29.1 或る 女
この 事 が あって から また しばらく の 間 、 倉地 は 葉子 と ただ 二 人 の 孤独に 没頭 する 興味 を 新しく した ように 見えた 。 そして 葉子 が 家 の 中 を いやが上にも 整頓 して 、 倉地 の ため に 住み心地 の いい 巣 を 造る 間 に 、 倉地 は 天気 さえ よければ 庭 に 出て 、 葉子 の 逍遙 を 楽しま せる ため に 精魂 を 尽くした 。 いつ 苔 香 園 と の 話 を つけた もの か 、 庭 の すみ に 小さな 木戸 を 作って 、 その 花園 の 母屋 から ずっと 離れた 小 逕 に 通い うる 仕掛け を したり した 。 二 人 は 時々 その 木戸 を ぬけて 目立た ない ように 、 広々 と した 苔 香 園 の 庭 の 中 を さまよった 。 店 の 人 たち は 二 人 の 心 を 察する ように 、 なるべく 二 人 から 遠ざかる ように つとめて くれた 。 十二 月 の 薔薇 の 花園 は さびしい 廃 園 の 姿 を 目の前 に 広げて いた 。 可憐な 花 を 開いて 可憐な 匂い を 放つ くせ に この 灌木 は どこ か 強い 執着 を 持つ 植木 だった 。 寒 さ に も 霜 に も めげ ず 、 その 枝 の 先 に は まだ 裏 咲き の 小さな 花 を 咲か せよう と もがいて いる らしかった 。 種々な 色 の つぼみ が おおかた 葉 の 散り 尽くした こずえ に まで 残って いた 。 しかし その 花べん は 存分に 霜 に しいたげられて 、 黄色 に 変色 して 互いに 膠着 して 、 恵み 深い 日 の 目 に あって も 開き よう が なくなって いた 。 そんな 間 を 二 人 は 静かな 豊かな 心 で さまよった 。 風 の ない 夕暮れ など に は 苔 香 園 の 表門 を 抜けて 、 紅葉 館 前 の だらだら 坂 を 東 照 宮 の ほう まで 散歩 する ような 事 も あった 。 冬 の 夕方 の 事 とて 人通り は まれで 二 人 が さまよう 道 と して は この上 も なかった 。 葉子 は たまたま 行きあう 女 の 人 たち の 衣装 を 物珍しく ながめ やった 。 それ が どんなに 粗末な 不格好な 、 いでたち であろう と も 、 女 は 自分 以外 の 女 の 服装 を ながめ なければ 満足 でき ない もの だ と 葉子 は 思い ながら それ を 倉地 に いって みたり した 。 つや の 髪 から 衣服 まで を 毎日 の ように 変えて 装わ して いた 自分 の 心持ち に も 葉子 は 新しい 発見 を した ように 思った 。 ほんとう は 二 人 だけ の 孤独に 苦しみ 始めた の は 倉地 だけ で は なかった の か 。 ある 時 に は その さびしい 坂道 の 上下 から 、 立派な 馬車 や 抱え 車 が 続々 坂 の 中段 を 目ざして 集まる の に あう 事 が あった 。 坂 の 中段 から 紅葉 館 の 下 に 当たる 辺 に 導か れた 広い 道 の 奥 から は 、 能楽 の はやし の 音 が ゆかし げ に もれて 来た 。 二 人 は 能楽 堂 で の 能 の 催し が 終わり に 近づいて いる の を 知った 。 同時に そんな 事 を 見た ので その 日 が 日曜日 である 事 に も 気 が ついた くらい 二 人 の 生活 は 世間 から かけ離れて いた 。 ・・
こうした 楽しい 孤独 も しかしながら 永遠に は 続き 得 ない 事 を 、 続か して いて は なら ない 事 を 鋭い 葉子 の 神経 は 目ざとく さ とって 行った 。 ある 日 倉地 が 例 の ように 庭 に 出て 土 いじり に 精 を 出して いる 間 に 、 葉子 は 悪事 でも 働く ような 心持ち で 、 つや に いいつけて 反 古紙 を 集めた 箱 を 自分 の 部屋 に 持って 来 さして 、 いつか 読み も し ないで 破って しまった 木村 から の 手紙 を 選 り 出そう と する 自分 を 見いだして いた 。 いろいろな 形 に 寸断 さ れた 厚い 西 洋紙 の 断片 が 木村 の 書いた 文句 の 断片 を いく つ も いく つ も 葉子 の 目 に さらし 出した 。 しばらく の 間 葉子 は 引きつけられる ように そういう 紙片 を 手当たり次第 に 手 に 取り上げて 読みふけった 。 半 成 の 画 が 美しい ように 断 簡 に は いい 知れ ぬ 情緒 が 見いださ れた 。 その 中 に 正しく 織り込ま れた 葉子 の 過去 が 多少 の 力 を 集めて 葉子 に 逼って 来る ように さえ 思え 出した 。 葉子 は われ に も なく その 思い出 に 浸って 行った 。 しかし それ は 長い 時 が 過ぎる 前 に くずれて しまった 。 葉子 は すぐ 現実 に 取って返して いた 。 そして すべて の 過去 に 嘔 き 気 の ような 不快 を 感じて 箱 ごと 台所 に 持って行く と つや に 命じて 裏庭 で その 全部 を 焼き捨て させて しまった 。 ・・
しかし この 時 も 葉子 は 自分 の 心 で 倉地 の 心 を 思いやった 。 そして それ が どうしても いい 徴候 で ない 事 を 知った 。 それ ばかり で は ない 。 二 人 は 霞 を 食って 生きる 仙人 の ように して は 生きて いられ ない のだ 。 職業 を 失った 倉地 に は 、 口 に こそ 出さ ない が 、 この 問題 は 遠からず 大きな 問題 と して 胸 に 忍ばせて ある の に 違いない 。 事務 長 ぐらい の 給料 で 余 財 が できて いる と は 考えられ ない 。 まして 倉地 の ように 身分 不相応な 金 づ かい を して いた 男 に は なお の 事 だ 。 その 点 だけ から 見て も この 孤独 は 破ら れ なければ なら ぬ 。 そして それ は 結局 二 人 の ため に いい 事 である に 相違 ない 。 葉子 は そう 思った 。 ・・
ある 晩 それ は 倉地 の ほう から 切り出さ れた 。 長い 夜 を 所在な さ そうに 読み も し ない 書物 など を いじ くって いた が 、 ふと 思い出した ように 、・・
「 葉子 。 一 つ お前 の 妹 たち を 家 に 呼ぼう じゃ ない か …… それ から お前 の 子供って いう の も ぜひ ここ で 育てたい もん だ な 。 おれ も 急に 三 人 まで 子 を 失 く したら さびしくって なら ん から ……」・・
飛び立つ ような 思い を 葉子 は いち早く も みごとに 胸 の 中 で 押し しずめて しまった 。 そうして 、・・
「 そう です ね 」・・
と いかにも 興味 なげ に いって ゆっくり と 倉地 の 顔 を 見た 。 ・・
「 それ より あなた の お 子 さん を 一 人 なり 二 人 なり 来て もらったら いかが 。 …… わたし 奥さん の 事 を 思う と いつでも 泣きます ( 葉子 は そう いい ながら もう 涙 を いっぱいに 目 に ためて いた )。 けれど わたし は 生きて る 間 は 奥さん を 呼び戻して 上げて ください なんて …… そんな 偽善 者 じみ た 事 は いいません 。 わたし に は そんな 心持ち は みじんも ありません もの 。 お 気の毒な と いう 事 と 、 二 人 が こう なって しまった と いう 事 と は 別物 です もの ねえ 。 せめて は 奥さん が わたし を 詛い 殺そう と でも して くだされば 少し は 気持ち が いい んだ けれども 、 しとやかに して お 里 に 帰って いらっしゃる と 思う と つい 身 に つまされて しまいます 。 だからといって わたし は 自分 が 命 を なげ出して 築き上げた 幸福 を 人 に 上げる 気 に は なれません 。 あなた が わたし を お 捨て に なる まで は ね 、 喜んで わたし は わたし を 通す んです 。 …… けれども お 子 さん なら わたし ほんとうに ちっとも 構い は し ない 事 よ 。 どう お 呼び寄せ に なって は ? 」・・
「 ばかな 。 今さら そんな 事 が できて たまる か 」 倉地 は かんで 捨てる ように そう いって 横 を 向いて しまった 。 ほんとう を いう と 倉地 の 妻 の 事 を いった 時 に は 葉子 は 心 の 中 を そのまま いって いた のだ 。 その 娘 たち の 事 を いった 時 に は まざまざ と した 虚 言 を ついて いた のだ 。 葉子 の 熱意 は 倉地 の 妻 を におわせる もの は すべて 憎かった 。 倉地 の 家 の ほう から 持ち 運ば れた 調度 すら 憎かった 。 まして その 子 が 呪わ しく なくって どう しよう 。 葉子 は 単に 倉地 の 心 を 引いて みたい ばかりに 怖 々 ながら 心 に も ない 事 を いって みた のだった 。 倉地 の かんで 捨てる ような 言葉 は 葉子 を 満足 さ せた 。 同時に 少し 強 すぎる ような 語調 が 懸念 で も あった 。 倉地 の 心底 を すっかり 見て取った と いう 自信 を 得た つもりで いながら 、 葉子 の 心 は 何 か 機 に つけて こう ぐらついた 。 ・・
「 わたし が ぜひ と いう んだ から 構わ ない じゃ ありません か 」・・
「 そんな 負け惜しみ を いわ んで 、 妹 たち なり 定子 なり を 呼び寄せよう や 」・・
そう いって 倉地 は 葉子 の 心 を すみずみ まで 見抜いて る ように 、 大きく 葉子 を 包みこむ ように 見 やり ながら 、 いつも の 少し 渋い ような 顔 を して ほほえんだ 。 ・・
葉子 は いい 潮時 を 見計らって 巧みに も 不 承 不 承 そうに 倉地 の 言葉 に 折れた 。 そして 田島 の 塾 から いよいよ 妹 たち 二 人 を 呼び寄せる 事 に した 。 同時に 倉地 は その 近所 に 下宿 する の を 余儀なく さ れた 。 それ は 葉子 が 倉地 と の 関係 を まだ 妹 たち に 打ち明けて なかった から だ 。 それ は もう 少し 先 に 適当な 時機 を 見計らって 知らせる ほう が いい と いう 葉子 の 意見 だった 。 倉地 に も それ に 不服 は なかった 。 そして 朝 から 晩 まで 一緒に 寝起き を する より は 、 離れた 所 に 住んで いて 、 気 の 向いた 時 に あう ほう が どれほど 二 人 の 間 の 戯れ の 心 を 満足 さ せる か しれ ない の を 、 二 人 は しばらく の 間 の 言葉 どおり の 同棲 の 結果 と して 認めて いた 。 倉地 は 生活 を ささえて 行く 上 に も 必要である し 、 不休 の 活動 力 を 放射 する に も 必要な ので 解職 に なって 以来 何 か 事業 の 事 を 時々 思い ふけって いる ようだった が 、 いよいよ 計画 が 立った ので それ に 着手 する ため に は 、 当座 の 所 、 人々 の 出入り に 葉子 の 顔 を 見られ ない 所 で 事務 を 取る の を 便宜 と した らしかった 。 その ため に も 倉地 が しばらく なり と も 別居 する 必要 が あった 。 ・・
葉子 の 立場 は だんだん と 固まって 来た 。 十二 月 の 末 に 試験 が 済む と 、 妹 たち は 田島 の 塾 から 少し ばかりの 荷物 を 持って 帰って 来た 。 ことに 貞 世 の 喜び と いって は なかった 。 二 人 は 葉子 の 部屋 だった 六 畳 の 腰 窓 の 前 に 小さな 二 つ の 机 を 並べた 。 今 まで なんとなく 遠慮がちだった つや も 生まれ 代わった ように 快活な はきはき した 少女 に なった 。 ただ 愛子 だけ は 少しも うれし さ を 見せ ないで 、 ただ 慎み深く 素直だった 。 ・・
「 愛 ねえさん うれしい わ ねえ 」・・
貞 世 は 勝ち誇る もの の ごとく 、 縁側 の 柱 に よりかかって じっと 冬枯れ の 庭 を 見つめて いる 姉 の 肩 に 手 を かけ ながら より添った 。 愛子 は 一 所 を またたき も し ない で 見つめ ながら 、・・
「 え ゝ 」・・
と 歯切れ 悪く 答える のだった 。 貞 世 は じれった そうに 愛子 の 肩 を ゆすり ながら 、・・
「 でも ちっとも うれし そうじゃ ない わ 」・・
と 責める ように いった 。 ・・
「 でも うれしい んです もの 」・・
愛子 の 答え は 冷 然 と して いた 。 十 畳 の 座敷 に 持ち込ま れた 行 李 を 明けて 、 よごれ 物 など を 選り分けて いた 葉子 は その 様子 を ちら と 見た ばかりで 腹 が 立った 。 しかし 来た ばかりの もの を たしなめる でも ない と 思って 虫 を 殺した 。 ・・
「 なんて 静かな 所 でしょう 。 塾 より も きっと 静か よ 。 でも こんなに 森 が あっちゃ 夜 に なったら さびしい わ ねえ 。 わたし ひと り で お 便所 に 行ける か しら ん 。 …… 愛 ねえさん 、 そら 、 あす こ に 木戸 が ある わ 。 きっと 隣 の お 庭 に 行ける の よ 。 あの 庭 に 行って も いい の おね え 様 。 だれ の お家 むこう は ? ……」・・
貞 世 は 目 に は いる もの は どれ も 珍しい と いう ように ひと り で しゃべって は 、 葉子 に と も 愛子 に と も なく 質問 を 連発 した 。 そこ が 薔薇 の 花園 である の を 葉子 から 聞か さ れる と 、 貞 世 は 愛子 を 誘って 庭 下駄 を つっかけた 。 愛子 も 貞 世に 続いて そっち の ほう に 出かける 様子 だった 。 ・・
その 物音 を 聞く と 葉子 は もう 我慢 が でき なかった 。 ・・
「 愛さ ん お 待ち 。 お前 さん 方 の もの が まだ 片づいて は いま せ ん よ 。 遊び 回る の は 始末 を して から に なさい な 」・・
愛子 は 従順に 姉 の 言葉 に 従って 、 その 美しい 目 を 伏せ ながら 座敷 の 中 に は いって 来た 。