Section 017 - Kokoro - Soseki Project
私 の 知る 限り 先生 と 奥さん と は 、 仲 の 好 い 夫婦 の 一 対 であった 。 家庭 の 一員 と して 暮した 事 の ない 私 の こと だ から 、 深い 消息 は 無論 解ら なかった けれども 、 座敷 で 私 と 対 坐 して いる 時 、 先生 は 何 か の ついで に 、 下 女 を 呼ば ないで 、 奥さん を 呼ぶ 事 が あった 。 ( 奥さん の 名 は 静 と いった )。 先生 は 「 おい 静 」 と いつでも 襖 の 方 を 振り向いた 。 その 呼び かた が 私 に は 優しく 聞こえた 。 返事 を して 出て 来る 奥さん の 様子 も 甚だ 素直であった 。 ときたま ご馳走 に なって 、 奥さん が 席 へ 現われる 場合 など に は 、 この 関係 が 一層 明らかに 二 人 の 間 に 描き出さ れる ようであった 。
先生 は 時々 奥さん を 伴れて 、 音楽 会 だ の 芝居 だの に 行った 。 それ から 夫婦 づれ で 一 週間 以内 の 旅行 を した 事 も 、 私 の 記憶 に よる と 、 二 、 三 度 以上 あった 。 私 は 箱根 から 貰った 絵 端 書 を まだ 持って いる 。 日光 へ 行った 時 は 紅葉 の 葉 を 一 枚 封じ込めた 郵便 も 貰った 。
当時 の 私 の 眼 に 映った 先生 と 奥さん の 間柄 は まず こんな もの であった 。 その うち に たった 一 つ の 例外 が あった 。 ある 日 私 が いつも の 通り 、 先生 の 玄関 から 案内 を 頼もう と する と 、 座敷 の 方 で だれ か の 話し声 が した 。 よく 聞く と 、 それ が 尋常の 談話 で なくって 、 どうも 言 逆 い らしかった 。 先生 の 宅 は 玄関 の 次 が すぐ 座敷 に なって いる ので 、 格子 の 前 に 立って いた 私 の 耳 に その 言 逆 い の 調子 だけ は ほぼ 分った 。 そうして その うち の 一 人 が 先生 だ と いう 事 も 、 時々 高まって 来る 男 の 方 の 声 で 解った 。 相手 は 先生 より も 低い 音 な ので 、 誰 だ か 判然 し なかった が 、 どうも 奥さん らしく 感ぜられた 。 泣いて いる ようで も あった 。 私 は どうした もの だろう と 思って 玄関 先 で 迷った が 、 すぐ 決心 を して そのまま 下宿 へ 帰った 。