LibriVOX 04 - Japanese, (2) Shikino e - 子規の画 (Sōseki Natsume - 夏目漱石)
(2) Shikino e - 子規の画 (Sōseki Natsume - 夏目漱石)
革命 前 だった か 、 革命 後 だった か 、―― いや 、 あれ は 革命 前 で は ない 。
なぜ また 革命 前 で は ない か と 言えば 、 僕 は 当時 小 耳 に 挟んだ ダンチェンコ の 洒落 を 覚えて いる から である 。
ある 蒸し暑い 雨 も よい の 夜 、 舞台 監督 の T 君 は 、 帝 劇 の 露 台 に 佇み ながら 、 炭酸 水 の コップ を 片手 に 詩人 の ダンチェンコ と 話して いた 。
あの 亜麻 色 の 髪 の 毛 を した 盲目 詩人 の ダンチェンコ と である 。
「 これ も やっぱり 時勢 です ね 。
はるばる 露 西 亜 の グランド ・ オペラ が 日本 の 東京 へ やって 来る と 言う の は 。」
「 それ は ボルシェヴィッキ は カゲキ 派 です から 。」
この 問答 の あった の は 確か 初日 から 五 日 目 の 晩 、―― カルメン が 舞台 へ 登った 晩 である 。
僕 は カルメン に 扮する はずの イイナ ・ ブルスカアヤ に 夢中に なって いた 。
イイナ は 目 の 大きい 、 小 鼻 の 張った 、 肉 感 の 強い 女 である 。
僕 は 勿論 カルメン に 扮する イイナ を 観る こと を 楽しみに して いた 、 が 、 第 一幕 が 上った の を 見る と 、 カルメン に 扮した の は イイナ で は ない 。
水色 の 目 を した 、 鼻 の 高い 、 何とか 云 う 貧相な 女優 である 。
僕 は T 君 と 同じ ボックス に タキシイド の 胸 を 並べ ながら 、 落胆 し ない 訣 に は 行か なかった 。
「 カルメン は 僕等 の イイナ じゃ ない ね 。」
「 イイナ は 今夜 は 休み だ そうだ 。
その 原因 が また 頗 る ロマンティックで ね 。
――」 「 どうした ん だ ?
」 「 何とか 云 う 旧 帝国 の 侯爵 が 一 人 、 イイナ の あと を 追っかけて 来て ね 、 おととい 東京 へ 着いた んだ そうだ 。
ところが イイナ は いつのまにか 亜米利加 人 の 商人 の 世話に なって いる 。
そい つ を 見た 侯爵 は 絶望 した んだ ね 、 ゆうべ ホテル の 自分 の 部屋 で 首 を 縊って 死 ん じ まったん だ そうだ 。」
僕 は この 話 を 聞いて いる うち に 、 ある 場 景 を 思い出した 。
それ は 夜 の 更けた ホテル の 一室 に 大勢 の 男女 に 囲ま れた まま 、 トランプ を 弄んで いる イイナ である 。
黒 と 赤 と の 着物 を 着た イイナ は ジプシイ 占い を して いる と 見え 、 T 君 に ほほ笑み かけ ながら 、「 今度 は あなた の 運 を 見て 上げましょう 」 と 言った 。
語 を 知ら ない 僕 は 勿論 十二 箇国 の 言葉 に 通じた T 君 に 翻訳 して 貰う ほか は ない 。
b それ から トランプ を まくって 見た 後 、「 あなた は あの 人 より も 幸福です よ 。
あなた の 愛する 人 と 結婚 出来ます 」 と 言った 。
あの 人 と 云 うの は イイナ の 側 に 誰 か と 話して いた 露 西 亜人 である 。
僕 は 不幸に も 「 あの 人 」 の 顔 だの 服装 だ の を 覚えて いない 。
わずかに 僕 が 覚えて いる の は 胸 に 挿して いた 石 竹 だけ である 。
イイナ の 愛 を 失った ため に 首 を 縊って 死んだ と 云 うの は あの 晩 の 「 あの 人 」 で は なかった であろう か ?
…… 「 それ じゃ 今夜 は 出 ない はずだ 。」
「 好い加減に 外 へ 出て 一 杯 やる か ?
」 T 君 も 勿論 イイナ 党 である 。
「 まあ 、 もう 一幕 見て 行こう じゃ ない か ?
」 僕等 が ダンチェンコ と 話したり した の は 恐らくは この 幕 合い だった のであろう 。
次の 幕 も 僕等 に は 退屈だった 。
しかし 僕等 が 席 に ついて まだ 五 分 と たた ない うち に 外国 人 が 五六 人 ちょうど 僕等 の 正面 に 当る 向 う 側 の ボックス へ は いって 来た 。
しかも 彼等 の まっ先 に 立った の は 紛れ も ない イイナ ・ ブルスカアヤ である 。
イイナ は ボックス の 一 番 前 に 坐り 、 孔雀 の 羽根 の 扇 を 使い ながら 、 悠々と 舞台 を 眺め 出した 。
のみ なら ず 同伴 の 外国 人 の 男女 と の 亜米利加 人 も 交って いた のであろう 。
b 愉快 そうに 笑ったり 話したり し 出した 。
「 イイナ だ ね 。」
「 うん 、 イイナ だ 。」
僕等 は とうとう 最後 の 幕 まで 、―― カルメン の 死骸 を 擁した ホセ が 、「 カルメン !
カルメン !
」 と 慟哭 する まで 僕等 の ボックス を 離れ なかった 。
それ は 勿論 舞台 より も イイナ ・ ブルスカアヤ を 見て いた ため である 。
この 男 を 殺した こと を 何とも 思って いない らしい 露 西 亜 の カルメン を 見て いた ため である 。
××× それ から 二三 日 たった ある 晩 、 僕 は ある レストラン の 隅 に T 君 と テエブル を 囲んで いた 。
「 君 は イイナ が あの 晩 以来 、 確か 左 の 薬指 に 繃帯 して いた のに 気 が ついて いる かい ?
」 「 そう 云 えば 繃帯 して いた ようだ ね 。」
「 イイナ は あの 晩 ホテル へ 帰る と 、……」 「 駄目だ よ 、 君 、 それ を 飲んじゃ 。」
僕 は T 君 に 注意 した 。
薄い 光 の さした グラス の 中 に は まだ 小さい 黄金虫 が 一 匹 、 仰向け に なって もがいて いた 。
T 君 は 白 葡萄 酒 を 床 へ こぼし 、 妙な 顔 を して つけ加えた 。
「 皿 を 壁 へ 叩きつけて ね 、 その また 欠 片 を カスタネット の 代り に して ね 、 指 から 血 の 出る の も かまわ ず に ね 、……」 「 カルメン の ように 踊った の かい ?
」 そこ へ 僕等 の 興奮 と は 全然 つり合わ ない 顔 を した 、 頭 の 白い 給仕 が 一 人 、 静 に 鮭 の 皿 を 運んで 来た 。
……
(2) Shikino e - 子規の画 (Sōseki Natsume - 夏目漱石)
shikino||こ ただし の が|sōseki|natsume|なつめ そうせき
(2) Shikino e - Shiki no ga (Sōseki Natsume - Natsume Soseki)
革命 前 だった か 、 革命 後 だった か 、―― いや 、 あれ は 革命 前 で は ない 。
かくめい|ぜん|||かくめい|あと||||||かくめい|ぜん|||
なぜ また 革命 前 で は ない か と 言えば 、 僕 は 当時 小 耳 に 挟んだ ダンチェンコ の 洒落 を 覚えて いる から である 。
||かくめい|ぜん||||||いえば|ぼく||とうじ|しょう|みみ||はさんだ|||しゃれ||おぼえて|||
ある 蒸し暑い 雨 も よい の 夜 、 舞台 監督 の T 君 は 、 帝 劇 の 露 台 に 佇み ながら 、 炭酸 水 の コップ を 片手 に 詩人 の ダンチェンコ と 話して いた 。
|むしあつい|あめ||||よ|ぶたい|かんとく||t|きみ||みかど|げき||ろ|だい||たたずみ||たんさん|すい||こっぷ||かたて||しじん||||はなして|
あの 亜麻 色 の 髪 の 毛 を した 盲目 詩人 の ダンチェンコ と である 。
|あま|いろ||かみ||け|||もうもく|しじん||||
「 これ も やっぱり 時勢 です ね 。
|||じせい||
はるばる 露 西 亜 の グランド ・ オペラ が 日本 の 東京 へ やって 来る と 言う の は 。」
|ろ|にし|あ||ぐらんど|おぺら||にっぽん||とうきょう|||くる||いう||
「 それ は ボルシェヴィッキ は カゲキ 派 です から 。」
|||||は||
この 問答 の あった の は 確か 初日 から 五 日 目 の 晩 、―― カルメン が 舞台 へ 登った 晩 である 。
|もんどう|||||たしか|しょにち||いつ|ひ|め||ばん|||ぶたい||のぼった|ばん|
僕 は カルメン に 扮する はずの イイナ ・ ブルスカアヤ に 夢中に なって いた 。
ぼく||||ふんする|||||むちゅうに||
イイナ は 目 の 大きい 、 小 鼻 の 張った 、 肉 感 の 強い 女 である 。
||め||おおきい|しょう|はな||はった|にく|かん||つよい|おんな|
僕 は 勿論 カルメン に 扮する イイナ を 観る こと を 楽しみに して いた 、 が 、 第 一幕 が 上った の を 見る と 、 カルメン に 扮した の は イイナ で は ない 。
ぼく||もちろん|||ふんする|||みる|||たのしみに||||だい|ひとまく||のぼった|||みる||||ふんした||||||
水色 の 目 を した 、 鼻 の 高い 、 何とか 云 う 貧相な 女優 である 。
みずいろ||め|||はな||たかい|なんとか|うん||ひんそうな|じょゆう|
僕 は T 君 と 同じ ボックス に タキシイド の 胸 を 並べ ながら 、 落胆 し ない 訣 に は 行か なかった 。
ぼく||t|きみ||おなじ|ぼっくす||||むね||ならべ||らくたん|||けつ|||いか|
「 カルメン は 僕等 の イイナ じゃ ない ね 。」
||ぼくら|||||
「 イイナ は 今夜 は 休み だ そうだ 。
||こんや||やすみ||そう だ
その 原因 が また 頗 る ロマンティックで ね 。
|げんいん|||すこぶる||ろまんてぃっくで|
――」 「 どうした ん だ ?
」 「 何とか 云 う 旧 帝国 の 侯爵 が 一 人 、 イイナ の あと を 追っかけて 来て ね 、 おととい 東京 へ 着いた んだ そうだ 。
なんとか|うん||きゅう|ていこく||こうしゃく||ひと|じん|||||おっかけて|きて|||とうきょう||ついた||そう だ
ところが イイナ は いつのまにか 亜米利加 人 の 商人 の 世話に なって いる 。
||||あめりか|じん||しょうにん||せわに||
そい つ を 見た 侯爵 は 絶望 した んだ ね 、 ゆうべ ホテル の 自分 の 部屋 で 首 を 縊って 死 ん じ まったん だ そうだ 。」
|||みた|こうしゃく||ぜつぼう|||||ほてる||じぶん||へや||くび||えい って|し|||||そう だ
僕 は この 話 を 聞いて いる うち に 、 ある 場 景 を 思い出した 。
ぼく|||はなし||きいて|||||じょう|けい||おもいだした
それ は 夜 の 更けた ホテル の 一室 に 大勢 の 男女 に 囲ま れた まま 、 トランプ を 弄んで いる イイナ である 。
||よ||ふけた|ほてる||いっしつ||おおぜい||だんじょ||かこま|||とらんぷ||もてあそんで|||
黒 と 赤 と の 着物 を 着た イイナ は ジプシイ 占い を して いる と 見え 、 T 君 に ほほ笑み かけ ながら 、「 今度 は あなた の 運 を 見て 上げましょう 」 と 言った 。
くろ||あか|||きもの||きた||||うらない|||||みえ|t|きみ||ほほえみ|||こんど||||うん||みて|あげ ましょう||いった
語 を 知ら ない 僕 は 勿論 十二 箇国 の 言葉 に 通じた T 君 に 翻訳 して 貰う ほか は ない 。
ご||しら||ぼく||もちろん|じゅうに|かこく||ことば||つうじた|t|きみ||ほんやく||もらう|||
b それ から トランプ を まくって 見た 後 、「 あなた は あの 人 より も 幸福です よ 。
|||とらんぷ|||みた|あと||||じん|||こうふくです|
あなた の 愛する 人 と 結婚 出来ます 」 と 言った 。
||あいする|じん||けっこん|でき ます||いった
あの 人 と 云 うの は イイナ の 側 に 誰 か と 話して いた 露 西 亜人 である 。
|じん||うん|||||がわ||だれ|||はなして||ろ|にし|あにん|
僕 は 不幸に も 「 あの 人 」 の 顔 だの 服装 だ の を 覚えて いない 。
ぼく||ふこうに|||じん||かお||ふくそう||||おぼえて|
わずかに 僕 が 覚えて いる の は 胸 に 挿して いた 石 竹 だけ である 。
|ぼく||おぼえて||||むね||さして||いし|たけ||
イイナ の 愛 を 失った ため に 首 を 縊って 死んだ と 云 うの は あの 晩 の 「 あの 人 」 で は なかった であろう か ?
||あい||うしなった|||くび||えい って|しんだ||うん||||ばん|||じん|||||
…… 「 それ じゃ 今夜 は 出 ない はずだ 。」
||こんや||だ||
「 好い加減に 外 へ 出て 一 杯 やる か ?
いいかげんに|がい||でて|ひと|さかずき||
」 T 君 も 勿論 イイナ 党 である 。
t|きみ||もちろん||とう|
「 まあ 、 もう 一幕 見て 行こう じゃ ない か ?
||ひとまく|みて|いこう|||
」 僕等 が ダンチェンコ と 話したり した の は 恐らくは この 幕 合い だった のであろう 。
ぼくら||||はなしたり||||おそらくは||まく|あい||
次の 幕 も 僕等 に は 退屈だった 。
つぎの|まく||ぼくら|||たいくつだった
しかし 僕等 が 席 に ついて まだ 五 分 と たた ない うち に 外国 人 が 五六 人 ちょうど 僕等 の 正面 に 当る 向 う 側 の ボックス へ は いって 来た 。
|ぼくら||せき||||いつ|ぶん||||||がいこく|じん||ごろく|じん||ぼくら||しょうめん||あたる|むかい||がわ||ぼっくす||||きた
しかも 彼等 の まっ先 に 立った の は 紛れ も ない イイナ ・ ブルスカアヤ である 。
|かれら||まっ さき||たった|||まぎれ|||||
イイナ は ボックス の 一 番 前 に 坐り 、 孔雀 の 羽根 の 扇 を 使い ながら 、 悠々と 舞台 を 眺め 出した 。
||ぼっくす||ひと|ばん|ぜん||すわり|くじゃく||はね||おうぎ||つかい||ゆうゆうと|ぶたい||ながめ|だした
のみ なら ず 同伴 の 外国 人 の 男女 と の 亜米利加 人 も 交って いた のであろう 。
|||どうはん||がいこく|じん||だんじょ|||あめりか|じん||こう って||
b 愉快 そうに 笑ったり 話したり し 出した 。
|ゆかい|そう に|わらったり|はなしたり||だした
「 イイナ だ ね 。」
「 うん 、 イイナ だ 。」
僕等 は とうとう 最後 の 幕 まで 、―― カルメン の 死骸 を 擁した ホセ が 、「 カルメン !
ぼくら|||さいご||まく||||しがい||ようした|||
カルメン !
」 と 慟哭 する まで 僕等 の ボックス を 離れ なかった 。
|どうこく|||ぼくら||ぼっくす||はなれ|
それ は 勿論 舞台 より も イイナ ・ ブルスカアヤ を 見て いた ため である 。
||もちろん|ぶたい||||||みて|||
この 男 を 殺した こと を 何とも 思って いない らしい 露 西 亜 の カルメン を 見て いた ため である 。
|おとこ||ころした|||なんとも|おもって|||ろ|にし|あ||||みて|||
××× それ から 二三 日 たった ある 晩 、 僕 は ある レストラン の 隅 に T 君 と テエブル を 囲んで いた 。
||ふみ|ひ|||ばん|ぼく|||れすとらん||すみ||t|きみ||||かこんで|
「 君 は イイナ が あの 晩 以来 、 確か 左 の 薬指 に 繃帯 して いた のに 気 が ついて いる かい ?
きみ|||||ばん|いらい|たしか|ひだり||くすりゆび||ほうたい||||き||||
」 「 そう 云 えば 繃帯 して いた ようだ ね 。」
|うん||ほうたい||||
「 イイナ は あの 晩 ホテル へ 帰る と 、……」 「 駄目だ よ 、 君 、 それ を 飲んじゃ 。」
|||ばん|ほてる||かえる||だめだ||きみ|||のんじゃ
僕 は T 君 に 注意 した 。
ぼく||t|きみ||ちゅうい|
薄い 光 の さした グラス の 中 に は まだ 小さい 黄金虫 が 一 匹 、 仰向け に なって もがいて いた 。
うすい|ひかり|||ぐらす||なか||||ちいさい|こがねむし||ひと|ひき|あおむけ||||
T 君 は 白 葡萄 酒 を 床 へ こぼし 、 妙な 顔 を して つけ加えた 。
t|きみ||しろ|ぶどう|さけ||とこ|||みょうな|かお|||つけくわえた
「 皿 を 壁 へ 叩きつけて ね 、 その また 欠 片 を カスタネット の 代り に して ね 、 指 から 血 の 出る の も かまわ ず に ね 、……」 「 カルメン の ように 踊った の かい ?
さら||かべ||たたきつけて||||けつ|かた||||かわり||||ゆび||ち||でる||||||||||おどった||
」 そこ へ 僕等 の 興奮 と は 全然 つり合わ ない 顔 を した 、 頭 の 白い 給仕 が 一 人 、 静 に 鮭 の 皿 を 運んで 来た 。
||ぼくら||こうふん|||ぜんぜん|つりあわ||かお|||あたま||しろい|きゅうじ||ひと|じん|せい||さけ||さら||はこんで|きた
……
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