49. 或る 女
手術 を 受けて から 三 日 を 過ぎて いた 。 その 間 非常に 望ましい 経過 を 取って いる らしく 見えた 容態 は 三 日 目 の 夕方 から 突然 激変 した 。 突然の 高熱 、 突然の 腹痛 、 突然の 煩 悶 、 それ は 激しい 驟雨 が 西 風 に 伴われて あらし が かった 天気 模様 に なった その 夕方 の 事 だった 。 ・・
その 日 の 朝 から なんとなく 頭 の 重かった 葉子 は 、 それ が 天候 の ため だ と ばかり 思って 、 しいて そういうふうに 自分 を 説 服して 、 憂慮 を 抑えつけて いる と 、 三 時 ごろ から どんどん 熱 が 上がり 出して 、 それ と 共に 下腹部 の 疼 痛 が 襲って 来た 。 子宮 底 穿 孔 なまじっか 医 書 を 読み かじった 葉子 は すぐ そっち に 気 を 回した 。 気 を 回して は しいて それ を 否定 して 、 一 時 延ばし に 容態 の 回復 を 待ちこがれた 。 それ は しかし むだだった 。 つや が あわてて 当直 医 を 呼んで 来た 時 に は 、 葉子 は もう 生死 を 忘れて 床 の 上 に 身 を 縮み上がら して おいおい と 泣いて いた 。 ・・
医 員 の 報告 で 院長 も 時 を 移さ ず そこ に 駆けつけた 。 応急 の 手 あて と して 四 個 の 氷嚢 が 下腹部 に あてがわ れた 。 葉子 は 寝 衣 が ちょっと 肌 に さわる だけ の 事 に も 、 生命 を ひっぱ たか れる ような 痛 み を 覚えて 思わず き ゃっと 絹 を 裂く ような 叫び声 を たてた 。 見る見る 葉子 は 一 寸 の 身動き も でき ない くらい 疼 痛 に 痛めつけられて いた 。 ・・
激しい 音 を 立てて 戸外 で は 雨 の 脚 が 瓦屋根 を たたいた 。 むし むし する 昼間 の 暑 さ は 急に 冷え冷え と なって 、 にわかに 暗く なった 部屋 の 中 に 、 雨 から 逃げ延びて 来た らしい 蚊 が ぶ ー ん と 長く 引いた 声 を 立てて 飛び回った 。 青白い 薄 闇 に 包まれて 葉子 の 顔 は 見る見る くずれて 行った 。 やせ細って いた 頬 は ことさら げっそり と こけて 、 高々 と そびえた 鼻筋 の 両側 に は 、 落ち くぼんだ 両眼 が 、 中 有 の 中 を 所 きらわ ず おどおど と 何物 か を さがし求める ように 輝いた 。 美しい 弧 を 描いて 延びて いた 眉 は 、 めちゃくちゃに ゆがんで 、 眉間 の 八 の 字 の 所 に 近々 と 寄り集まった 。 かさかさに かわき きった 口 び る から は 吐く 息 気 ばかり が 強く 押し出さ れた 。 そこ に は もう 女 の 姿 は なかった 。 得 体 の わから ない 動物 が もだえ もがいて いる だけ だった 。 ・・
間 を 置いて は さし込んで 来る 痛み …… 鉄 の 棒 を まっ赤 に 焼いて 、 それ で 下 腹 の 中 を 所 きらわ ず えぐり 回す ような [#「 ような 」 は 底 本 で は 「 や う な 」] 痛 み が 来る と 、 葉子 は 目 も 口 も できる だけ 堅く 結んで 、 息 気 も つけ なく なって しまった 。 何 人 そこ に 人 が いる の か 、 それ を 見回す だけ の 気力 も なかった 。 天気 な の か あらし な の か 、 それ も わから なかった 。 稲妻 が 空 を 縫って 走る 時 に は 、 それ が 自分 の 痛み が 形 に なって 現われた ように 見えた 。 少し 痛み が 退く と ほっと 吐息 を して 、 助け を 求める ように そこ に 付いて いる 医 員 に 目 で すがった 。 痛み さえ なおして くれれば 殺されて も いい と いう 心 と 、 とうとう 自分 に 致命 的な 傷 を 負わした と 恨む 心 と が 入り乱れて 、 旋風 の ように から だ じゅう を 通り抜けた 。 倉地 が いて くれたら …… 木村 が いて くれたら …… あの 親切な 木村 が いて くれたら …… そりゃ だめだ 。 もう だめだ 。 …… だめだ 。 貞 世 だって 苦しんで いる んだ 、 こんな 事 で …… 痛い 痛い 痛い …… つや は いる の か ( 葉子 は 思いきって 目 を 開いた 。 目 の 中 が 痛かった ) いる 。 心配 そうな 顔 を して 、…… うそ だ あの 顔 が 何 が 心配 そうな 顔 な もの か …… みんな 他人 だ …… なんの 縁故 も ない 人 たち だ …… みんな のんきな 顔 を して 何事 も せ ず に ただ 見て いる んだ …… この 悩み の 百 分 の 一 で も 知ったら …… あ 、 痛い 痛い 痛い ! 定子 …… お前 は まだ どこ か に 生きて いる の か 、 貞 世 は 死んで しまった のだ よ 、 定子 …… わたし も 死ぬ んだ 死ぬ より も 苦しい 、 この 苦しみ は …… ひどい 、 これ で 死な れる もの か …… こんなに されて 死な れる もの か …… 何 か …… どこ か …… だれ か …… 助けて くれ そうな もの だ のに …… 神様 ! あんまりです ……・・
葉子 は 身 もだえ も でき ない 激痛 の 中 で 、 シーツ まで ぬれ と おる ほど な 油 汗 を からだ じゅう に かき ながら 、 こんな 事 を つぎつぎ に 口走る のだった が 、 それ は もとより 言葉 に は なら なかった 。 ただ 時々 痛い と いう の が むごたらしく 聞こえる ばかりで 、 傷ついた 牛 の ように 叫ぶ ほか は なかった 。 ・・
ひどい 吹き 降り の 中 に 夜 が 来た 。 しかし 葉子 の 容態 は 険悪に なって 行く ばかりだった 。 電灯 が 故障 の ため に 来 ない ので 、 室 内 に は 二 本 の 蝋燭 が 風 に あおら れ ながら 、 薄暗く ともって いた 。 熱 度 を 計った 医 員 は 一 度 一 度 その そば まで 行って 、 目 を そば め ながら 度 盛り を 見た 。 ・・
その 夜 苦しみ 通した 葉子 は 明け がた 近く 少し 痛み から のがれる 事 が できた 。 シーツ を 思いきり つかんで いた 手 を 放して 、 弱 々 と 額 の 所 を なでる と 、 たびたび 看護 婦 が ぬぐって くれた の に も 係わら ず 、 ぬるぬる する ほど 手 も 額 も 油 汗 でし とど に なって いた 。 「 とても 助から ない 」 と 葉子 は 他人事 の ように 思った 。 そう なって みる と 、 いちばん 強い 望み は もう 一 度 倉地 に 会って ただ 一目 その 顔 を 見たい と いう 事 だった 。 それ は しかし 望んで も かなえられる 事 で ない の に 気づいた 。 葉子 の 前 に は 暗い もの が ある ばかりだった 。 葉子 は ほっと ため息 を ついた 。 二十六 年間 の 胸 の 中 の 思い を 一 時 に 吐き出して しまおう と する ように 。 ・・
やがて 葉子 は ふと 思い付いて 目 で つや を 求めた 。 夜通し 看護 に 余念 の なかった つや は 目ざとく それ を 見て 寝床 に 近づいた 。 葉子 は 半分 目つき に 物 を いわ せ ながら 、・・
「 枕 の 下 枕 の 下 」・・
と いった 。 つや が 枕 の 下 を さがす と そこ から 、 手術 の 前 の 晩 に つや が 書き 取った 書き物 が 出て 来た 。 葉子 は 一生懸命な 努力 で つや に それ を 焼いて 捨てろ 、 今 見て いる 前 で 焼いて 捨てろ と 命じた 。 葉子 の 命令 は わかって い ながら 、 つや が 躊躇 して いる の を 見る と 、 葉子 はかっと 腹 が 立って 、 その 怒り に 前後 を 忘れて 起き上がろう と した 。 その ため に 少し なごんで いた 下腹部 の 痛み が 一 時 に 押し寄せて 来た 。 葉子 は 思わず 気 を 失い そうに なって 声 を あげ ながら 、 足 を 縮めて しまった 。 けれども 一生懸命だった 。 もう 死んだ あと に は なんにも 残して おき たく ない 。 なんにも いわ ないで 死のう 。 そういう 気持ち ばかり が 激しく 働いて いた 。 ・・
「 焼いて 」・・
悶絶 する ような 苦しみ の 中 から 、 葉子 は ただ 一言 これ だけ を 夢中に なって 叫んだ 。 つや は 医 員 に 促されて いる らしかった が 、 やがて 一 台 の 蝋燭 を 葉子 の 身近に 運んで 来て 、 葉子 の 見て いる 前 で それ を 焼き 始めた 。 めらめら と 紫色 の 焔 が 立ち上がる の を 葉子 は 確かに 見た 。 ・・
それ を 見る と 葉子 は 心から がっかり して しまった 。 これ で 自分 の 一生 は なんにも なくなった と 思った 。 もう いい …… 誤解 さ れた まま で 、 女王 は 今 死んで 行く …… そう 思う と さすが に 一抹 の 哀愁 が しみじみ と 胸 を こそ い で 通った 。 葉子 は 涙 を 感じた 。 しかし 涙 は 流れて 出 ないで 、 目 の 中 が 火 の ように 熱く なった ばかりだった 。 ・・
また も ひどい 疼 痛 が 襲い 始めた 、 葉子 は 神 の 締め 木 に かけられて 、 自分 の からだ が 見る見る やせて 行く の を 自分 ながら 感じた 。 人々 が 薄気味わる げ に 見守って いる の に も 気 が ついた 。 ・・
それ でも とうとう その 夜 も 明け 離れた 。 ・・
葉子 は 精 も 根 も 尽き 果てよう と して いる の を 感じた 。 身 を 切る ような 痛み さえ が 時々 は 遠い 事 の ように 感じられ 出した の を 知った 。 もう 仕残 して いた 事 は なかった か と 働き の 鈍った 頭 を 懸命に 働か して 考えて みた 。 その 時 ふと 定子 の 事 が 頭 に 浮かんだ 。 あの 紙 を 焼いて しまって は 木部 と 定子 と が あう 機会 は ない かも しれ ない 。 だれ か に 定子 を 頼んで …… 葉子 は あわてふためき ながら その 人 を 考えた 。 ・・
内田 …… そうだ 内田 に 頼もう 。 葉子 は その 時 不思議な なつかし さ を もって 内田 の 生涯 を 思いやった 。 あの 偏 頗 で 頑固で 意地っぱりな 内田 の 心 の 奥 の 奥 に 小さく 潜んで いる 澄み とおった 魂 が 始めて 見える ような 心持ち が した 。 ・・
葉子 は つや に 古藤 を 呼び寄せる ように 命じた 。 古藤 の 兵 営 に いる の は つや も 知っている はずだ 。 古藤 から 内田 に いって もらったら 内田 が 来て くれ ない はず は ある まい 、 内田 は 古藤 を 愛して いる から 。 ・・
それ から 一 時間 苦しみ 続けた 後 に 、 古藤 の 例の 軍服 姿 は 葉子 の 病室 に 現われた 。 葉子 の 依頼 を ようやく 飲みこむ と 、 古藤 は いちずな 顔 に 思い 入った 表情 を たたえて 、 急いで 座 を 立った 。 ・・
葉子 は だれ に と も 何 に と も なく 息 気 を 引き取る 前 に 内田 の 来る の を 祈った 。 ・・
しかし 小石川 に 住んで いる 内田 は なかなか やって 来る 様子 も 見せ なかった 。 ・・
「 痛い 痛い 痛い …… 痛い 」・・
葉子 が 前後 を 忘れ われ を 忘れて 、 魂 を しぼり出す ように こう うめく 悲しげな 叫び声 は 、 大雨 の あと の 晴れやかな 夏 の 朝 の 空気 を かき乱して 、 惨 ま しく 聞こえ 続けた 。 ・・
( 後編 了 )