガス いと ) の 蚊 絣 の 綿 入 の 上 から 黒 木綿 の 羽織 を 着る 。
かわら|しいと|がす|||か|かすり||めん|はい||うえ||くろ|もめん||はおり||きる
|gas thread|||||||||||||||||
机 に 向 う 。
つくえ||むかい|
やっぱり 翻訳 を する 了 簡 である 。
|ほんやく|||さとる|かん|
四五 日 そのまま に して 置いた 机 の 上 に は 、 障子 の 破れ から 吹き込んだ 砂 が 一面に 軽く たまって いる 。
しご|ひ||||おいた|つくえ||うえ|||しょうじ||やぶれ||ふきこんだ|すな||いちめんに|かるく||
硯 の なか は 白く 見える 。
すずり||||しろく|みえる
高柳 君 は 面倒だ と 見えて 、 塵 も 吹か ず に 、 上 から 水 を さした 。
たかやなぎ|きみ||めんどうだ||みえて|ちり||ふか|||うえ||すい||
水 入 に 在る 水 で は ない 。
すい|はい||ある|すい|||
五六 輪 の 豆 菊 を 挿した 硝子 ( ガラス ) の 小 瓶 を 花 ながら 傾けて 、 どっと 硯 の 池 に 落した 水 である 。
ごろく|りん||まめ|きく||さした|がらす|がらす||しょう|びん||か||かたむけて||すずり||いけ||おとした|すい|
さ か に 磨り減らした 古 梅園 を しきりに 動かす と 、 じゃり じゃり 云 う 。
|||すりへらした|ふる|うめぞの|||うごかす||||うん|
|||worn down||plum garden||||||gravel||
高柳 君 は 不愉快 の 眉 を あつめた 。
たかやなぎ|きみ||ふゆかい||まゆ||
不愉快 の 起る 前 に 、 不愉快 を 取り除く 面倒 を あえて せ ず して 、 不愉快 の 起った 時 に 唇 を 噛む の は かかる 人 の 例 である 。
ふゆかい||おこる|ぜん||ふゆかい||とりのぞく|めんどう||||||ふゆかい||おこった|じ||くちびる||かむ||||じん||れい|
彼 は 不愉快 を 忍ぶ べく 余り 鋭敏である 。
かれ||ふゆかい||しのぶ||あまり|えいびんである
|||||||overly sensitive
しか して あらかじめ これ に 備 う べく あまり 自 棄 である 。
|||||び||||じ|き|
机上 に 原稿 紙 を 展 べ た 彼 は 、 一 時間 ほど 呻吟 して ようやく 二三 枚 黒く した が 、 やがて 打ち やる ように 筆 を 擱 いた 。
きじょう||げんこう|かみ||てん|||かれ||ひと|じかん||しんぎん|||ふみ|まい|くろく||||うち|||ふで||かく|
on the desk|||||||||||||groaning|||||||||||||||
窓 の 外 に は 落ち 損なった 一 枚 の 桐 の 葉 が 淋しく 残って いる 。
まど||がい|||おち|そこなった|ひと|まい||きり||は||さびしく|のこって|
「 一 人 坊っち だ 」 と 高柳 君 は 口 の うち で また 繰り返した 。
ひと|じん|ぼう っち|||たかやなぎ|きみ||くち|||||くりかえした
見る うち に 、 葉 は 少し く 上 に 揺れて また 下 に 揺れた 。
みる|||は||すこし||うえ||ゆれて||した||ゆれた
いよいよ 落ちる 。
|おちる
と 思う 間 に 風 は はたと やんだ 。
|おもう|あいだ||かぜ|||
高柳 君 は 巻紙 を 出して 、 今度 は 故 里 の 御 母さん の 所 へ 手紙 を 書き 始めた 。
たかやなぎ|きみ||まきがみ||だして|こんど||こ|さと||ご|かあさん||しょ||てがみ||かき|はじめた
「 寒気 相 加わり 候 処 如何 御 暮し 被 遊 候 や 。
かんき|そう|くわわり|こう|しょ|いかが|ご|くらし|おお|あそ|こう|
|||||how||||||
不 相 変 御 丈夫 の 事 と 奉 遥 察 候 。
ふ|そう|へん|ご|じょうぶ||こと||たてまつ|はるか|さっ|こう
私事 も 無事 」 と まで かいて 、 しばらく 考えて いた が 、 やがて この 五六 行 を 裂いて しまった 。
わたくしごと||ぶじ|||||かんがえて|||||ごろく|ぎょう||さいて|
裂いた 反 古 を 口 へ 入れて くちゃ くちゃ 噛んで いる と 思ったら 、 ぽっと 黒い もの を 庭 へ 吐き出した 。
さいた|はん|ふる||くち||いれて|||かんで|||おもったら|ぽっ と|くろい|||にわ||はきだした
一 人 坊っち の 葉 が また 揺れる 。
ひと|じん|ぼう っち||は|||ゆれる
今度 は 右 へ 左 へ 二三 度 首 を 振る 。
こんど||みぎ||ひだり||ふみ|たび|くび||ふる
その 振り が ようやく 収った と 思う 頃 、 颯 と 音 が して 、 病 葉 は ぽたり と 落ちた 。
|ふり|||おさむ った||おもう|ころ|さつ||おと|||びょう|は||||おちた
||||settled down||||||||||||||
「 落ちた 。
おちた
落ちた 」 と 高柳 君 は さ も 落ちた らしく 云った 。
おちた||たかやなぎ|きみ||||おちた||うん った
やがて 三 尺 の 押入 を 開けて 茶色 の 中 折 を 取り出す 。
|みっ|しゃく||おしい||あけて|ちゃいろ||なか|お||とりだす
||||closet||||||||
門口 へ 出て 空 を 仰ぐ と 、 行く 秋 を 重い もの が 上 から 囲んで いる 。
かどぐち||でて|から||あおぐ||いく|あき||おもい|||うえ||かこんで|
「 御婆 さん 、 御婆 さん 」 はい と 婆さん が 雑巾 を 刺す 手 を やめて 出て 来る 。
おばあ||おばあ||||ばあさん||ぞうきん||さす|て|||でて|くる
||grandmother|||||||||||||
「 傘 を とって 下さい 。
かさ|||ください
わたし の 室 の 椽側 に ある 」 降れば 傘 を さす まで も 歩く 考 である 。
||しつ||たるきがわ|||ふれば|かさ|||||あるく|こう|
どこ と 云 う 目的 も ない が ただ 歩く つもりな のである 。
||うん||もくてき|||||あるく||
電車 の 走る の は 電車 が 走る のだ が 、 なぜ 走る のだ か は 電車 に も わかる まい 。
でんしゃ||はしる|||でんしゃ||はしる||||はしる||||でんしゃ||||
高柳 君 は 自分 が あるく だけ は 承知 して いる 。
たかやなぎ|きみ||じぶん|||||しょうち||
しかし なぜ あるく のだ か は 電車 の ごとく 無意識である 。
||||||でんしゃ|||むいしきである
|||||||||unconsciously
用 も なく 、 あて も なく 、 また ある きたく も ない もの を 無理に あるか せる の は 残酷である 。
よう|||||||||||||むりに|||||ざんこくである
||||||||||||||||||cruel
残酷 が あるか せる のだ から 敵 は 取れ ない 。
ざんこく||||||てき||とれ|
敵 が 取り たければ 、 残酷 を 製造 した 発頭 人 に 向 う より ほか に 仕方 が ない 。
てき||とり||ざんこく||せいぞう||はつがしら|じん||むかい|||||しかた||
||||||||originator||||||||||
残酷 を 製造 した 発頭 人 は 世間 である 。
ざんこく||せいぞう||はつがしら|じん||せけん|
高柳 君 は ひと り 敵 の 中 を あるいて いる 。
たかやなぎ|きみ||||てき||なか|||
いくら 、 あるいて も やっぱり 一 人 坊っち である 。
||||ひと|じん|ぼう っち|
ぽつりぽつり と 折々 降って くる 。
||おりおり|ふって|
dripping slowly||||
初 時雨 と 云 う のだろう 。
はつ|しぐれ||うん||
豆腐 屋 の 軒下 に 豆 を 絞った 殻 が 、 山 の ように 桶 に もって ある 。
とうふ|や||のきした||まめ||しぼった|から||やま|||おけ|||
山 の 頂 が ぽく り と 欠けて 四 面 から 煙 が 出る 。
やま||いただ|||||かけて|よっ|おもて||けむり||でる
風 に 連れて 煙 は 往来 へ 靡 く 。
かぜ||つれて|けむり||おうらい||び|
塩 物 屋 に 鮭 の 切身 が 、 渋 び た 赤い 色 を 見せて 、 並んで いる 。
しお|ぶつ|や||さけ||きりみ||しぶ|||あかい|いろ||みせて|ならんで|
||||||sliced fish||||||||||
隣り に 、 しらす 干 が かたまって 白く 反り返る 。
となり|||ひ|||しろく|そりかえる
鰹節 屋 の 小僧 が 一生懸命に 土佐 節 を ささら で 磨いて いる 。
かつおぶし|や||こぞう||いっしょうけんめいに|とさ|せつ||||みがいて|
|||||||||sasa bamboo utensil|||
ぴか り ぴか り と 光る 。
|||||ひかる
sparkle|||||
奥 に 婚礼 用 の 松 が 真 青 に 景気 を 添える 。
おく||こんれい|よう||まつ||まこと|あお||けいき||そえる
葉 茶屋 で は 丁 稚 が 抹茶 を ゆっくり ゆっくり 臼 で 挽 いて いる 。
は|ちゃや|||ちょう|ち||まっちゃ||||うす||ばん||
番頭 は 往来 を 睨め ながら 茶 を 飲んで いる 。
ばんとう||おうらい||にらめ||ちゃ||のんで|
――「 えっ、 あぶ ねえ 」 と 高柳 君 は 突き飛ばさ れた 。
||||たかやなぎ|きみ||つきとばさ|
|||||||pushed away|
黒 紋 付 の 羽織 に 山高 帽 を 被った 立派な 紳士 が 綱 曳 で 飛んで 行く 。
くろ|もん|つき||はおり||やまたか|ぼう||おおった|りっぱな|しんし||つな|えい||とんで|いく
||||||tall|||||||||||
車 へ 乗る もの は 勢 が いい 。
くるま||のる|||ぜい||
あるく もの は 突き飛ばされて も 仕方 が ない 。
|||つきとばさ れて||しかた||
|||pushed away||||
「 えっ、 あぶ ねえ 」 と 拳 突 を 喰 わされて も 黙って おら ねば なら ん 。
||||けん|つ||しょく|わさ れて||だまって||||
||||||||received||||||
高柳 君 は 幽霊 の ように あるいて いる 。
たかやなぎ|きみ||ゆうれい||||
青銅 の 鳥居 を くぐる 。
せいどう||とりい||
敷石 の 上 に 鳩 が 五六 羽 、 時雨 の 中 を 遠近 して いる 。
しきいし||うえ||はと||ごろく|はね|しぐれ||なか||えんきん||
唐人 髷 に 結った 半 玉 が 渋 蛇の目 を さして 鳩 を 見て いる 。
からびと|まげ||ゆった|はん|たま||しぶ|じゃのめ|||はと||みて|
Chinese person|topknot||tied|||||shibori pattern||||||
あらい 八丈 の 羽織 を 長く 着て 、 素足 を 爪 皮 の なか へ さし込んで 立った 姿 を 、 下宿 の 二 階 窓 から 書生 が 顔 を 二 つ 出して 評して いる 。
|はちじょう||はおり||ながく|きて|すあし||つめ|かわ||||さしこんで|たった|すがた||げしゅく||ふた|かい|まど||しょせい||かお||ふた||だして|ひょうして|
|Hachijo|||||||||||||||||||||||||||||||
柏手 を 打って 鈴 を 鳴らして 御 賽銭 を なげ込んだ 後 姿 が 、 見て いる 間 に こっち へ 逆 戻 を する 。
かしわで||うって|すず||ならして|ご|さいせん||なげこんだ|あと|すがた||みて||あいだ||||ぎゃく|もど||
|||||||offering money||threw in|||||||||||||
黒 縮緬 へ 三 つ 柏 の 紋 を つけた 意気 な 芸者 が すれ違う とき に 、 高柳 君 の 方 に 一 瞥 の 秋 波 を 送った 。
くろ|ちりめん||みっ||かしわ||もん|||いき||げいしゃ||すれちがう|||たかやなぎ|きみ||かた||ひと|べつ||あき|なみ||おくった
高柳 君 は 鉛 を 背負った ような 重い 心持ち に なる 。
たかやなぎ|きみ||なまり||せおった||おもい|こころもち||
石段 を 三十六 おりる 。
いしだん||さんじゅうろく|
電車 が ごうっごうっと 通る 。
でんしゃ||ごう っ ごう っと|とおる
岩崎 の 塀 が 冷酷に 聳 えて いる 。
いわさき||へい||れいこくに|しょう||
|||||towering||
あの 塀 へ 頭 を ぶつけて 壊して やろう か と 思う 。
|へい||あたま|||こわして||||おもう
時雨 は いつか 休んで 電車 の 停留所 に 五六 人 待って いる 。
しぐれ|||やすんで|でんしゃ||ていりゅうじょ||ごろく|じん|まって|
背 の 高い 黒 紋 付 が 蝙蝠 傘 を 畳んで 空 を 仰いで いた 。
せ||たかい|くろ|もん|つき||こうもり|かさ||たたんで|から||あおいで|
「 先生 」 と 一 人 坊っち の 高柳 君 は 呼びかけた 。
せんせい||ひと|じん|ぼう っち||たかやなぎ|きみ||よびかけた
「 や あ 妙な 所 で 逢いました ね 。
||みょうな|しょ||あい ました|
|||||met|
散歩 か ね 」「 ええ 」 と 高柳 君 は 答えた 。
さんぽ|||||たかやなぎ|きみ||こたえた
「 天気 の わるい の に よく 散歩 する です ね 。
てんき||||||さんぽ|||
―― 岩崎 の 塀 を 三 度 周 る と いい 散歩 に なる 。
いわさき||へい||みっ|たび|しゅう||||さんぽ||
ハハハハ 」 高柳 君 は ちょっと いい 心持ち に なった 。
|たかやなぎ|きみ||||こころもち||
「 先生 は ?
せんせい|
」「 僕 です か 、 僕 は なかなか 散歩 する 暇 なんか ないで す 。
ぼく|||ぼく|||さんぽ||いとま|||
不 相 変 多忙で ね 。
ふ|そう|へん|たぼうで|
今日 は ちょっと 上野 の 図書 館 まで 調べ 物 に 行った です 」 高柳 君 は 道也 先生 に 逢う と 何だか 元気 が 出る 。
きょう|||うえの||としょ|かん||しらべ|ぶつ||おこなった||たかやなぎ|きみ||みちや|せんせい||あう||なんだか|げんき||でる
一 人 坊っち で あり ながら 、 こう 平気に して いる 先生 が 現在 世 の なか に ある と 思う と 、 多少 は 心 丈夫に なる と 見える 。
ひと|じん|ぼう っち|||||へいきに|||せんせい||げんざい|よ||||||おもう||たしょう||こころ|じょうぶに|||みえる
「 先生 もう 少し 散歩 を なさ いません か 」「 そう 、 少し なら 、 して も いい 。
せんせい||すこし|さんぽ||な さ|いま せ ん|||すこし||||
どっち の 方 へ 。
||かた|
上野 は もう よ そう 。
うえの||||
今 通って 来た ばかりだ から 」「 私 は どっち で も いい のです 」「 じゃ 坂 を 上って 、 本郷 の 方 へ 行きましょう 。
いま|かよって|きた|||わたくし||||||||さか||のぼって|ほんごう||かた||いき ましょう
僕 は あっち へ 帰る んだ から 」 二 人 は 電車 の 路 を 沿う て あるき 出した 。
ぼく||あっ ち||かえる|||ふた|じん||でんしゃ||じ||そう|||だした
高柳 君 は 一 人 坊っち が 急に 二 人 坊っち に なった ような 気 が する 。
たかやなぎ|きみ||ひと|じん|ぼう っち||きゅうに|ふた|じん|ぼう っち||||き||
そう 思う と 空 も 広く 見える 。
|おもう||から||ひろく|みえる
もう 綱 曳 から 突き飛ばさ れる 気遣 は ある まい と まで 思う 。
|つな|えい||つきとばさ||きづか||||||おもう
「 先生 」「 何 です か 」「 さっき 、 車屋 から 突き飛ばさ れました 」「 そりゃ 、 あぶなかった 。
せんせい|なん||||くるまや||つきとばさ|れ ました||
|||||car shop|||||that was close
怪我 を しや しません か 」「 いいえ 、 怪我 は しません が 、 腹 は 立ちました 」「 そう 。
けが|||し ませ ん|||けが||し ませ ん||はら||たち ました|
しかし 腹 を 立てて も 仕方 が ない でしょう 。
|はら||たてて||しかた|||
―― しかし 腹 も 立てよう に よる です な 。
|はら||たてよう||||
昔 し 渡辺 崋山 が 松平 侯 の 供 先 に 粗忽で 突き当って ひどい 目 に 逢った 事 が ある 。
むかし||わたなべ|かやま||まつだいら|こう||とも|さき||そこつで|つきあたって||め||あった|こと||
||||||marquis|||||carelessly|bumped into|||||||
崋山 が その 時 の 事 を 書いて ね 。
かやま|||じ||こと||かいて|
―― 松平 侯御 横行 ―― と 云って る です が 。
まつだいら|こうお|おうこう||うん って|||
|nobleman||||||
この 御 横行 の 三 字 が 非常に 面白い じゃ ない です か 。
|ご|おうこう||みっ|あざ||ひじょうに|おもしろい||||
尊んで 御 の 字 を つけて る が その 裏 に 立派な 反抗 心 が ある 。
たっとんで|ご||あざ||||||うら||りっぱな|はんこう|こころ||
with respect|||||||||||||||
気概 が ある 。
きがい||
君 も 綱 引 御 横行 と 日記 に かくさ 」「 松平 侯って 、 だれ です か 」「 だれ だ か 知れ やしない 。
きみ||つな|ひ|ご|おうこう||にっき|||まつだいら|こう って|||||||しれ|
|||||||||writing||Lord||||||||
それ が 知れる くらい なら 御 横行 は しない です よ 。
||しれる|||ご|おうこう||し ない||
その 時 発 憤 した 崋山 は いまだに 生きて る が 、 松平 某 なる もの は 誰 も 知りゃ し ない 」「 そう 思う と 愉快です が 、 岩崎 の 塀 など を 見る と 頭 を ぶつけて 、 壊して やり たく なります 」「 頭 を ぶつけて 、 壊 せりゃ 、 君 より 先 に 壊して る もの が ある かも 知れ ない 。
|じ|はつ|いきどお||かやま|||いきて|||まつだいら|ぼう||||だれ||しりゃ||||おもう||ゆかいです||いわさき||へい|||みる||あたま|||こわして|||なり ます|あたま|||こわ||きみ||さき||こわして||||||しれ|
|||||Kazan|||||||||||||knows||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
そんな 愚 な 事 を 云 わ ず に 正々堂々と 創作 なら 、 創作 を なされば 、 それ で 君 の 寿命 は 岩崎 など より も 長く 伝わる のです 」「 その 創作 を さ せて くれ ない のです 」「 誰 が 」「 誰 がって 訳 じゃ ない です が 、 出来 ない のです 」「 から だ でも 悪い です か 」 と 道也 先生 横 から 覗き込む 。
|ぐ||こと||うん||||せいせいどうどうと|そうさく||そうさく|||||きみ||じゅみょう||いわさき||||ながく|つたわる|||そうさく|||||||だれ||だれ||やく|||||でき||||||わるい||||みちや|せんせい|よこ||のぞきこむ
高柳 君 の 頬 は 熱 を 帯びて 、 蒼 い 中 から 、 ほてって いる 。
たかやなぎ|きみ||ほお||ねつ||おびて|あお||なか|||
道也 は 首 を 傾けた 。
みちや||くび||かたむけた
「 君 坂 を 上がる と 呼吸 が 切れる ようだ が 、 どこ か 悪い じゃ ない です か 」 強いて 自分 に さえ 隠そう と する 事 を 言いあてられる と 、 言いあてられる ほど 、 明白な 事実 であった か と 落胆 する 。
きみ|さか||あがる||こきゅう||きれる|||||わるい|||||しいて|じぶん|||かくそう|||こと||いいあて られる||いいあて られる||めいはくな|じじつ||||らくたん|
||||||||||||||||||||||||||predicted||||||||||
言いあてられた 高柳 君 は 暗い 穴 の 中 へ 落ちた 。
いいあて られた|たかやなぎ|きみ||くらい|あな||なか||おちた
predicted|||||||||
人 は 知ら ず 、 かかる 冷酷なる 同情 を 加えて 憚 から ぬが 多い 。
じん||しら|||れいこくなる|どうじょう||くわえて|はばか|||おおい
|||||cold-hearted||||hesitate||will not remove|
「 先生 」 と 高柳 君 は 往来 に 立ち 留まった 。
せんせい||たかやなぎ|きみ||おうらい||たち|とどまった
「 何 です か 」「 私 は 病人 に 見える でしょう か 」「 ええ 、 まあ 、―― 少し 顔色 は 悪い です 」「 どうしても 肺病 でしょう か 」「 肺病 ?
なん|||わたくし||びょうにん||みえる|||||すこし|かおいろ||わるい|||はいびょう|||はいびょう
そんな 事 は ないで す 」「 いいえ 、 遠慮 なく 云って 下さい 」「 肺 の 気 で も ある んです か 」「 遺伝 です 。
|こと|||||えんりょ||うん って|ください|はい||き||||||いでん|
おやじ は 肺病 で 死にました 」「 それ は ……」 と 云った が 先生 返答 に 窮した 。
||はいびょう||しに ました||||うん った||せんせい|へんとう||きゅうした
|||||||||||||at a loss
膀胱 に はち 切れる ばかり 水 を 詰めた の を 針 ほど の 穴 に 洩らせば 、 針 ほど の 穴 は すぐ 白銅 ほど に なる 。
ぼうこう|||きれる||すい||つめた|||はり|||あな||もらせば|はり|||あな|||はくどう|||
|||||||||||||||if it leaks|||||||copper|||
高柳 君 は 道也 の 返答 を きか ぬ が ご とくに 、 しゃべって しまう 。
たかやなぎ|きみ||みちや||へんとう||||||||
「 先生 、 私 の 歴史 を 聞いて 下さいます か 」「 ええ 、 聞きます と も 」「 おやじ は 町 で 郵便 局 の 役人 でした 。
せんせい|わたくし||れきし||きいて|くださ い ます|||きき ます|||||まち||ゆうびん|きょく||やくにん|
||||||will listen||||||||||||||
私 が 七 つ の 年 に 拘 引されて しまいました 」 道也 先生 は 、 だまった まま 、 話し手 と いっしょに ゆるく 歩 を 運ば して 行く 。
わたくし||なな|||とし||こだわ|ひきさ れて|しまい ました|みちや|せんせい||||はなして||||ふ||はこば||いく
||||||||detained|||||||||||||||
「 あと で 聞く と 官 金 を 消費 した んだ そうで ―― その 時 は なんにも 知りません でした 。
||きく||かん|きむ||しょうひ|||そう で||じ|||しり ませ ん|
母 に きく と 、 おとっさん は 今に 帰る 、 今に 帰る と 云ってました 。
はは||||お とっさ ん||いまに|かえる|いまに|かえる||うん って ました
||||father|||||||
―― しかし とうとう 帰って 来ません 。
||かえって|き ませ ん
帰ら ない はずです 。
かえら||
肺病 に なって 、 牢屋 の なか で 死んで しまった んです 。
はいびょう|||ろうや||||しんで||
それ も ずっと あと で 聞きました 。
|||||きき ました
母 は 家 を 畳んで 村 へ 引き込みました 。
はは||いえ||たたんで|むら||ひきこみ ました
|||||||pulled in
……」 向 から 威勢 の いい 車 が 二 梃 束 髪 の 女 を 乗せて くる 。
むかい||いせい|||くるま||ふた|てこ|たば|かみ||おんな||のせて|
二 人 は ちょっと よける 。
ふた|じん|||
話 は とぎれる 。
はなし||
「 先生 」「 何 です か 」「 だから 私 に は 肺病 の 遺伝 が ある んです 。
せんせい|なん||||わたくし|||はいびょう||いでん|||
駄目です 」「 医者 に 見せた です か 」「 医者 に は ―― 見せません 。
だめです|いしゃ||みせた|||いしゃ|||みせ ませ ん
見せたって 見せ なくったって 同じ 事 です 」「 そりゃ 、 いけない 。
みせた って|みせ|な くった って|おなじ|こと|||
肺病 だって 癒 らん と は 限ら ない 」 高柳 君 は 気味 の 悪い 笑い を 洩らした 。
はいびょう||いや||||かぎら||たかやなぎ|きみ||きみ||わるい|わらい||もらした
時雨 が はらはら と 降って 来る 。
しぐれ||||ふって|くる
から たち 寺 の 門 の 扉 に 碧 巌 録 提唱 と 貼り つけた 紙 が 際立って 白く 見える 。
||てら||もん||とびら||みどり|いわお|ろく|ていしょう||はり||かみ||きわだって|しろく|みえる
|||||||||blue rock||||||||||
女学校 から 生徒 が ぞろぞろ 出て くる 。
じょがっこう||せいと|||でて|
赤 や 、 紫 や 、 海老 茶 の 色 が 往来 へ ちらばる 。
あか||むらさき||えび|ちゃ||いろ||おうらい||
|||||||||||scattered about
「 先生 、 罪悪 も 遺伝 する もの でしょう か 」 と 女 学生 の 間 を 縫い ながら 歩 を 移し つつ 高柳 君 が 聞く 。
せんせい|ざいあく||いでん||||||おんな|がくせい||あいだ||ぬい||ふ||うつし||たかやなぎ|きみ||きく
「 そんな 事 が ある もの です か 」「 遺伝 は し ない でも 、 私 は 罪人 の 子 です 。
|こと||||||いでん|||||わたくし||ざいにん||こ|
切ない です 」「 それ は 切ない に 違いない 。
せつない||||せつない||ちがいない
しかし 忘れ なくっちゃ いけない 」 警察 署 から 手錠 を はめた 囚人 が 二 人 、 巡査 に 護送 されて 出て くる 。
|わすれ|||けいさつ|しょ||てじょう|||しゅうじん||ふた|じん|じゅんさ||ごそう|さ れて|でて|
時雨 が 囚人 の 髪 に かかる 。
しぐれ||しゅうじん||かみ||
drizzle||||||
「 忘れて も 、 すぐ 思い出します 」 道也 先生 は 少し 大きな 声 を 出した 。
わすれて|||おもいだし ます|みちや|せんせい||すこし|おおきな|こえ||だした
「 しかし あなた の 生涯 は 過去 に ある んです か 未来 に ある んです か 。
|||しょうがい||かこ|||||みらい||||
君 は これ から 花 が 咲く 身 です よ 」「 花 が 咲く 前 に 枯れる んです 」「 枯れる 前 に 仕事 を する んです 」 高柳 君 は だまって いる 。
きみ||||か||さく|み|||か||さく|ぜん||かれる||かれる|ぜん||しごと||||たかやなぎ|きみ|||
過去 を 顧みれば 罪 である 。
かこ||かえりみれば|ざい|
||looking back||
未来 を 望めば 病気 である 。
みらい||のぞめば|びょうき|
現在 は 麺 麭 ( パン ) の ため に する 写 字 である 。
げんざい||めん|ほう|ぱん|||||うつ|あざ|
道也 先生 は 高柳 君 の 耳 の 傍 へ 口 を 持って 来て 云った 。
みちや|せんせい||たかやなぎ|きみ||みみ||そば||くち||もって|きて|うん った
「 君 は 自分 だけ が 一 人 坊っち だ と 思う かも 知れ ない が 、 僕 も 一 人 坊っち です よ 。
きみ||じぶん|||ひと|じん|ぼう っち|||おもう||しれ|||ぼく||ひと|じん|ぼう っち||
一 人 坊っち は 崇高な もの です 」 高柳 君 に は この 言葉 の 意味 が わから なかった 。
ひと|じん|ぼう っち||すうこうな|||たかやなぎ|きみ||||ことば||いみ|||
「 わかった です か 」 と 道也 先生 が きく 。
||||みちや|せんせい||
「 崇高 ―― なぜ ……」「 それ が 、 わから なければ 、 とうてい 一 人 坊っち で は 生きて いられません 。
すうこう|||||||ひと|じん|ぼう っち|||いきて|いら れ ませ ん
―― 君 は 人 より 高い 平面 に いる と 自信 し ながら 、 人 が その 平面 を 認めて くれ ない ため に 一 人 坊っち な のでしょう 。
きみ||じん||たかい|へいめん||||じしん|||じん|||へいめん||みとめて|||||ひと|じん|ぼう っち||
しかし 人 が 認めて くれる ような 平面 ならば 人 も 上って くる 平面 です 。
|じん||みとめて|||へいめん||じん||のぼって||へいめん|
芸者 や 車 引 に 理 会さ れる ような 人格 なら 低い に きまってます 。
げいしゃ||くるま|ひ||り|かいさ|||じんかく||ひくい||きまって ます
||||||meeting|||||||must be low
それ を 芸者 や 車 引 も 自分 と 同等な もの と 思い込んで しまう から 、 先方 から 見くびら れた 時 腹 が 立ったり 、 煩 悶 する のです 。
||げいしゃ||くるま|ひ||じぶん||どうとうな|||おもいこんで|||せんぽう||みくびら||じ|はら||たったり|わずら|もん||
|||||||||equal|||||||||||||||||
もし あんな もの と 同等 なら 創作 を したって 、 やっぱり 同等の 創作 しか 出来 ない 訳 だ 。
||||どうとう||そうさく||||どうとうの|そうさく||でき||やく|
同等で なければ こそ 、 立派な 人格 を 発揮 する 作物 も 出来る 。
どうとうで|||りっぱな|じんかく||はっき||さくもつ||できる
equal||||||||||
立派な 人格 を 発揮 する 作物 が 出来 なければ 、 彼ら から は 見くびら れる の は もっともでしょう 」「 芸者 や 車 引 は どうでも いい です が ……」「 例 は だれ だって 同じ 事 です 。
りっぱな|じんかく||はっき||さくもつ||でき||かれら|||みくびら|||||げいしゃ||くるま|ひ||||||れい||||おなじ|こと|
||||||||||||||||only natural||||||||||||||||
同じ 学校 を 同じに 卒業 した 者 だって 変り は ありません 。
おなじ|がっこう||どうじに|そつぎょう||もの||かわり||あり ませ ん
同じ 卒業 生 だ から 似た もの だろう と 思う の は 教育 の 形式 が 似て いる の を 教育 の 実体 が 似て いる もの と 考え 違 した 議論 です 。
おなじ|そつぎょう|せい|||にた||||おもう|||きょういく||けいしき||にて||||きょういく||じったい||にて||||かんがえ|ちが||ぎろん|
同じ 大学 の 卒業 生 が 同じ 程度 の もの であったら 、 大学 の 卒業 生 は ことごとく 後世 に 名 を 残す か 、 または ことごとく 消えて しまわ なくって は なら ない 。
おなじ|だいがく||そつぎょう|せい||おなじ|ていど||||だいがく||そつぎょう|せい|||こうせい||な||のこす||||きえて||なく って|||
自分 こそ 後世 に 名 を 残そう と 力む ならば 、 た とい 同じ 学校 の 卒業 生 に も せよ 、 ほか の もの は 残ら ない のだ と 云 う 事 を 仮定 して か から なければ なります まい 。
じぶん||こうせい||な||のこそう||りきむ||||おなじ|がっこう||そつぎょう|せい||||||||のこら||||うん||こと||かてい|||||なり ます|
すでに その 仮定 が ある なら 自分 と 、 ほか の 人 と は 同様の 学士 である に も かかわら ず すでに 大 差別 が ある と 自認 した 訳 じゃ ありません か 。
||かてい||||じぶん||||じん|||どうようの|がくし|||||||だい|さべつ||||じにん||やく||あり ませ ん|
大 差別 が ある と 自任 し ながら 他 が 自分 を 解して くれ ん と 云って 煩 悶 する の は 矛盾 です 」「 それ で 先生 は 後世 に 名 を 残す お つもり で やって いらっしゃる んです か 」「 わたし の は 少し 、 違います 。
だい|さべつ||||じにん|||た||じぶん||かいして||||うん って|わずら|もん||||むじゅん||||せんせい||こうせい||な||のこす|||||||||||すこし|ちがい ます
|||||to consider oneself|||||||||||||||||||||||later generations||||||||||||||||
今 の 議論 は あなた を 本位 に して 立てた 議論 です 。
いま||ぎろん||||ほんい|||たてた|ぎろん|
立派な 作物 を 出して 後世 に 伝えたい と 云 うの が 、 あなた の 御 希望 の ようだ から 御 話し を した のです 」「 先生 の が 承る 事 が 出来る なら 、 教えて 頂けます まい か 」「 わたし は 名前 なんて あて に なら ない もの は どう で も いい 。
りっぱな|さくもつ||だして|こうせい||つたえ たい||うん|||||ご|きぼう||||ご|はなし||||せんせい|||うけたまわる|こと||できる||おしえて|いただけ ます|||||なまえ|||||||||||
|crops|||||||||||||||||||||||||||||||can teach||||||||||||||||
ただ 自分 の 満足 を 得る ため に 世 の ため に 働く のです 。
|じぶん||まんぞく||える|||よ||||はたらく|
結果 は 悪 名 に なろう と 、 臭 名 に なろう と 気 狂 に なろう と 仕方 が ない 。
けっか||あく|な||||くさ|な||||き|くる||||しかた||
ただ こう 働か なくって は 満足 が 出来 ない から 働く まで の 事 です 。
||はたらか|なく って||まんぞく||でき|||はたらく|||こと|
こう 働か なくって 満足 が 出来 ない ところ を もって 見る と 、 これ が 、 わたし の 道 に 相違 ない 。
|はたらか|なく って|まんぞく||でき|||||みる||||||どう||そうい|
人間 は 道 に 従う より ほか に やり よう の ない もの だ 。
にんげん||どう||したがう|||||||||
人間 は 道 の 動物 である から 、 道 に 従う の が 一 番 貴い のだろう と 思って います 。
にんげん||どう||どうぶつ|||どう||したがう|||ひと|ばん|とうとい|||おもって|い ます
||||||||||||||most valuable||||
道 に 従う 人 は 神 も 避け ねば なら ん のです 。
どう||したがう|じん||かみ||さけ||||
岩崎 の 塀 なんか 何でもない 。
いわさき||へい||なんでもない
ハハハハ 」 剥げ かかった 山高 帽 を 阿弥陀 に 被って 毛 繻子 張り の 蝙蝠 傘 を さした 、 一 人 坊っち の 腰 弁当 の 細長い 顔 から 後光 が さした 。
|はげ||やまたか|ぼう||あみだ||おおって|け|しゅす|はり||こうもり|かさ|||ひと|じん|ぼう っち||こし|べんとう||ほそながい|かお||ごこう||
||||||Amitabha||||silk|||||||||||||||||||
高柳 君 は はっと 思う 。
たかやなぎ|きみ|||おもう
往来 の もの は 右 へ 左 へ 行く 。
おうらい||||みぎ||ひだり||いく
往来 の 店 は 客 を 迎え 客 を 送る 。
おうらい||てん||きゃく||むかえ|きゃく||おくる
電車 は 出来る だけ 人 を 載せて 東西 に 走る 。
でんしゃ||できる||じん||のせて|とうざい||はしる
織る が ごとき 街 の 中 に 喪 家 の 犬 の ごとく 歩む 二 人 は 、 免職 に なり たて の 属 官 と 、 堕落 した 青 書生 と 見える だろう 。
おる|||がい||なか||も|いえ||いぬ|||あゆむ|ふた|じん||めんしょく|||||ぞく|かん||だらく||あお|しょせい||みえる|
|||||||||||||||||dismissal||||||||||||||
見えて も 仕方 が ない 。
みえて||しかた||
道也 は それ で たくさんだ と 思う 。
みちや||||||おもう
周作 は それ で は なら ぬ と 思う 。
しゅうさく||||||||おもう
二 人 は 四 丁目 の 角 で わかれた 。
ふた|じん||よっ|ちょうめ||かど||
||||||||parted ways